暗い、およそ光の所在を感じさせない場所であった。夢だと意識していなければ、底知れぬ洞窟の奥なのか、はたまた目が潰れてしまったのかも判らなくなるほどの闇の深さである。夜目には自信のある綾小路高雅も、眼球全てに染み渡るような漆黒に取り巻かれては、なす術が無かった。夢守の長、大老が見ている夢の中。そこは、側近の内でも特に許された者しか出入りできない禁断の場所である。高雅は、三年前に初めて入ることを許されて以来、何度かここを訪れているが、光も音もない夢が果たして夢といえるのかどうか、時々疑問に思うこともあった。
五感を封じられた高雅は、あえぐように闇を掻き分け、おぼつかない足取りを奥へと進めていった。及び腰で手探りする姿は、他人には見せたくないこっけいで惨めな格好であるが、さしもの高雅もこれだけはどうしようもない。だが、高雅は知っていた。あの麗夢も、大老と同じくなんの不自由もなく、まるで真昼の都大路を闊歩するかのように自在にこの中で動くことが出来ることを。宗家と分家の違いといってしまえばそれまでだが、自分が麗夢に遠く及ばない事実は、高雅の自尊心を痛く傷つけていた。
(だが、そんな屈辱も今しばらくの辛抱だ。夢守の姫を娶り、自分もあの高貴なる血の連なりに並ぶことがかなえば、もう二度とこんな思いはしなくて済む)
高雅は、あの陶器人形のように美しい娘を自分のものに出来るという想像に言い知れない快感を覚えた。そうなれば、もう自分を押さえ付け、我慢を強いるような連中も一掃できる。新しい夢守の長として、君臨出来るはずなのだ。
(あの男はそう俺に約束した)
高雅は、三年前に会った一人の男の姿を脳裏に浮かべた。それ自体意志を持つかのように、相手の目の前に突出した大きな鷲鼻が鮮明に蘇ってくる。その男が高雅の未来を約束し、それを裏付けるかのように、眠っていた高雅の力を開眼させたのである。おかげで、こうして余人では敷居をまたぐことさえ許されぬ大老の奥の院まで自由に出入りする資格を得たのだ。
(だが! あの下賎の者は、事もあろうにこの俺の顔へ傷を付けた!)
ほんの一刻前の醜態が思い出され、高雅の頬へ憤怒の炎が燃え上がったかのように赤みが差した。途端に左頬の傷がずきずきと痛みだし、高雅の怒りに油を注いだ。
(絶対に、絶対に許すことは出来ぬ。かならずこの俺の手で、あの男を殺してやる!)
高雅は、公綱の人を小馬鹿にするかのような姿形を思い浮べた。大体あの背格好がいけないのだ。どう見ても達磨のそれを連想させる、鞠をそのまま大きくしたような肥大漢が、あんなに素早く動くとは。いかに考えてみたところであれは詐欺としか思えない、許しがたい強さであった。そんなものに騙され、侮ってしまった自分の迂闊さは高雅には見えない。ひとえに悪いのはあの築山公綱であらねばならなかった。
(それに麗夢だ! 夢守宗家だからといって増長しおって。小娘め。もうすぐ二度とあんな出過ぎた真似は出来ない様にしてくれる!)
