おてんきぷらぷら

ホームタウンは三鷹。気ままな旅・街散策にFC東京。

四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之廿五〕 第86番~第88番【結願】

2020年12月04日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (25)

ついに、第88番・大窪寺、結願のお参りとなりました。二天門の前で、思わず愚息とハイタッチ、この旅はじめてお互いに写真撮影し合うこととなりました。思えば、10日前、巡拝の手順も読経もままならなかった我々が、結願をむかえ、全く自然体で、手慣れた手順で、灯明し、線香をあげ、納札を納め、賽銭をし、すらすらと読経し、結願の巡拝を終えることに。最後の回向文を唱えた直後には、その余りのあっけなさに、物足りなさと脱力感。しかしながら、打ち終えて境内を背にした途端に、八十八ヶ所霊場巡拝結願の達成感と充実感が、じわじわと湧いてくるよう。とりわけ、道中、大変お世話になった先達の藤沢さん(準特任大先達)と一緒に写真を撮って謝意を告げたりしていると、感極まってきました。第88番・大窪寺発行の結願の証をいただき、ひと安心。初日の出がけの三鷹は小雨模様でしたが、四国は10日連続、晴天が続き、この時期にしてはことのほか暖かく、巡拝日和。この10日間の旅路は、弘法大師"同行二人"祈りの旅、修行の旅であり、四国の観光名所を駆け足で巡る旅であり、地元の美味しい名物を食し地酒三昧の旅でありました。霊場を八十八ヶ所巡ることによって煩悩が消えたかどうかはわかりませんが、少なくとも、"十善戒"〔不殺生(命を大切にする)、不偸盗(物を盗まない)、不邪淫(性は尊く節度をもつ)、不妄語(嘘、偽りは言わない)、不綺語(飾らない本当の言葉で話す)、不悪口(悪口は言わない)、不両舌(二枚舌を使わない)、不慳貪(強欲をはらず貪ることなく感謝の気持ちで過ごす)、不瞋恚(怒りを抑え心を落ち着けて優しい気分で過ごす)、不邪見(邪な間違った考えを捨て、どの人にも平穏な気分で接する)〕だけは肝に命じました。全国的にコロナウィルス感染者が増加し、人の移動が危険視され、行動自粛が求められる中で、GoToトラベルを利用しての、四国八十八ヶ所霊場巡拝ですから、その行動責任を非難されても仕方ありませんが、自分にとっては自身を見つめ直すことができましたし、何より毎晩愚息と酒を酌み交わし、よもやま話ができたことは有意義でした。コロナ禍が落ち着きましたら、高野山へ御礼参りへ行かせていただく所存。先達の藤沢さんはじめ、添乗員の早川さん、ドライバーさん、その他今回のツアーに係っていただいた皆さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。合掌礼拝。


【第86番 志度寺】
補陀洛山 志度寺(ふだらくさん しどじ)
 〒769-2101 香川県さぬき市志度1102
 [ご本尊] 十一面観世音菩薩
 [ご真言] おん まか きゃろにきゃ そわか
 開創は、推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木から十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し死度道場と名づける。その息子の房前が、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張、寺は僧侶の学問所や信者の修行の場として栄えた。能楽作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれている。また、志度出身の平賀源内の墓も隣接している。



仁王門


本堂


大師堂


海女の墓
藤原家にまつわる悲話の舞台。藤原房前が母のために建立。海女の墓が約20基並びます。
海女の命日(7月16日)は"志度寺の十六度市"が開催、年に一度、ご本尊が御開帳されます。






【第87番 長尾寺】
補陀落山 観音院 長尾寺(ふだらくさん かんおんいん ながおじ)
 〒769-2302 香川県さぬき市長尾西653
 [ご本尊] 聖観世音菩薩
 [ご真言] おん あろりきゃ そわか
 開創は聖徳太子説もあるが、行基の説が一般的で、天平11年(739)、行基が柳の木の下で聖観音像を彫り安置したのが始まりとされる。大同年間(806~810)、入唐にあたって弘法大師が訪れ、年頭七夜の護摩祈祷を行った。帰国後、入唐の大願成就を感謝した大師は、大日経一字一石の供養塔を建て堂宇を建立した。

