マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『王子に生まれて』(石鍋秀子著)に出会う(その2)

2010年04月25日 | 読書

(一昨日のブログの続き)
 石鍋久寿餅店を切り盛りしてきた石鍋秀子さんは、10数年前から、地元王子の四季折々の行事や生活、家族のこと、友人のこと、戦争時代や戦後のくらしのこと、登山の話などについて綴った記事を、街の小冊子『街から』に寄稿し始めます。それがいつの間にか一冊の本になるほどの分量になり、それを母体にして出来あがったのが『王子に生まれて』です。
 御本人が意図されたかは分かりませんが、このご本、戦前・戦中・戦後を生き抜いてきた女性の一生涯が縦糸として語られ、その時々の家族や街や友人や日常生活が”横糸”として綴られています。
 小学校の卒業が昭和12年。まだ太平洋戦争の跫音が聞こえ始める直前の、少しは長閑な時代の様子が、石鍋さん自身の筆になる絵入りで語られます。お正月・初午・お花見・ままごと・荒川での水泳・夏休み・修学旅行等々、楽しく遊んでいた様子が眼に浮かびます。
 戦争の影が色濃く立ち込め始めると、自分の周りから何人もの人々が去り、帰らぬ人となってしまいました。後年その時の様子を語る段になると、石鍋さんは胸ふさがれる想いになる様で、優しい人柄がうかがえます。
 太平洋戦争の戦火が東京に及び、空襲が激しさを増す頃、お店の前にあった王子警察から「周りに空き地が欲しい」からとの理由で強制撤去命令が来て、家は壊され、石鍋家は家族が3箇所に別れ別れとなってしまい、彼女は福島へ疎開。
 戦争が終了し、やっとの思いで辿りついた王子は一面の焼け野原、瓦礫の街と化していました。私の思い出にも残る風景です。戦後の食糧難の時代にお父様が亡くなられ、ご主人は勤め人ゆえ、彼女が中心になって長い間家業を支え、守り続けます。
 この世代の多くが負わされた過酷な運命。戦争を抜きにしては語り尽くせぬ人生がそこにはありました。
 <その頃の思い出は後遺症のように今も心の中で疼きます。でも、生きていて本当に良かった!という思い出も沢山あります>と述べられ、最後の章に「山も大好き」がありました。
 文章から、主として一人で数々の山に登られた事が推察されますが、ここに登場する山は谷川岳・入笠山・夜叉神峠・北八ヶ岳・奥穂高・鳥海山だけです。これらの山々に出掛けた時の楽しさや親切にされた様子が語られ、最後に次の言葉で結ばれていました。
 <今まで街でも、特に山では人の心の優しさに度々出会った。この御恩に報いる為にも私も人に優しくして上げなければならないと思った>
 
(付記)
 初めて知った幾つかの事を追記します。
 ①著者の住む北区岸町はかって岸村といわれていたが、この地の豪族豊島一族が紀州熊野の「若一王子」を勧請し王子神社としたので、王子と言われる様になった。
 ②王子神社付近の三本杉橋の下から、4500年前の縄文時代の丸木舟が出土した。
 ③八代将軍吉宗が「飛鳥山と王子神社の間を流れる石神井川は、故郷紀州熊野神社のそばを流れる音無川に似ている」と言われたことから、それに因んで音無川・音無橋と呼ばれる様になった。
 事が述べられ
 ④「音無川の上を千川上水が横切っている」
 
絵が挿入されていました。
 
 細部に亘っては一読では理解できない地理的な話が数々あり、特に④は私の大好きなテーマです。この本を抱え、王子近辺を歩き、石鍋商店で葛餅を食して見たいと思います。
 

 

 

 

 


『王子に生まれて』(石鍋秀子著)に出会う(その1)

2010年04月23日 | 読書

 一昨日(4月21日)、珍しく妻が、「西尾中華そば店」(1月10日のブログに登場)へ行きたいと言うので、散歩がてら出掛けました。途中水曜日は閉店である事に気が付き、急遽行き先を王子「White Fox」に変更。駒込から王子まで「北区コミュニティーバス」に乗車しました。


                                                        
(料金100円のコミュニティーバス)