そのためにも、まだしばらくこの闇にも似た衣裳を身にまとう、鼻の高い老翁の事を、他の者に知られないよう注意しなければならなかった。晴れて自分が夢守の長に納まるその時まで、男の事を秘め通すことが、高雅に課せられた約束なのだ。
(大老に対しても、決して知られてはならない)
男は、そのための結界を高雅に作ってくれたはずだった。たとえ大老の力が底知れぬとしても、この結界があれば高雅の本心を隠し通すことが出来るはずなのである。
高雅は少しだけ自信を取り戻すと、更に闇を分け入って奥へ進んだ。
無限にも思える闇の中をひたすら歩み続け、まさか踏み惑ったか、と軽い怖気をふるったところで、高雅の手が一枚の襖に突き当たった。方角も判らないこの夢は、いつも高雅に見当違いの方へ歩いてしまっているのではないかという不安をもたらしてくれる。いい加減そろそろ慣れても然るべきだとも思い、歩数を取ったことさえあったが、次に来た時にはまるで歩く距離が変わっていることもしばしばだ。結局高雅は、毎度大老の夢の中で遭難する危険に怯えつつ、この襖まで辿り着いて息をつく事を繰り返しているのである。が、ともかくここまで辿り着けば一安心である。この向こう側に、目指す大老がいる。高雅はほっとして端を探り当てると、膝をついて襖に手を掛けた。いつもならここで、誰か、と誰何する大老の声が聞こえてくる。だが、この日ばかりは少し勝手が違うようだった。はっきりした大老の呼び掛けの代わりに、くぐもった小さな声が二つ、聞こえてくる。珍しいことに先客が中に居るようだ。高雅は、ともすれば遠くで蚊がうなりを上げているかのようにしか聞こえない小さな声を、拾い上げようと懸命に耳を澄ました。
「・・・どうじゃ。今度こそ想いを断ち切れたか?」
「はい・・・」
麗夢! 高雅は、小さく消え入るように大老に返事を返した声を聞いて愕然となった。自分はあの屈辱の戦いの後、すぐにこの大老の所を目指して疾駆してきたつもりである。それなのに、どうして麗夢の方が先にこの夢の中にいるのだ? 高雅は更に聞耳を立てて中の様子を窺った。
「もう三年になる」
大老が、年古りた老婆の声で、ため息混じりに麗夢に言った。
「そなたがあの平家の小せがれに身を汚され、それを清めるために諸国の霊場を経巡る旅に出てから。だが、ようやく時は来た。高雅のおかげで種が手に入り、夢の木が再び甦る時が。そして、そなたの身もすっかり美しく清められた。後は、夢の木が花開くのを待つばかりじゃ。そうなれば、綾小路家に伝わる陽の気と我が宗家に伝わる陰の気を夢の木に託し、必ずや我が願いは成就するじゃろう。それも後少し。半年もせぬ内に時が満ちる。麗夢、今度こそ、儂を失望させるでないぞ」
「はい」
第4章その2に続く。
五感を封じられた高雅は、あえぐように闇を掻き分け、おぼつかない足取りを奥へと進めていった。及び腰で手探りする姿は、他人には見せたくないこっけいで惨めな格好であるが、さしもの高雅もこれだけはどうしようもない。だが、高雅は知っていた。あの麗夢も、大老と同じくなんの不自由もなく、まるで真昼の都大路を闊歩するかのように自在にこの中で動くことが出来ることを。宗家と分家の違いといってしまえばそれまでだが、自分が麗夢に遠く及ばない事実は、高雅の自尊心を痛く傷つけていた。
(だが、そんな屈辱も今しばらくの辛抱だ。夢守の姫を娶り、自分もあの高貴なる血の連なりに並ぶことがかなえば、もう二度とこんな思いはしなくて済む)
高雅は、あの陶器人形のように美しい娘を自分のものに出来るという想像に言い知れない快感を覚えた。そうなれば、もう自分を押さえ付け、我慢を強いるような連中も一掃できる。新しい夢守の長として、君臨出来るはずなのだ。
(あの男はそう俺に約束した)
高雅は、三年前に会った一人の男の姿を脳裏に浮かべた。それ自体意志を持つかのように、相手の目の前に突出した大きな鷲鼻が鮮明に蘇ってくる。その男が高雅の未来を約束し、それを裏付けるかのように、眠っていた高雅の力を開眼させたのである。おかげで、こうして余人では敷居をまたぐことさえ許されぬ大老の奥の院まで自由に出入りする資格を得たのだ。
(だが! あの下賎の者は、事もあろうにこの俺の顔へ傷を付けた!)