仁王門


本堂


大師堂


静御前剃髪塚(義経と惜別した静御前と母、磯野禅師が当寺で得度。剃髪を埋め祀った髪塚)






【第88番 大窪寺】
医王山 遍照光院 大窪寺(いおうざん へんじょうこういん おおくぼじ)
 〒769-2306 香川県さぬき市多和兼割96
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 八十八ヶ所結願の霊場・大窪寺は、徳島県との県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置。養老年間(717~724)に行基が草庵を建てのが始まり。弘仁6年(815)、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院にある胎蔵ヶ峰の岩窟で求聞持法を修して薬師如来を彫り堂宇を整えたといわれる。唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて、大窪寺と名づけ、結願の地と定めた。女性の入山を許していたこともあって、女人高野とも呼ばれた。



二天門


本堂




大師堂





寶杖堂 (結願したお遍路さんの金剛杖の奉納堂)







〝結 願〟




大変お世話になった先達の藤沢延子(準特任大先達)さん




四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之廿四〕 第84番~第85番

2020年12月04日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (24)

結願に向け最終日。10日目(12月4日)は、高松市内の高松東急REIホテルを午前8時に出発。前日、第80番・国分寺の後、第83番・一宮寺を打ち終えていましたので、第81番・白峯寺、牛鬼の像がある第82番・根香寺と巡り、第84番・屋島寺をお参り後、ケーブルカー利用し第85番・八栗寺。瀬戸内海沿い最後の第86番・志度寺から内陸部の第87番・長尾寺、第88番・大窪寺で結願を迎えます。その後、午後5時頃には高松空港着。空港では愚息と最後の晩餐。おでんと餃子をつまみに地酒をたんまり、うどんで〆ました。最終便19:30発・ANA540便で羽田空港へ。10日目(12月4日)の行程は下掲しておきます。この日の巡拝で、印象に残ったのは、第88番・大窪寺はもちろんですが、第84番・屋島寺、第85番・八栗寺でしょうか。屋島といえば源平合戦。有名なのは、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなどですが、ここはまさに屋島の戦いの舞台。那須与一の扇の的伝説の地です。古戦場は、波高き洋上かと思いきや、意外にも入江の中でした。この古戦場を見下ろすように峰の上に建つ屋島寺は、観光スャbトにて商業主義化し、霊場としては興ざめ気味。次に、ケーブルカー(八栗ケーブル)を利用し五剣山の山頂にある第85番・八栗寺。単純にケーブルカー乗車に、年甲斐もなく、先頭の席でカメラを構えました。実は、ケーブルカー乗車は、2018年、オーストラリアの世界遺産ブルーマウンテンズのシーニック・ケーブルウェイ以来。日本国内では、ケーブルカーに乗った記憶がありません。関東でいえば、高尾山、御岳山、箱根、筑波山など目にしてますが乗車経験なし。神戸在住時代も、六甲、摩耶と身近にケーブルカーはあったものの乗ることはありませんでした。印象に残ったのが、古戦場やケーブルカーなど、霊場そのものでないことは、少々不謹慎ですが、いよいよ結願をむかえる心の高鳴りの前でしたので、お許しを。そしてついに、第88番・大窪寺、結願のお参りとなりました。

  12月 4日(金)
     = (81)白峯寺 = (82)根香寺 = (84)屋島寺 = (85)八栗寺《ケーブルカー利用》 =
     = (86)志度寺 = (87)長尾寺 = (88)大窪寺 [結願]
     ANA 540便 高松空港 19:30発 ~ 羽田空港 20:45着


【第84番 屋島寺】
南面山 千光院 屋島寺(なんめんざん せんこういん やしまじ)
 〒761-0111 香川県高松市屋島東町1808
 [ご本尊] 十一面千手観世音菩薩
 [ご真言] おん ばさら たらま きりく
 屋島は高松市の東、標高293m火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の距ャしなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺は、鑑真和上が、天平勝宝6年(754)、屋島沖で山頂からの瑞光を感得、屋島の北嶺に登り、普賢堂を建て普賢菩薩像を安置し創建。後に、弟子の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え屋島寺と称し、初代住職になった。弘仁6年(815)、弘法大師が、嵯峨天皇の勅願を受け屋島寺を訪ね、北嶺の伽藍を現在の南嶺に移し、十一面千手観音像を刻み本尊として安置したことから、弘法大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。

