ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

これは天下の西大寺 1

2016年03月12日 21時24分16秒 | ウォーキング

さて、今度は奈良を歩いてきました。

少し前に奈良駅から佐保・佐紀路を歩き、
西大寺駅まで歩いたことがあります。

そんな奈良といえば
大勢の観光客のあふれるところですが、
佐保・佐紀路にはほとんど人もおらず、
初めて佐保姫や狭穂姫のことなんかを
しっかり学んだ静かな道でした。

そしてその道は終盤には
あの平城京へと続いていく道で、
古都奈良の風情をたっぷりと
味わったいい道だったと思います。

しかし、その時はあまりに気持ちよくて
のんびり歩いたため、
当初の予定が狂い
西大寺そのものとその周辺の古墳地域までは
歩けずに終わってしまっていました。

今回歩いたのはその残った部分です。

東大寺に並ぶ西大寺と
そこに絡んだいろんな人たちの痕跡が
残された場所です。

いやあ、この関西のこの地に生まれ育って
よかったですねえ。
車でひと時、電車でチョコと動けば、
悠久の歴史の世界に紛れ込んでいくんですねえ。
では、今回は電車で大和西大寺駅を目指しましょう。



スタートは10時30分。
ナビを入れてさあスタートです。

駅を北側におりて、
東の平城京の方へと向かいます。

ここが秋篠川にかかる、





西大寺橋です。



この川の堤防を見ると、
こんな風に「称徳天皇陵」とか



「垂仁天皇皇后狭木之寺間陵」



といった、御陵の案内があります。

西大寺や沙穂姫に関連する人たちのことで、
やはり、佐保・佐紀道の続きのことだけありますね。

この二人は
後でしっかり登場します。
とりあえずはもう少し東の
二条町交差点まで進みましょう。



ここは、道の真ん中に
鎌倉後期の造立と言われる地蔵がある、
ちょっと変わった交差点です。



この交差点を北側に入っていく
狭い道に入っていきましょう。



この道はまっすぐ行くと
かなり細くなってきますが、



そのまま気にせず直進します。

「皇太子殿下御下記念」



と書かれた石碑や



夫婦地蔵らしき石造の立ち並ぶ
地蔵堂を眺めた後に、
左右に緑がいっぱい現れました。





この右側が、先ほど地蔵橋のところにあった
第11代垂仁天皇皇后の御陵です。





以前のブログでいうと垂仁天皇皇后といえば、
確か「狭穂姫」だったはず。

とおもったら、そうですねえ、
狭穂姫は兄の反乱に準じて
稲の炎の中で焼かれ死んだんでしたねえ。

なのでこの御陵の皇后は
狭穂姫の薨去の10年後に
次の皇后となった
「日葉酢媛命」の御陵なのでした。

垂仁天皇はその皇紀が99年もありました。
逝去されたのも日本書紀や古事記では
100数十歳と言われています。

したがってその史実性は疑われてはいますが、
実際に実在したという人もいるそうです。

長期間の天皇として、
大きな力はきっと発揮されたんでしょう。

例えば、景行天皇などを生んだ
日葉酢媛命の墓には、
実は一つ大きな特徴を持たせました。

それが、これまで人や馬の殉死が行われていた御陵に、
はじめて「埴輪」が使われるようになった
という墓にしたそうです。

佐紀路の狭穂姫、
佐紀路に眠る後期皇后「日葉酢媛命」。

歴史のかなたに眠る人々の様々な思いの痕跡が
この辺りにも残っています。



この日葉酢媛命の横が
第13代天皇である

「成務天皇狭城盾列池後陵」です。



日葉酢媛命の孫にあたります。

でもこの天皇も皇紀は60年。
同じく史実性には疑いがもたれています。

まあ、いわば実在が疑問視されているんですが、
それでもこんなに大きな御陵があるということは、
ここに何か偉大なるものがいて
その薨去をみまかったということが
あったんですねえ。

この辺りは、何となく世間とは
切り離されたような雰囲気が漂います。

なにか謎に満ちた、
そして激しい思いの満ちた
歴史の風土をへこへこと歩く
doironなのでした。

続きます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