 王子駅直ぐそばの、洋風料理「White Fox」で昼食を終え、「王子稲荷」を目指し歩く道すがら、老舗風の佇まいのお店の前を通りかかりました。御主人らしき人が老婦人と植木に水をやっています。傍らには竹の筒から水が流れ落ちています。湧水ですかとお聞きすると、御主人「違います。でも井戸水です」との事。更に店の外側には、『王子に生まれて』(石鍋秀子著)なる張り紙が。それを眺めていると、くだんの老婦人が「それ私が書いたものです」と。
 そこが「石鍋久寿餅店」である事を知ったのは暫くしてからです。店内を覗いた妻は、お稲荷さんのお参り帰りに買いますと言って、ここを後にしました。
 お参りして後「石鍋商店」に寄りました。私も中に入ると、4・5人の若い女性が甲斐甲斐しく働き、店内で葛餅や豆かん等が食べられるテーブル席も用意され、先ほどの高齢の御婦人が座っておれれます。店内の片隅におかれた棚に『王子に生まれて』が置いてありますので、手に取り、あとがきを読んでみました。
 <私は、関東大震災の翌年、東京府下北豊島郡王子岸町の王子稲荷参道内で明治20年代に創業した石鍋久寿餅蒟蒻製造販売店の長女として生まれました>とあり、目次を見ると「山も大好き」との章もあります。興味を惹かれるテーマが2つ、じっくり読みたくなり早速購入し、座っている石鍋さんに少し聞いて見ました。
 現在85歳になられる石鍋さん、言語明瞭に幾つかの話を聞かせてくれました。王子神社へ登る三本杉橋下から4500年前の縄文時代の丸木舟が出土したこと。太平洋戦争が激しさ増したころ、家の前にあった王子警察から、周りに空き地が欲しいから強制撤去せよと命じられ家が壊された事等々。話が「鳥海山」に差し掛かったところで、お知り合いの御老人が見えられたので、「又伺わせて下さい」と辞去。又お一人お元気な高齢の方に巡り会えました。
 妻が買ってきたものは豆かんと栗蒸し羊羹。どれも安くて非常に美味しいく、二人とも吃驚。著作も読み終えましたので、今度は店内で葛餅を頂きながら、本に書かれた事の幾つかを聞いて見たいと思いました。本の内容は次回のブログで。


『御衣香桜』のその後

2010年04月22日 | 身辺雑記
 散り際には赤くなると聞いていました御衣香桜を、江岸寺に訪ねました。ご住職のお話の様に江岸寺の御衣香桜、赤みを帯びていました。門前を清掃しているTさんにこの桜の話をしますと「有名な桜を多くの人が訪ねます」との事。近くに住む私は”灯台下暗し”だったようです。














賑わう『宮元祭り』

2010年04月20日 | 身辺雑記
 一昨日(4月18日)、天祖神社境内で「宮元睦会」主催の恒例の『宮元祭り』が開かれました。境内参道に沿って数多くの飲食店が軒を並べ、地元「フレーベル少年合唱団」の公演があり、空手形演武も披露されました。好天気に恵まれ、家族連れをはじめ、1500人を超す方々が訪れ、春のイベントを楽しんでいました。





                                                                         

                                                                                         
 主催の「宮元睦会」は地元町内会の一つ「神明上町会」のうち、神輿を担ぐ事を目的とする比較的若い方々で組織されています。有志参加も認められていますので、マーちゃんは2年前からこの会に加えて頂き、『宮元祭り』のお手伝いに参加しています。この「宮元睦会」、神輿を担ぐだけでなく、この様な祭りを主催するほか、「落語観賞会」も企画していて、その為か若い会員が増え戦力がアップしているそうです。
(右:天祖神社鳥居)


                            
 祭りには数軒のフリーマーケットの参加もありますが、自分たちで多くの食べ物を調理し提供しています。焼きそば・フランクフルト・芋煮・カレー・綿アメ・チョコバナナ・等々です。テントを張り、屋台で使われるプロパン付き鉄板もセットします。その他、お客さんの飲食出来るテーブルと椅子の用意もあるので、前日の13時から準備が始まり、当日も朝8時から準備を開始し、11時のスタートに間に合わせます。金魚すくいやゲームコーナーもある本格的屋台村の出現です。
(右:楽しむ人たち)

                                             
 当日、私は「芋煮」のTさんご夫妻のお手伝い。芋煮を煮る大鍋はその昔横浜中華街で使われたものだそうで、これで300人分の芋煮を作ります。鍋は昨日組み立てられた櫓に乗せられ、まずが鳥肉の炒めから料理開始です。大鍋の中に水・野菜・調味料・隠し味の醤油が次々に入れられ、サトイモと味噌を加え、最後にネギを入れます。8時半から開始した調理、祭り開始11時直前に漸く完成です。(右:アルミの大鍋:芋煮300食)
 