四天門


東門


本堂


大師堂


蓑山大明神(日本三大狸"太三郎狸"を祀る神社。夫婦円満、縁結、子宝、水商売の神。)















【第85番 八栗寺】
五剣山 観自在院 八栗寺(ごけんざん かんじざいいん やくりじ)
 〒761-0121 香川県高松市牟礼町牟礼3416
 [ご本尊] 聖観世音菩薩
 [ご真言] おん あろりきゃ そわか
 屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山の八合目にある八栗寺。現在はケーブルカーを利用してアクセス可能。創建は天長6年(829)、開基は弘法大師。大師がこの山に登り求聞持法を修行した際、天より5本の剣が降ってくると共に山の鎮守の蔵王権現の神託を得た。そこで5本の剣を埋めて鎮護としたのが五剣山の由来。また、入唐前に8つの焼き栗を植えて入唐求法の成否を占い、帰国後には、焼き栗全てが生長繁茂していたことから、寺名を八国寺かた八栗寺へ改めた。

八栗ケーブル山頂駅からの参道


二天門


本堂


大師堂


多宝塔


仏足石


菩提樹




八栗ケーブル




四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之廿弐〕 第83番(高松市内散策)

2020年12月03日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (22)

9日目(12月3日)、この日の巡拝は順調で、宿泊先の高松東急REIホテルには、午後4時前に到着です。高松訪問は、人生2回目となりますが、初回はなんと高校の修学旅行。当時、都内の高校の修学旅行先といえば、九州などがメインだったと思うのですが、やんちゃ者多き男子校ゆえに、繁華街を避けての四国・南紀が選ばれたのだと記憶しています。四国は高松から徳島を訪れフェリーで和歌山へ渡り南紀を周遊したようですが、記憶に残っているのは、金毘羅さんと那智の滝くらい。ということで、夕食前に、多分訪れたことがあるはずの"栗林公園"へ。11月29日にライトアップは終了しており、開園時間は午後5時までとのこと。4時過ぎの到着でしたから、小一時間の滞在でしたが、国の特別名勝指定の高松藩歴代藩主によって100年余りの歳月をかけ完成した日本を代表する大名庭園を南廻りで散策・堪能。紫雲山を背景に、池に映る紅葉と、整然とした庭園のコントラストは必見。高校の修学旅行生には、この風情は理解できなかっただろうと感慨深いものがありました。また、栗林公園の東門横にある"かがわ物産館・栗林庵"は、お土産が充実しており、最終日を前に納得のお土産を買い求めることができました。夕食後は、ホテル周辺をナイト散策。玉藻公園を右手に、サンメ[ト高松周辺へ。高松港では、桟橋を進み赤灯台まで行きましたが、港の灯りと頬をさす冷たき風が港町旅情を誘います。明日、結願を迎える最後の夜をしみじみと味わうことができました。


【第83番 一宮寺】
神沁R 大宝院 一宮寺(しんごうざん だいほういん いちのみやじ)
 〒761-8084 香川県高松市一宮町607
 [ご本尊] 聖観世音菩薩
 [ご真言] おん あろりきゃ そわか
 飛鳥時代の大宝年間に義淵僧正が創建したといわれる。当初は大宝院と称した法相宗の寺であった。諸国に一宮が建立された際、行基が堂宇を修築、讃岐国一宮、田村神社の別当寺となり、寺号を一宮寺とした。後に弘法大師が滞在し、聖観世音像を刻み本尊として安置。真言宗に改宗した。

仁王門


本堂


大師堂


薬師如来祠(台座下から"地獄の釜"の音が聞こえ、心がけ悪き人は頭が抜けなくなるという。)


西門






〔高松市内 ナイト散策〕12月3日(泊)高松東急REIホテル

〔サンメ[ト高松(高松港)〕







〔赤灯台〕 世界初のガラス灯台 高さ14m 通称〝せとしるべ〟







〔玉藻公園〕 濠に海水を引き入れた日本三大水城のひとつ、高松城跡










四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之廿壱〕 第78番~第82番

2020年12月03日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (21)

