府警の前には警察官が何名も待機しています。
警備なんでしょう。
ここも昔は、ある犯罪の取り締まりで
2日間、証人として警部と警部補に囲まれて
証言したことがありますなあ。
以前の古い庁舎でしたけどね。
その庁舎を過ぎると、
歩道の真ん中に大きなクスノキが見えてきます。
そこが「大阪舎密局(せいみきょく)跡」です。
これは何なのかといいますと、
物理化学を専攻する人の学校でした。
舎密(せいみ)とはそう、
あのケミカルのケミとよく似た意味で
ついているんですね。
明治二年に開校した時には、
この楠はすでにここに立っていたそうです。
少なくとも150年は立っているんですね。
いろんな巨木を見てきましたが、
そうですねえここのクスノキは
2~300年くらいの木のように思えます。
大阪市内でもお寺や神社にも
大きな木が残っています。
ここんとこしばらく止まっていた
ドジ旅では市内の住吉区、東住吉区、
平野区辺りの巨木巡りを計画しており、
その旅は間もなく始まることに
なる予定ですからお楽しみに~。
そこを過ぎたら谷町筋も通り抜けて
松屋町まで進んでいきます。
そこにあるのが「マイドームおおさか」です。
この施設の南側には3人の銅像が立っています。
「五代」「土居」「稲畑」。
大阪に大きな功績を残してきた人たちだそうです。
それぞれ大阪商工会議所の
会頭をされた方たちなんだそうです。
この銅像の奥にあるのが、
「若宮商工稲荷神社」です。
大阪の将校を支えてきたんでしょうねえ。
この神社の狛犬が面白い。
普通狛犬は「阿吽」の呼吸なんですが、
ここの狛犬は両方とも
口を大きく開けています。
きっと、商売の神様は「吽」ではなく
「阿」でこたえよといったのではないかと、
まあこれは勝手に推察です。
西町奉行所跡の碑は
この辺りにあるのではありません。
皇族が来られた碑の向こうに
建てられてありました。
何でもこの地は、
初代の大阪府庁跡でもあるそうです。
役所跡にはそれらしい建物が
残っていくんですねえ。
平八郎の乱はこっそり進んでいたのに
結構の日は内通離反者が出て、
彼がもといたこの奉行所も
彼らの押さえに回るのですが、
それでもここから天神橋にかけての
米屋や豪商を打ちこわしているそうです。
結局平八郎の乱で
天満を中心にかなりの数の建物が焼け、
大阪の人口36万人のうち、
約7万人が焼け出された
といわれています。
この後はその天神橋に向かって進んでいきます。
ここがその天神橋。
この橋の昔の銘板が
星合の池にあったあの橋ですね。
ここから、川に沿って下っていきますと
難波橋にやってきます。
あの有名な「ライオン」のいる橋ですな。
これ。
じつはこのライオンの兄弟が
和歌山の料理屋にあることがいわれています。
一度見に行かなくてはなりません。
この難波橋のところから
中に入っていきますと。
こんな旧鴻池家の本宅後の碑なんかにも出会います。
そして、この先あったのが、
あの「緒方洪庵」が開いた適塾の跡です。
当日は、なにかテレビの取材があったようで
カメラマンたちがうろうろしていました。
なにか放送があるのかなあ。
やがて道は御堂筋へと出てきます。
ここからスタートした淀屋橋はもうすぐです。
あるいたコースはこんな感じ。
救民を旗印にした「大塩平八郎」の乱は、
こんな大阪市内を巡り歩きました。
30年後の明治維新を予知させるものとして
活躍した彼らの「乱」は
いろんな形で今の世にも
痕跡を残しているということを知った歩きでした。
おわり。
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