 1パイ200円のこの芋煮、美味しいと鍋持参で買いに来てくれる方もいますが、やはり「美味しい芋煮が出来あがっています」と大きな声でお客さんを呼び込みます。これが何とも楽しいのです。知り合いの方が通るとこちらから必ず声を掛けます。義理を感じてか必ず買ってくれます。昨日私は午後用事があり最後までお手伝い出来ませんでしたが、多分300食完売したと思います。


                                               
 もの事が成功するキーワードは「天地人」と言われ、前年度のNHK大河ドラマの題名でもありましたが、4月の好天の日曜という”天の時”を得、広い天祖神社の”地の利”のもと、「宮元睦会」の人々の”人の和”でこの祭り年々発展を遂げています。
(右:綿アメも登場します)

『ぶどうの丘』は雪即快晴だった

2010年04月18日 | 
 4月16日(金)~17日(土)、中学時代の友人6人と『ぶどうの丘』(9月14日のブログに登場)に宿泊し、甲州路の春を楽しんできました。天候の激変もあり、その様子も含めてレポートします。
 行く前から天気予報を何度も見ましたが、何度予報を見てもこの2日間の天候は芳しい予測ではありませんでした。出発する前日の予報では、16日(金)は雨のち雪、17日(土)は雨のち晴れと、雪まで降るとの事。二日目の午後は晴れるかも知れないとの予測に一縷の望みをかけての出発でした。

 16日の朝、予報通りの雨に送られて家を出ました。代々木でクラスメイト2名と待ち合わせ、高尾着は9時40分。既に2名は到着しています。この待ち合わせではハプニングが起こりかねませんでした。私からの連絡は集合は”高尾10時”。しかし”立川”集合と思いこんでいた方と”11時”と思い込んでいた友が各一人いました!年々勘違いの確率が高くなっています。事前にその勘違い回避出来ましたが、連絡を繰り返す必要を痛感しました。

 11時50分「勝沼ぶどう郷駅」(旧駅名勝沼)着。雨は上がっていました。直ぐに「大日陰トンネル」(8月15日のブログに登場)を散策。約1・4Kmの道のりです。トンネル内は予想以上の寒さで、軽い運動にも関わらず汗もかきません。トンネルを抜けたところに建つ無料待合室では寒さ対策にストーブが焚かれていました。そこで各自持参のお弁当で昼食後、他の観光は割愛しタクシーで宿に直行しました。

 宿はアルカリ性の温泉で有名です。「天空の湯」と各部屋でその温泉に浸かる事が出来ます。冷めた身体を入浴して温め、夕食の後”宴会”。夜12時まで続きました。

 天候の激変に最初に気がついたのはBさん。午前2時半、外が明るいのを不思議に思い、外を見ると雪。大粒の牡丹雪が舞い、外は一面の銀世界が拡がっていたそうです。私が朝4時半に目覚め外を覗くと、まだ牡丹雪が降っていました。その瞬間何故か笑ってしまいました。4月半ばの甲斐の国で、天気予報にはありましたが、まさか雪に会おうとは思っても見なかった事。起きてきた友皆、雪に出会えた事を喜んでいるようでした。
 (写真はBさん撮影の雪景色)





 朝7時になると雪は止み、朝食後は晴れてきて太陽も顔を覗かせます。見晴らしの良い丘に立つと、なんと南アルプスが一望できます。白峰三山(北岳・間の岳・農鳥岳)はをはじめ、左手には赤石三山も見渡せます。絶望視していた風景が忽然と現れました。雪から快晴への激変を目の当たりにして、皆興奮し、幸運を感じました。(写真:遥か彼方に白峰三山)
      



 ワイン購買を目的として乗車したコミュニティーバス、なんと「ぶどうの丘」と「ぶどう郷駅」を2往復してから目的地に向かうと言うハプニングにも遭遇しましたが、レストラン「風」で昼食後「塩山」へ。その後タクシーで慈雲寺へ。樋口一葉の父母の眠るこのお寺、イトザクラで有名ですが、既に散っていました。その姿から満開時の素晴らしさが想像できます。(慈雲寺のイトザクラ)      





 帰りは下り坂、桃の花咲く塩山の里をのんびりと歩きました。冬支度の身には暑いほどの陽気になっていましたが、遠く山を望みながら春の花咲く里を散策する、これが今回の旅で出会いたかった風景。幸運にも巡り合えた喜びを噛みしめながら、帰路に着きました。
(写真:華麗なピンク色)

       





     (青空に桃の花が映えていました)


        
(野の仏様:六地蔵)