弘法大師が誕生した第75番・善通寺を巡拝しましたので、弘法大師の生涯について触れておきたいと思います。弘法大師・空海は、宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現・香川県善通寺市)の佐伯家に生まれます。幼名は真魚(まお)といい、幼いころから秀才の誉れ高く、儒教や文学、歴史を学び、毎日のように御仏を拝んでいたといいます。15歳のときに、儒学者である母方の伯父(阿刀大足)に伴われ上京。18歳で都で唯一の大学の明経科に入学しますが、立身出世のための勉強は、人々を救済するものではないと考え中退してしまいます。その後、山岳修行に身を投じた弘法大師は、19歳のとき、土佐国室戸岬で虚空蔵求聞持法という密教の修法を学び、悟りを開き、このとき、空と海が交わる雄大な景色を見て、"空海"と名乗ります。弘法大師のこの様な生き方は伯父の阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。しかし、24歳のときには、三教指帰を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。出家宣言後、"大日経"に出会った弘法大師は、31歳で遣唐使船に乗り入唐する機会を得ます。延暦23年(804)7月6日、今の長崎県田浦を出港するも、暴風雨に遭い難破し、34日間の漂流の後、中国の福州付近に漂着します。上陸が許されるまで紆余曲折を経ますが、ようやく首都長安に着いた弘法大師は、西明寺に住し精力的に学びます。翌年5月末、青龍寺の恵果和尚を訪ねると、その年の12月15日に和尚が入寂するまで、正嫡の弟子として、和尚からすべての教えを授かります。恵果和尚入寂後は、恵果和尚碑文を書し、和尚の教えを守り続け、33歳の秋に帰国しました。帰国後、嵯峨天皇の勅命で高雄山寺に入り、真言密教を流布し、国家安泰の祈祷を修します。43歳の弘仁7年(816)には、嵯峨天皇より高野山を賜り、修行の場として高野山を開いた後は、身分にかかわらず誰でも入学できる学校、"綜月峵q院"を創建。また、各地に溜池や堤防などの灌漑施設を整えたり、橋を架けたりなど、様々な分野で能力を発揮。諸国を回り、衆生救済に生涯を捧げました。そして、承和2年(835)、弟子たちに遺言をのこし、3月21日、62歳で高野山において一切有情の幸福を願い続け、入定されました。なお、弘法大師の名は、86年後の延喜21年(921)に、醍醐天皇より賜ったものです。


【第78番 郷照寺】
仏光山 広徳院 郷照寺(ぶっこうざん こうとくいん ごうしょうじ)
 〒769-0210 香川県綾歌郡宇多津町1435
 [ご本尊] 阿弥陀如来
 [ご真言] おん あみりた ていせい から うん
 四国霊場で唯一の時宗の霊場。奈良時代、行基が道場寺の名で開創した古刹。大同2年(807)、弘法大師が42歳の時、自作の尊像を刻み、厄除けの誓願をしたことから、"厄除けうたづ大師"として信仰を集めている。



本堂


大師堂








【第79番 天皇寺】
金華山 高照院 天皇寺(きんかざん こうしょういん てんのうじ)
 〒762-0021 香川県坂出市西庄町天皇1713-2
 [ご本尊] 十一面観世音菩薩
 [ご真言] おんまか きゃろにきゃ そわか
 寺伝によれば、奈良時代、行基がこの地に初めて仏教の堂宇を建立したのが始まり。その後、弘法大師が、弥蘇場の泉のほとりに生えていた木に霊気を感じて、十一面観音菩薩を彫り、本尊として堂宇を中興。当時は、妙成就寺摩尼珠院と号していた。保元の乱(1156)で敗れ讃岐に流された宗徳上皇がこの地で崩御。棺はこの寺に安置された。後に後嵯峨天皇が上皇の冥福を祈り、宗徳天皇社を建立。明治の神仏分離で宗徳天皇社と天皇寺に二分された。



