飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」

ロシアを中心に旧ソ連・東欧に関するニュースや時事ネタを分かりやすく解説します。国際ニュースは意外と面白い!

アンナ・ポリトコフスカヤ記者殺害を組織した元内務省中佐逮捕!?

2011年08月27日 10時36分47秒 | Weblog
 プーチン首相を厳しく批判していたノバヤ・ガゼータ紙のアンナ・ポリトコフスカヤ記者殺害事件でロシア連邦捜査委員会は元内務省のパブリュチェンコ中佐を逮捕した。ある人物から記者殺害を命じられ、犯行チームを組織したとされ、事件の真相解明に一歩近づいたと見られている。

 ポリトコフスカヤ記者はチェチェン紛争や政府高官の汚職を取材し、政府の圧力を排除して真相を報道したため、プーチン政権からにらまれていた。2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートに帰ったところを銃撃され、殺害された。

 捜査当局は当初、容疑者10人を逮捕。内務省職員が犯行を計画し、チェチェン人兄弟2人が運転手や見張り役となったとして4人を起訴したが、証拠が不十分だとしてモスクワ地区裁判所は09年2月、全員に無罪判決を言い渡した。これに対し、最高検が判決を不服として最高裁に上告。最高裁は同年7月、地区裁の判決を破棄し、審理を差し戻すという異例の経過をたどっている。

 今回逮捕されたパブリュチェンコ中佐は、事件の目撃者として裁判の証人に立ったことのある人物。黒幕からポリトコフスカヤ記者の殺害を命じられ、犯罪グループを組織、さらに拳銃を調達して実行者に手渡したとされる。だが、殺害を命じた黒幕の氏名は明らかにされていない。

 同中佐の逮捕についてノバヤ・ガゼータ紙のムラトフ編集長は「これは捜査の成功であり、(事件を一貫して追跡してきた)我々の勝利でもある」と評価している。一方、人権擁護運動「モスクワ・ヘルシンキグループ」のアレクセーエワ代表は「政権側は選挙の季節を前に人々を安心させたいのだろう」と語り、政治的意図を匂わせている。

 この事件をめぐっては、政府側が英国に亡命した元政商のベレゾフスキーを黒幕と名指ししたのに対し、元政商は政権側の犯行説を主張している。一時は真相は闇のまま終わるかと見られていたが、ここに来てまた捜査が動き出したのは良い兆候である。国民の司法への不信を払拭するため、政権側には真相を解明する義務がある。
 

 
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サンクトペテルブルク市長代行にKGB出身でプーチン首相の友人!

2011年08月23日 10時45分32秒 | Weblog
 ロシアのメドベージェフ大統領は22日、マトビエンコ・サンクトペテルブルク市長の代行にプーチン首相の友人、ゲオルギー・ポルタフチェンコ氏(58)を任命した。インタファクス通信によると、マトビエンコ女史は上院議長に選出される見通しだ。

 ロシア第二の都市サンクトペテルブルクはメドベージェフ大統領とプーチン首相の出身地で、中央政府・議会の要人を多数輩出している。ポルタフチェンコ氏はアゼルバイジャンの首都バクー生まれだが、旧レニングラード(現サンクトペテルブルク)で育ち、KGB(旧ソ連の治安警察)に入ってプーチン首相と知り合った。93年から99年まで同市の税務警察署長を務め、00年から中央連邦管区の大統領全権代表だった。

 前任のマトビエンコ女史もプーチン首相の側近の一人で、上院への鞍替えのため選挙の洗礼を受けている。議員に当選後、上院議長に選出されることになっている。ポルタフチェンコ氏も近く正式の市長に任命されるのは確実視されている。

 これにより、プーチン首相の基盤は一層強化されるが、ロシア第二の都市の市長が大統領の任命によって決まることへの批判も多い。新生ロシア誕生当初は直接選挙で選出されたが、プーチン大統領時代に共和国大統領、州知事、大都市の市長は大統領の任命制に変更された。リベラル派政党「ヤブロコ」のレズニク・サンクトペテルブルク市代表は「市長を選ぶのに市民480万人の意見が反映されないのはおかしい」とインタファクス通信に語っている。

 プーチン首相が00年、大統領に当選して以来、2期8年の大統領の後、4年近く首相を務め、事実上12年間にわたって実権を握っている。こうした独裁に近い状態に国民の不満が蓄積されつつある。中東革命のような激しい反体制運動は起きないとしても、年末の下院選、来年3月の大統領選で大統領・首相による双頭体制(タンデム)が手痛いしっぺ返しを食わない保証はない。
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ソ連崩壊の引き金となったクーデター未遂事件から早くも20年!!

2011年08月17日 12時05分26秒 | Weblog
 ソ連を崩壊に導いた1991年8月の保守派クーデター未遂事件から20年目の今年、毎日、読売、東京新聞などが特別企画を連載している。これらの企画は、ソ連崩壊から20年たち、ロシアがどう変わったかに焦点を当てたものが多いが、当時モスクワ特派員だった私にとっては、クーデター未遂事件そのものの衝撃が今も忘れられない。そして、なぜこの事件が起きたのか、歴史的にどういう意味を持っていたのかに強く心引かれるのである。

 私はこの年の7月、念願のモスクワ特派員になり、赴任してまだ1カ月もたっていなかった。少し遅れて家族が到着し、船便が我がアパートに着いた翌日、クーデターの幕が上がったのだ。8月19日早朝、モスクワ支局から電話があり、何か大変なことが起こったという連絡が入った。支局には東京本社からの第一報で事件発生が伝えられたが、何が起きたのかははっきりしなかった。とりあえず私はソ連指導部があるクレムリンへ行き、様子を見て来いといわれた。おっとり刀でマイカーを運転して出かけたが、モスクワ市内に変わった様子はなかった。ソ連軍の戦車や装甲車が出動する前で、クレムリンの入り口に立つ門の兵士と話したが、彼らも何も知らされていないようだった。

