おてんきぷらぷら

ホームタウンは三鷹。気ままな旅・街散策にFC東京。

vs 川崎フロンターレ〔J.League Division1 2ndステージ第1節

2015年07月12日 | FC TOKYO
7月11日『川崎フロンターレvsFC東京〔J.League Division1 2ndステージ 第1節〕』
メインスタンド改修した等々力競技場へ初見参。Jリーグ(2ndステージ)は、多摩川ならぬ天の川クラシコで再開。FC東京は、武藤嘉紀の完全移籍後、オーストラリア代表のネイサン・バーンズ選手〔ウェリントン フェニックスFC(ニュージーランド)〕と、サンダサ選手〔ジローナFC(スペイン)〕の二人のFWを補強し、Jリーグ2ndステージを向えました。注目のスタメンFWは、前田、ナオ、東。サブにはネイサンが入りました。ゲームは、前戦からの執拗なディフェンスで堅守が輝き、1点取って“カテナチオ”の美酒を味わえる出来だったのですが、FKなどチャンスあるもののその1点が取れません。後半、川崎に先制、追加点を与えるとチャンスらしいチャンスも見いだせなくなってしまいました。ネイサンと翔哉を入れ局面打開を図ったのですが、この日はゴールは遠かったかな。期待の2ndステージ開幕戦は「2≠O」での敗戦で、1stステージ5位の川崎フロンターレに不覚をとりました。上位チーム相手の戦い方の課題の答えは手探り状態から脱しきれていないよう。新加入メンバーの活躍とチームの進化・深化を願います。



 











ようこそ No.16 ネイサン バーンズ








2nd ステージ 17位からのスタートは上昇するのみ






この方々に下手なコントをさせる必要性って?












天の川クラシコ・マスコット編は愛らしさとパフォーマンスで完全勝利!











TOKYOウォーク2015〔国分寺・府中エリア〕 

2015年07月11日 | Walking
7月11日『TOKYOウォーク2015』第2回大会 国分寺・府中エリアに参加です。
この日は、日本列島・本州を覆った高気圧の影響で気温が上昇し、東京も今年初めて35度以上の猛暑日となりましたが、炎天下の地元国分寺・府中エリアBコース12km。さずがの暑さに疲労感は倍増、正直まいりました。都立武蔵国分寺公園をスタートし、府中街道をひたすら南下、府中刑務所を左手に進み、東京競馬場まで一本道。競馬の趣味はないので入場したことのなかった東京競馬場を覗いてみました。この日は、東京競馬場でのレースはないものの多くの人々、意外にもお子さん連れの皆さんも多く訪れていました。一大パビリオン的な施設は清潔感漂い楽しそう。汗でびっしょりだった体をしばし冷房の効いた競馬場で一息つきました。その後、京王線の踏切を渡り、緑あふれる府中の森公園を抜けて北上、国分寺街道を東京農工大、明星学苑とすすみ、東元町三丁目の信号を左折し、お鷹の道へ。小川が流れホタルがいますの看板に感動。武蔵国分寺をお参りすれば、スタート地点の都立武蔵国分寺公園に戻ってきてゴールというコース。地元でよく知っているコースでしたが、東京競馬場も含め楽しむことができました。只々、暑さにはぐったりで、とろけそうでしたが、満足の第2回TOKYOウォークは、武蔵野のオアシス巡る武蔵野ウォークになりました。









府中刑務所




3億円事件の学園通り




府中市役所“祝 おめでとう なでしこジャパン 夢と感動をありがとう 澤穂希選手”の垂れ幕が




東京競馬場



















JRA競馬博物館








武蔵国分寺













“ラグビーワールドカップ2019JAPAN”バージョンの「ゆとりーと」



祝)世界遺産登録 萩城下町(関連資産ほか)

2015年07月08日 | World Heritage in Japan
7月4~5日Jリーグ無きウィークエンド一人旅。『世界遺産』登録夜明け前の山口・萩へ。
既にイコモスの登録勧告を受けている『明治日本の産業革命遺産』。韓国の執拗な抵抗もあり、当初予定の7月4日に決まらず、翌5日夜更けの世界文化遺産登録となりました。という訳で、4日・5日は世界文化遺産登録まさに直前の史跡巡り。5日、世界文化遺産構成資産『萩城下町』を散策し、その関連資産や「花も燃ゆ大河ドラマ館」など、幕末志士を育んだ維新胎動の地・萩を巡りました。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は全国的には今一つなのでしょうが、さすが地元・萩では町をあげての「花燃ゆ」ブームで、世界遺産登録よりも「花燃ゆ」祭り。ヒロイン吉田松陰の妹・文で一色の感じでした。幕末の志士、男の世界に女性の活躍が脚光を浴びることは、如何にも平成の時代ならではと感じいります。歴史を彩る萩の街ですが、史跡の数もさることながら、いたるところにある銅像や碑も多く散策する者をあきさせないのも萩の特徴かもしれません。それほどまでに限られた地域に幕末志士が生まれ育った証。萩は単なる観光地にあらず、侮れないこと痛感実感することができた小旅行となりました。




【萩城跡】慶長9年(1604)毛利輝元が指月山麗に築城。石垣など往時の姿が窺えます。














【旧厚狭毛利家萩屋敷長屋】厚狭に封地を持つ分家毛利氏の萩屋敷(全長51.5m)






【北の総門】萩城三の丸(場内)に設けられた3つの門のうちのひとつ




【旧藩校 明倫館跡】
観徳門


南門


有備館




旧明倫小学校本館


明倫館碑


聖賢堂


吉田松陰講学の碑




【文と萩の物語 花燃ゆ大河ドラマ館】




【萩博物館】旧上級武家地にあり、なまこ壁やいぶし銀色の瓦でしぶさと気品ある博物館








【山形有朋公銅像】



【田中義一銅像】



【久坂玄瑞進撃像】



   