赤門


本堂


大師堂






【第80番 国分寺】
白牛山 千手院 国分寺(はくぎゅうざん せんじゅいん こくぶんじ)
 〒769-0102 香川県高松市国分寺町国分2065
 [ご本尊] 十一面千手観世音菩薩
 [ご真言] おん ばさら たらま きりく
 天平13年(741)、聖武天皇の勅願により全国に建立された国分寺の一つ。行基が十一面観音菩薩像を安置して開基。その後、弘法大師が本尊や伽藍を補修し霊場と定めた。当時は東西220m、南北240mの広大な寺域をもち、金堂や鐘楼、七重塔、僧房などが建つ大寺院であった。

仁王門


本堂


大師堂・納経所


弁財天(さぬき七福神の中で紅一点の弁財天を祀る。)






【第81番 白峯寺】
綾松山 洞林院 白峯寺(りょうしょうざん どうりんいん しろみねじ)
 〒762-0016 香川県坂出市青海町2635
 [ご本尊] 千手観世音菩薩
 [ご真言] おん ばさら たらま きりく
 霊峰の五色台(青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯)の五峯の山の最も西よりにあるのが標高373mの白峯山。弘仁6年(815)、弘法大師が白峯に宝珠を埋めて井戸を掘り、堂を建立。後に智証大師が、瑞光に導かれて白峯山に登頂し、地主神である白髪の老翁のご神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に耀き芳香薫ずる霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊として佛堂を創建したと伝えられます。 

七棟門(山門)


本堂




大師堂






【第82番 根香寺】
青峰山 千手院 根香寺(あおみねさん せんじゅいん ねごろじ)
 〒761-8004 香川県高松市中山町1506
 [ご本尊] 千手観世音菩薩
 [ご真言] おん ばさら たらま きりく
 五色台の主峰、青峰山に佇ずむ、かつての巨刹。入唐前の弘法大師が五色台の5つの峰に金剛界曼荼羅の五智如来を感じ、五大明王を祀って花蔵院を建立したのが始まり。その後、大師の甥の智証大師が訪れ、山の鎮守である市ノ瀬明神のお告げにより、霊木で千手観世音像を刻み、これを本尊として千手院を開いた。この2院を総称して根香寺と号した。智証大師の彫った本尊の霊木の株が芳香を放っていたことが寺名の由来。

仁王門


本堂


大師堂


牛鬼の像

《牛鬼伝説》
 昔、青峰山では人間を食べる牛鬼という怪物が人々を苦しめていた。汲フ名人、山田蔵人高清が本尊に願をかけ、牛鬼を射止め、切り取った角を寺に奉納。現在も寺には牛鬼の角と絵姿が残っている。



四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之廿〕 第75番~第77番

2020年12月03日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (20)

9日目(12月3日)のハイライトは、第75番・善通寺。弘法大師の誕生地にして、真言宗善通寺派の総本山。弘法大師の誕生した地として知られる真言宗最初の根本道場で、高野山の金剛峯寺、京都の東寺とともに大師三大霊跡のひとつです。香川県を代表する観光スャbトに数えられ、映画(少林寺拳法、ロード88、サマータイムマシン・ブルース、曲がれ!スプーン、等)のロケ地にも。境内(総面積約45,000㎡)は、東西二つの院に分かれ、東院を伽藍、西院を誕生院とそれぞれ呼んでいます。東院の伽藍には、金堂、五重塔、鐘楼などがあり、西院には御影堂(大師堂)を中心に諸堂が建ち、御影堂の地下には、重ねた罪を取り除く"戒壇めぐり"の場があります。南大門をくぐって東院に入ると正面に見えるのが金堂です。金堂は元禄12年(1699)に上棟され、七間四面の二層楼、ご本尊は薬師如来。旧本堂は永禄の兵火で、大師自作の本尊とともに焼け落ちました。現在の本尊は、仏師・運長によって元の本尊の焼け残りを胸に納めたものとのこと。樹齢1000年を超える大楠や、高さ43mの五重塔は迫力がありました。仁王門から西院へ。西院の御影堂は、総本山善通寺誕生院の本堂であり、弘法大師空海の誕生所とされています。現在の建物は昭和11年に改築されたもので、礼堂、中殿、供養殿、奥殿の4棟からなり、礼堂と中殿は空海の父・佐伯善通の舘の跡、奥殿は母・玉寄御前の舘の跡、奥殿は弘法大師が生まれた所とされています。また、御影堂では、床下の全く光のない中を歩いて、弘法大師誕生の聖地をお詣りする"戒壇めぐり"が体験できます。御影堂の地下を一周する約100mの真っ暗な回廊を歩く修行の場。階段で地下へ降り、暗闇を左手を伸ばし左壁をつたって、ご宝号を唱えながら進みます。何度か角を曲がるとうっすら光が見え小さな部屋が、ここがまさにお大師さま誕生の聖地、奥殿の真下に当たる場所で、稚児大師と両親像が祀られ、厳かな心持ちになりました。再び、出口まで続く暗闇は、恐武Sが薄らぎ心なしか短く感じたかな。明るいと人の気持ちは外に向きますが、暗いと内に向かいます。深く考える時、人は自然と目を閉じます。暗闇で自分の内面を見つめ、罪や咎(とが)を浄化することができるとのことでした。信州長野、善光寺の"極楽のお錠前"に触れる"戒壇めぐり"は、どこかゲーム感覚であったと記憶していますが、弘法大師と"同行二人"八十八ヶ所霊場を第75番まで巡拝してきた体験を踏まえての善通寺"戒壇めぐり"は、霊験あらたかな貴重な体験となりました。