ほんの一刻前の醜態が思い出され、高雅の頬へ憤怒の炎が燃え上がったかのように赤みが差した。途端に左頬の傷がずきずきと痛みだし、高雅の怒りに油を注いだ。
(絶対に、絶対に許すことは出来ぬ。かならずこの俺の手で、あの男を殺してやる!)
高雅は、公綱の人を小馬鹿にするかのような姿形を思い浮べた。大体あの背格好がいけないのだ。どう見ても達磨のそれを連想させる、鞠をそのまま大きくしたような肥大漢が、あんなに素早く動くとは。いかに考えてみたところであれは詐欺としか思えない、許しがたい強さであった。そんなものに騙され、侮ってしまった自分の迂闊さは高雅には見えない。ひとえに悪いのはあの築山公綱であらねばならなかった。
(それに麗夢だ! 夢守宗家だからといって増長しおって。小娘め。もうすぐ二度とあんな出過ぎた真似は出来ない様にしてくれる!)
そのためにも、まだしばらくこの闇にも似た衣裳を身にまとう、鼻の高い老翁の事を、他の者に知られないよう注意しなければならなかった。晴れて自分が夢守の長に納まるその時まで、男の事を秘め通すことが、高雅に課せられた約束なのだ。
(大老に対しても、決して知られてはならない)
男は、そのための結界を高雅に作ってくれたはずだった。たとえ大老の力が底知れぬとしても、この結界があれば高雅の本心を隠し通すことが出来るはずなのである。
高雅は少しだけ自信を取り戻すと、更に闇を分け入って奥へ進んだ。
無限にも思える闇の中をひたすら歩み続け、まさか踏み惑ったか、と軽い怖気をふるったところで、高雅の手が一枚の襖に突き当たった。方角も判らないこの夢は、いつも高雅に見当違いの方へ歩いてしまっているのではないかという不安をもたらしてくれる。いい加減そろそろ慣れても然るべきだとも思い、歩数を取ったことさえあったが、次に来た時にはまるで歩く距離が変わっていることもしばしばだ。結局高雅は、毎度大老の夢の中で遭難する危険に怯えつつ、この襖まで辿り着いて息をつく事を繰り返しているのである。が、ともかくここまで辿り着けば一安心である。この向こう側に、目指す大老がいる。高雅はほっとして端を探り当てると、膝をついて襖に手を掛けた。いつもならここで、誰か、と誰何する大老の声が聞こえてくる。だが、この日ばかりは少し勝手が違うようだった。はっきりした大老の呼び掛けの代わりに、くぐもった小さな声が二つ、聞こえてくる。珍しいことに先客が中に居るようだ。高雅は、ともすれば遠くで蚊がうなりを上げているかのようにしか聞こえない小さな声を、拾い上げようと懸命に耳を澄ました。
「・・・どうじゃ。今度こそ想いを断ち切れたか?」
「はい・・・」
麗夢! 高雅は、小さく消え入るように大老に返事を返した声を聞いて愕然となった。自分はあの屈辱の戦いの後、すぐにこの大老の所を目指して疾駆してきたつもりである。それなのに、どうして麗夢の方が先にこの夢の中にいるのだ? 高雅は更に聞耳を立てて中の様子を窺った。
「もう三年になる」
大老が、年古りた老婆の声で、ため息混じりに麗夢に言った。
「そなたがあの平家の小せがれに身を汚され、それを清めるために諸国の霊場を経巡る旅に出てから。だが、ようやく時は来た。高雅のおかげで種が手に入り、夢の木が再び甦る時が。そして、そなたの身もすっかり美しく清められた。後は、夢の木が花開くのを待つばかりじゃ。そうなれば、綾小路家に伝わる陽の気と我が宗家に伝わる陰の気を夢の木に託し、必ずや我が願いは成就するじゃろう。それも後少し。半年もせぬ内に時が満ちる。麗夢、今度こそ、儂を失望させるでないぞ」
「はい」
第4章その2に続く。