祝)世界遺産登録 萩城下町

2015年07月07日 | World Heritage in Japan
7月4~5日Jリーグ無きウィークエンド一人旅。『世界遺産』登録夜明け前の山口・萩へ。
既にイコモスの登録勧告を受けている『明治日本の産業革命遺産』。韓国の執拗な抵抗もあり、当初予定の7月4日に決まらず、翌5日夜更けの世界文化遺産登録となりました。という訳で、4日・5日は世界文化遺産登録まさに直前の史跡巡り。5日世界文化遺産構成資産『萩城下町』を散策。萩城下、外堀の外側にあり、町屋や中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた「旧町人地」地域を巡りました。この一帯は「萩城城下町」として国の史跡に指定されています。町筋は碁盤目状になっており、菊屋横町、伊勢屋横町、江戸屋横町という小路があり、明治維新の3傑と呼ばれていた木戸孝允の旧宅、豪商菊屋家の住宅などの建物や、なまこ壁の土蔵、門、土壁が連なり、当時の城下町の景観を今に残しています。
高杉晋作誕生地の斜め向かいにある晋作広場には「高杉晋作立志像」が。初代内閣総理大臣伊藤博文から「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と評された高杉晋作。晋作は、天保10年(1839)、萩藩士・高杉小忠太春(二百石)の長男として生まれ、19歳の時に吉田松陰の松下村塾に入門。文久元年(1861)藩主世子毛利定広の小姓役を命ぜられ、翌年藩命で幕使とともに上海に渡航し、海外の諸情勢をつかみ、帰国後、尊攘論の急先鋒として活躍します。一時脱藩した罪で野山獄へ投じられましたが、四国連合艦隊の下関来襲にて再起用、講和に奔走します。その後、慶応2年(1866)には薩摩藩との薩長同盟に尽力するも、翌慶応3年(1867)、下関新地にて病没。享年29歳の若さでした。幕末の風雲児、高杉晋作ゆかりの地で、当時の若者たちの志と行動力にあらためて思いを寄せる散策でした。








江戸屋横町



伊勢屋横町



菊屋横町



円政寺







木戸孝允旧宅





旧久保田家住宅



田中義一誕生地



菊屋家住宅













高杉晋作誕生地









高杉晋作立志像






   





祝)世界遺産登録 松下村塾

2015年07月06日 | World Heritage in Japan
7月4~5日Jリーグ無きウィークエンド一人旅。『世界遺産』登録夜明け前の山口・萩へ。
既にイコモスの登録勧告を受けている『明治日本の産業革命遺産』。韓国の執拗な抵抗もあり、当初予定の7月4日に決まらず、翌5日夜更けの世界文化遺産登録となりました。という訳で、4日・5日は世界文化遺産登録まさに直前の史跡巡り。5日、まずは世界遺産構成資産『松下村塾』(「松陰神社」「松下村塾」「吉田松陰幽囚ノ旧宅」)を訪れました。
幕末動乱の時代に生を受け、“至誠”を貫き通し勇敢に行動した松陰。わずか6歳で吉田家当主となり、10歳から藩校に出仕し19歳で独立師範となり、21歳で九州から東北までの約13,000kmを歩いて旅したことから亡命罪で罰を受けたのが23歳、25歳で下田でペリーの船に乗り込み囚われ、萩の野山獄へ。獄中で孟子を講義する一方俳諧や書道を学び、28歳で松下村塾を主宰。29歳では、幕府が朝廷に無断で、日米修好通商条約に調印したことに対し、幕府の外交政策を批判する意見書を藩に提出。そして安政6年(1859)、大老・井伊直弼の安政の大獄で、江戸の獄へ送られ、同年10月27日30歳の若さで生涯を終えます。その影響力は大きく、松陰に学んだ松下村塾生たちが明治維新以降の日本の近代化、産業革命を形づくります。今回の世界文化遺産登録も日本の近代化の夜明け前を評価されたのだと思います。それにしても、封建国家日本から近代的統一国家建設へ、尊攘から当汲ヨ王政復古への闘いの原動力は、毛利藩の萩、その中心にいた吉田松陰の史実を実感することができました。今の総理大臣も長州人ですが・・・いろいろ考えさせられました。


【松蔭神社】吉田松陰を祭神とする神社で、明治23年(1890)に松下村塾の西側に土蔵造りの小祀を建てたのが始まりで、その後、明治40年(1907)伊藤博文らの努力により県社の社格を得て、萩城内にあった宮崎八幡宮(毛利家鎮守)の神殿が移設されました。現在の社殿は昭和30年に完成し御神体として松陰愛用の赤間硯と父叔兄弟宛に書かれた書簡の2品が祀られています。









(松門神社)





【松下村塾】玉木文之進(松陰の叔父)が天保13年(1842)に自宅で私塾を開いたのが始まりで、ついで久保五郎左衛門が継承し、安政4年(1857)、28歳の吉田松陰がこれを継ぎました。松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れられ僅か1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など明治維新の原動力となる多くの逸材を育てました。高杉と久坂は「識の高杉」「才の久坂」と並び称されました。この二人に吉田念麿と入江九一を加え、「松下村塾の四天王」ですがいずれも幕末の動乱期に若くして亡くなっています。『松下村塾』の名は、当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから名が付けられたといいます。現存する松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分からなっています。









「明治維新胎動之地」


永訣書 “親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん” 寅二朗







【吉田松陰幽囚ノ旧宅】下田で海外渡航に失敗した松陰は、安政元年(1854)野山獄に入れられ、翌年にこの実家である杉家に帰され謹慎生活を命じられました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになります。












【吉田松陰歴史館】