 支局に戻るとエリツィンが記者会見するという情報が入ってきた。エリツィンはロシア共和国大統領で、ゴルバチョフ・ソ連大統領に対抗する改革派の代表と目されていたが、ソ連軍などの実力部隊に命令する権限はなかった。直ちに会場と言われる所へ行ったが、何もなく、支局に問い合わせると、エリツィンの牙城であるロシア最高会議(現ロシア政府庁舎)に会場が変更されたとの事だった。

 車を飛ばして行くと、多くの外国特派員らが集まりつつあり、騒然とした雰囲気だった。大会議場に入って待つと、青ざめた顔のエリツィンが警護隊などの先導で入場してきた。演説が始まると、エリツィンは大声で「ペレバロート」という単語を繰り返した。そこで初めて私はクーデターが起きたということを知ったのだ。

 会見を終えて外に出ると、最高会議ビルはソ連軍の戦車、装甲車十数両に囲まれ、一変していた。直ぐ支局へ戻って原稿を書かなければと思ったが、我々も監禁状態になり、動きが取れなかった。その時、エリツィンが側近たちと外に出てきて戦車に飛び乗った。そして、「みんなでクーデター阻止に立ち上がろう」と呼びかけ、兵士と握手するとさっと姿を消した。このときのエリツィンは若さにあふれ、圧制の共産主義から国民を守る「民主主義の旗手」という言葉にぴったりだった。

 その後、軍やKGBと民衆との衝突はあったものの、大きな犠牲者も出ずにクーデターは3日間で終了。エリツィンを中心にした改革派が次々に実権を握り、ゴルバチョフはたちまち歴史の舞台から去っていった。1917年の人類初の社会主義革命で誕生したソ連は、事件からわずか4カ月で崩壊した。冷戦の象徴だった「ベルリンの壁崩壊」からおよそ2年後だった。

 ソ連の肝いりで構築された東欧の共産圏は、ベルリンの壁とともにすでに姿を消し、盟主・ソ連の崩壊で世界を二つのブロックに分かれて対立した冷戦体制も終えんしたのである。米国中心の自由主義圏は勝利を謳歌したが、旧ソ連圏はその後、市場経済と悪戦苦闘し、ようやく世界経済に一定の地位を占めるに至ったのである。

 だが、ロシアはいまだに旧ソ連以来の強権主義を引きずっていて「民主化は道半ば」(ゴルバチョフ元ソ連大統領)の状態。経済も資源依存からなかなか脱却できず、先進諸国のハイテク国家には程遠いのが現実だ。その一方、ソ連を知らない若者たちが成人し、英語を駆使して先端技術の世界に入っているものが少なくない。広大な国土と資源に恵まれた国の前途は厳しいが、洋々たる未来が待っていることもまた疑いない。
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ロシアのメドベージェフ陣営、次期大統領選巡りパニック寸前?

2011年08月07日 11時55分30秒 | Weblog
 モスクワの夏は涼しくて過ごしやすいのが定番だったが、森林火災を招いた昨年あたりから暑い夏が続いている。それに輪をかけるように、今夏は次期大統領選を巡ってメドベージェフ大統領陣営とプーチン首相陣営との間で、水面下のホットな戦いが繰り広げられている。

 大学時代の先輩、後輩で双頭体制(タンデム政権)を形成する大統領と首相は当初、お互いに弱い部分を補完し合う理想的な関係だった。ところが、昨年秋ごろから路線を巡る対立が目立ち、来春の大統領選が迫るにつれて両陣営の間の亀裂が広がっている。

 夏に入ると「エリツィン首相が大統領選への出馬準備を急いでいる」などの情報が外国通信社から流れ、再選を目指すメドベージェフ陣営をいらいらさせている。メドベージェフ陣営は、プーチン首相から「お墨付き」をもらって出馬宣言をする戦略だった。ところが、首相は「まだ早すぎる」としてゴーサインを出してくれないばかりか、自ら出馬するような動きを見せているからだ。

 メドベージェフ陣営の疑心暗鬼を強めたのは、プーチン首相が今年5月、与党「統一ロシア」の支持者を拡大するためとして「国民戦線」を創設したことだ。首相は年末の下院選で与党の勝利を確実にするのが目的というが、次期大統領選を控えて与党党首の地位を磐石にする狙いが透けて見えたからだ。
  
 これまでプーチン首相は「大統領と話し合って大統領選の候補者を決める」と言ってきたが、新組織立ち上げの事態にメドベージェフ陣営内部から「首相自身が次期大統領選に出るため本格的に動き出した」との見方が浮上した。「最終的には大統領の再選を支持してくれる」と期待していただけに、突然の“変身”に首相陣営への不信感が渦巻いている。

 大統領はもともと憲法で絶大な権力を認められ、首相を解任する権限も与えられている。そこで「このまま首相のお墨付きがでなければ、大統領が権限を行使して首相を解任する事態に迫られるかもしれない」との見方も出ている(1日付けモスコー・タイムズ紙)。この解任権は大統領選の半年以内まで行使できるとされる。
 
 プーチン首相は本当に立候補する気なのか、それとも脅しなのか。首相はこの件では依然沈黙を守っており、真意は分からない。それだけに、首相の再選へのゴーサインをじっと待つべきか、それとも憲法で与えられた権限を行使して目の上のたんこぶである首相を切るべきか。メドベージェフ陣営は昨年にも増して暑い夏を、ハムレットの心境で過ごしているに違いない。



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