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太宰治資料展Ⅱ

2016年06月12日 | Museum
6月12日『太宰治津島家寄託資料展Ⅱ~師、友、そして饗応夫人~』三鷹市美術ギャラリー。
この日、三鷹駅前に所有のマンション管理組合総会に出席後の寄り道。さて、今年も「桜桃忌」(太宰治の生誕日6月19日)の季節となりました。「桜桃忌」には、全国から墓所のある禅林寺(三鷹市下連雀)に毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れます。当家は自宅2階のベランダから太宰治の墓所を拝むことができ、子供のころから太宰治を身近に感じていました。この時期、三鷹では太宰治ゆかりのイベントが行われますが、三鷹市美術ギャラリーでは、昨年好評を博した太宰治資料展の第二弾『太宰治津島家寄託資料展Ⅱ~師、友、そして「饗応夫人」~』が開催されていました。今回は、太宰が桜井浜江(「饗応夫人」のモデル)のアトリエで描いたという絵画の展覧会。桜井邸は、我が自宅のある禅林寺通りの一角にあり、自分にとっては子供頃から両親から太宰のお友だちの家と教えられ認識していたお宅。自分の記憶が既に歴史の一端となっていることに驚きと、太宰への親近感がさらに増すのでした。

(以下、公式より)
太宰治(本名・津島修治)は昭和14(1939)年9月に三鷹の住人となり、珠玉の作品を世に送り出しました。太宰にとって終の棲家であり家族と過ごした〈小さい家〉には、様々な文化人が訪れ、仲間と共に研鑽を磨いた三鷹時代が形成されていきます。戦後は仕事部屋を自宅から駅周辺に移し、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」などの代表作を執筆し、時には筆休めに絵筆を執ることもありました。残された書画からは多様な創作を試みた太宰の個性と〈件p〉に対する造詣の深さが窺えます。今回は昨年度未公開の津島家寄託資料を中心に約70点を展示します。
太宰の妻子が慈しんだ資料から、三鷹時代における太宰の文学交流と、小説だけにとどまらぬ〈件p〉にふれる機会となれば幸いです。

Ⅰ.師友集いし三鷹の家
太宰治が三鷹に居住したのは、昭和14(1939)年9月1日。昭和23(1948)年6月に亡くなるまで、疎開期間を除いた約7年半を家族と共に過ごしています。その間、井伏鱒二、佐藤春夫、壇一雄、亀井勝一郎、伊場春部など師友が太宰の自宅を訪れ、小説家だけでなく、画家の鰭崎潤、久富邦夫、阿部合成、吉岡堅二なども来客の一人です。戦後、生家の没落を「桜の園」に見立てて描いた「斜陽」によって一躍時の人となった太宰の元には、出版関係者や読者の来訪が増えました。太宰は自宅から駅周辺に仕事部屋を移し、打ち合わせは行きつけの店で行いました。しかし、太宰は流行作家になっても三鷹を去ることはしませんでした。約39年の短い生涯で家族と安住した他、三鷹。三鷹は太宰にとって、師友、弟子をはじめとする錚々たる文化人と共に研鑽を積みながら、太宰文学の土壌を築いた創作の地でもあります。

Ⅱ.太宰治と「饗応夫人」
昭和21年(1946)年11月14日、太宰治は郷里での疎開生活を終え、家族と共に三鷹に戻ります。戦後は被災した手狭になった自宅から、三鷹駅前に仕事場を移します。駅前を拠点に活動する太宰にはいくつかの馴染の店もあり、そこは編集者との打ち合わせや酒席だけでなく、小説の舞台になることもありました。現在確認されているだけでも、太宰が描いた油絵は9点存在が確認されており、津島家寄託資料は7点を占めます。そのうち4点は三鷹駅前に住んだ画家桜井浜江のアトリエで終戦後に描かれたものです。桜井は創作場を提供しただけではなく、「饗応夫人」の「奥様」のモデルとされる人物です。客人を連れて「奥様」宅を奇襲する40歳前後の「笹島」は、編集者たちを引き連れて桜井を訪ねる太宰の姿を髣髴させます。




「水仙」1940(昭和15)年頃 鰭崎潤氏のアトリエで描く





「風景」1940(昭和15)年頃 鰭崎潤氏のアトリエで描く





「三つの顔」1947(昭和22)年





「自画像」1947(昭和22)年頃 桜井浜江氏のアトリエで描く 




「クラサキさん」1947(昭和22)年夏 桜井浜江氏のアトリエで描く





「無題」1947(昭和22)年頃 桜井浜江氏のアトリエで描く




鰭崎潤画 太宰治讃 1940(昭和15)年頃 鰭崎氏の画に太宰治が即興詩を添えたもの