【第75番 善通寺】
五岳山 誕生院 善通寺(ごがくざん たんじょういん ぜんつうじ)
 〒765-0003 香川県善通寺市善通寺町3-3-1
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 真言宗善通寺派の総本山である善通寺は、高野山、東寺とともに大師三大霊跡の一つに数えられ、弘法大師誕生の地でもある。創建は大同2年(807)、唐から帰国した弘法大師が生まれ故郷に真言密教の根本道場を建立したのが始まり。讃岐の豪族だった父・佐伯直田公善通から荘田を貰い受けた弘法大師は、この地にインドの八大仏跡の土砂を撒き、唐の青龍寺伽藍の雰囲気を再現。弘仁4年(813)に金堂など七堂伽藍は完成。本尊として薬師如来を刻んだ。
 
南大門


五重塔


大楠


金堂(本堂)






仁王門


御影堂(大師堂)


≪戒壇めぐり≫
 御影堂地下の"戒壇めぐり"は、暗闇のなかで自己を見つめなおし、お大師さまと結願できる道場。約100mの暗闇を左手で壁を摩りご法号を唱えながら進みます。ご真言奥殿真下にある「御誕生の聖地」では、お大師さまのお声が私たちを諭してくださいます。






【第76番 金倉寺】
鶏足山 宝幢院 金倉寺(けいそくざん ほうどういん こんぞうじ)
 〒765-0031 香川県善通寺市金蔵寺町1160
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖、智証大師が誕生した地。宝亀5年(774)、智証大師の祖父、和気道善が建立。道善の子の宅成が道善寺と名付けた。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。延長6年(928)醍醐天皇の勅命で地名の金倉郷にちなんで金倉寺と改めだ。

仁王門


本堂


大黒天像(おみくじに付いている1.5cm角の金箔を貼るとご利益あり。今や金の大黒天に。)


大師堂


乃木将軍妻返しの松 

金倉寺を宿舎とした乃木将軍。大晦日に東京から妻が訪ねてきたが、乃木将軍は会うことはなく、妻は松の木の下で途方に暮れたといういわれがあります。





【第77番 道隆寺】
桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)
 〒764-0022 香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3番30号
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 和銅5年(712)、領主の和気道隆公が、桑の大木を切り、小さな薬師如来像を刻み草堂を建てて安置したのが始まり。道隆の子の朝祐は、唐から帰国した弘法大師に師事。大師は自ら刻んだ薬師如来の胎内に道隆の薬師如来を納め、本尊とした。一体の像の中にもう一体の像があることから、"腹ごもり薬師"、"二体薬師"とも呼ばれ、50年に一度開帳される秘仏となっている。

仁王門


本堂


大師堂


多宝塔


弘法大師と衛門三郎の像






〔丸亀城〕 ~車窓より~