少なくともあの日まで、義経は表だって怒気を発することはまずなかった。自分の貧弱な出自が、その様な我が儘を許さなかったからである。
当時の武士とは、皆それぞれなにがしかの荘園を経営する一事業主であり、普段は自ら鋤鍬を振るうこともある農場の主であった。それにはもちろん規模の大小があり、梶原景時のように、古くから関東に根を張って大規模経営を営むちょっとした領主格の大名もいれば、その日の暮らしもかつかつで、人の荘園の代官などで世すぎせざるを得ない小名もいる。大名級になると自分の血族を中心に大規模な部隊を編成し、戦場に乗り出してくる。自分がそういきり立って活躍しなくても、一族郎党で手柄を上げれば、それは自分の手柄となって返ってくるのである。一方、今義経麾下にはせ参じた熊谷次郎直実などに代表される小名達は、そんな悠長に構えるわけには行かなかった。彼らにとって戦とはまさにのし上がるための夢の舞台であり、少々無理をしてでも手柄を上げて自分の所領を増やす努力をしなければならない身の上なのである。「一所懸命・・・一つ所に命を懸ける」と言う言葉は、決して後世一生懸命、などと間違えていい質のものではなかった。自分達の土地を命がけで手に入れると言うことは、彼らにとってまさに金科玉条そのものだったのである。「平家物語」に華々しい活躍を描かれる直実も、裏からみれば実はそうせざるを得ない追いつめられた立場にあるのだ。彼を初めとする小名達がこの無謀としか思えない四国遠征に名乗りを上げたのも、まさにそのためであった。だが、所帯の大きさを問えば、実のところ義経はそんな小名達にさえ劣る。位こそ五位検非違使尉と武士達の中では頼朝に次ぐ高位にあるが、自分の手足になって働いてくれる血族は一人もない。熊谷直実でさえ、息子一人を戦場に連れてくる「ゆとり」を持っているのに、義経にはそんな親子兄弟は一人もいない。また、直実でも戦が終われば帰る自分の所領があるのに、義経は全くの根無し草に過ぎない。それだけに、義経の器量に惚れて自発的に付いてきてくれる伊勢三郎のような男には、義経も一目も二目も置いて重用した。また、そんな人間が増えてくれるように、と自分の言動や振る舞いには注意を払い続けた。その努力と一ノ谷の合戦で見せた鮮やかな戦術の妙が合わさって、義経の虚像をいやが上にも名将に飾り立てていたのだった。
だが、あの雪の日以来、義経は自分を抑えるのを止め、まるで怖いものなど何もなくなったかのごとく、意のままに振る舞いだした。そして、自分の希望が通らないときの癇癪のすさまじさは、これまで謙譲を人に固めたかのような日々を知る者にとっては、別人としか思えない荒れように見えた。
それでも義盛以下がそんな義経をもり立て、俄に表面化した欠陥を露出しないように勤めたのも、一ノ谷以来義経が舐めてきた辛酸を知るが故であった。だがこの場での義経の振る舞いは、これまでそんな努力の末に営々と築き上げられてきた名声を、一挙に突き崩しかねない乱暴なものだ。待望の戦となれば少しは元の殿に戻られるか、と期待していた義盛は、かえって狂騒の質が悪化した主に、暗澹たる思いを禁じ得なかった。それでも義盛は義経に使えるしかない。自分の浮沈をこの戦の天才にかけたときに、他の選択肢は全て切り捨ててしまったのである。義盛は、意を決して義経に言った。
「楫取達の申し条はいちいちもっともかと義盛愚考いたしまする。せめて今しばらく、出撃を延期なされては如何?」
すると義経は、燃えさかる怒りの火炎を今度は義盛に吐きかけた。
「義盛まで臆病風に吹かれたか! 楫取が何と申そうと舟を出させるのじゃ! 舟を出さぬならこの場で斬る! とこう言ってやれ!」
そんな無体な、と一同はどよめき立ったが、言い出したら聞かない最近の主を知る義盛は、自ら太刀を抜いて震え上がる楫取達に迫ろうとする主を取りあえず抑え、同僚の和田兄弟に後を頼むと、楫取達の説得に向かった。
当時の武士とは、皆それぞれなにがしかの荘園を経営する一事業主であり、普段は自ら鋤鍬を振るうこともある農場の主であった。それにはもちろん規模の大小があり、梶原景時のように、古くから関東に根を張って大規模経営を営むちょっとした領主格の大名もいれば、その日の暮らしもかつかつで、人の荘園の代官などで世すぎせざるを得ない小名もいる。大名級になると自分の血族を中心に大規模な部隊を編成し、戦場に乗り出してくる。自分がそういきり立って活躍しなくても、一族郎党で手柄を上げれば、それは自分の手柄となって返ってくるのである。一方、今義経麾下にはせ参じた熊谷次郎直実などに代表される小名達は、そんな悠長に構えるわけには行かなかった。彼らにとって戦とはまさにのし上がるための夢の舞台であり、少々無理をしてでも手柄を上げて自分の所領を増やす努力をしなければならない身の上なのである。「一所懸命・・・一つ所に命を懸ける」と言う言葉は、決して後世一生懸命、などと間違えていい質のものではなかった。自分達の土地を命がけで手に入れると言うことは、彼らにとってまさに金科玉条そのものだったのである。「平家物語」に華々しい活躍を描かれる直実も、裏からみれば実はそうせざるを得ない追いつめられた立場にあるのだ。彼を初めとする小名達がこの無謀としか思えない四国遠征に名乗りを上げたのも、まさにそのためであった。だが、所帯の大きさを問えば、実のところ義経はそんな小名達にさえ劣る。位こそ五位検非違使尉と武士達の中では頼朝に次ぐ高位にあるが、自分の手足になって働いてくれる血族は一人もない。熊谷直実でさえ、息子一人を戦場に連れてくる「ゆとり」を持っているのに、義経にはそんな親子兄弟は一人もいない。また、直実でも戦が終われば帰る自分の所領があるのに、義経は全くの根無し草に過ぎない。それだけに、義経の器量に惚れて自発的に付いてきてくれる伊勢三郎のような男には、義経も一目も二目も置いて重用した。また、そんな人間が増えてくれるように、と自分の言動や振る舞いには注意を払い続けた。その努力と一ノ谷の合戦で見せた鮮やかな戦術の妙が合わさって、義経の虚像をいやが上にも名将に飾り立てていたのだった。
だが、あの雪の日以来、義経は自分を抑えるのを止め、まるで怖いものなど何もなくなったかのごとく、意のままに振る舞いだした。そして、自分の希望が通らないときの癇癪のすさまじさは、これまで謙譲を人に固めたかのような日々を知る者にとっては、別人としか思えない荒れように見えた。
それでも義盛以下がそんな義経をもり立て、俄に表面化した欠陥を露出しないように勤めたのも、一ノ谷以来義経が舐めてきた辛酸を知るが故であった。だがこの場での義経の振る舞いは、これまでそんな努力の末に営々と築き上げられてきた名声を、一挙に突き崩しかねない乱暴なものだ。待望の戦となれば少しは元の殿に戻られるか、と期待していた義盛は、かえって狂騒の質が悪化した主に、暗澹たる思いを禁じ得なかった。それでも義盛は義経に使えるしかない。自分の浮沈をこの戦の天才にかけたときに、他の選択肢は全て切り捨ててしまったのである。義盛は、意を決して義経に言った。
「楫取達の申し条はいちいちもっともかと義盛愚考いたしまする。せめて今しばらく、出撃を延期なされては如何?」
すると義経は、燃えさかる怒りの火炎を今度は義盛に吐きかけた。
「義盛まで臆病風に吹かれたか! 楫取が何と申そうと舟を出させるのじゃ! 舟を出さぬならこの場で斬る! とこう言ってやれ!」
そんな無体な、と一同はどよめき立ったが、言い出したら聞かない最近の主を知る義盛は、自ら太刀を抜いて震え上がる楫取達に迫ろうとする主を取りあえず抑え、同僚の和田兄弟に後を頼むと、楫取達の説得に向かった。
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