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かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

6. 3月11日午前2時 強敵 その1

2008-03-20 08:02:45 | 麗夢小説『悪夢の純情』
午前一時五五分。かつて、丑満つ時と畏れられた時間が、まもなくやってくる。もっとも、この表現法が現役だった頃に五分差など意識もされなかっただろうから、もう草木は眠りについているといってよいだろう。しかし、鬼童研究室というこの限られた空間だけは、四人の男女と二頭の獣が、時や遅しと目を光らせて、その五分が過ぎるのを待っていた。
「そろそろですな」
 最も年長の榊が時計を睨んで呟いた。入り口を前にして左右に並ぶ麗夢と円光が、無言のうちにうなずいた。
 麗夢は常日頃のミニスカート姿から、動きやすい赤のレオタードに着替えている。足は黒いタイツと膝までのルーズソックス、肩はいつも身につけている短いマントで被っている。一見無防備とも見える格好だが、そのマントに隠されたホルスターには、強力にチューンされた四四マグナムが収まっており、先端に十字の切れ込みを入れた銀の弾丸が、夢魔に向かってその威力を発揮する時を待っているのである。円光は普段通り袈裟姿に錫杖を構え、麗夢より半歩前に出て、さりげなく麗夢をかばう構えである。その足下の小さな猫と犬ーアルファとベータも、緊張の中に身構えている。榊の後ろには、鬼童海丸が控えている。十二時間前に比べれば身だしなみこそ整えはしたが、こけた頬やまだ青冷めた顔色に、回復しきってない疲労の様子が浮かんでいる。その鬼童の話だと、相手はまずサンダルの足音をたてながら廊下をやってくるという。麗夢、円光、榊の三人にはそれがどんな音なのか、今一つ想像つきかねたが、五分後には、ああこれか、と得心する事になった。
 ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん・・・。
「エレベーターにも階段にも何の反応もない。廊下にも姿がないぞ!」
 鬼童とともに監視モニターをのぞいていた榊は、前の二人に注意を呼びかけた。監視用のカメラは、鬼童がその疲労しきった身を押して、急遽設置したものである。また、エレベーターと階段には簡単なレーダーを置き、何か動くものが現れれば、直ちに鬼童のコンピューターに表示されるはずだった。しかし、今、足音が聞こえてくるその廊下には、何の反応も無いというのである。
 ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん・・・。
「音だけとはどう言う事だ? ルミ子・・・」
 額に脂汗を浮かべながら鬼童は呟いた。やがて足音は次第に近づいて、とうとう研究室のドアの前で、ぴたりと止んだ。その一瞬のしじまを割って、円光の小さいが鋭い一言が飛んだ。
「来るぞ!」
 全員の緊張が一挙に高まるのを待っていたかのように、一瞬のためらいの後、ついに研究室のドアが開いた。
「海丸ぅ、今夜も頑張って研究しましょ・」
 円光は一目で彼女だと認めた。白衣に包んだすんなりとした体つき、短く整えた髪と縁のない眼鏡、その奥に光る大きな瞳。足下はビニールの健康サンダル。それは確かに過ぎる夜、死夢羅を拉致していった女性に間違いなかった。
(しかしおかしい。夢魔でも悪霊でもないようだ・・・)
 円光は昼の惨状から、てっきり相手は強力な夢魔の類であると思いこんでいた。しかし、少なくとも今目の前にしている女性は、姿も、気も、夢魔にはほど遠い存在である。だが、では人間なのかと誰かに問われれば、円光は答えに窮したに違いない。それは、何か異質の、今までに出会った事の無いような気の様子だった。
 同じ様な違和感は麗夢も感じていた。お互いにちらと目配せしてその事を確かめあった二人は、いよいよ警戒の念を強くして、ルミ子をにらみつけた。だが、当のルミ子はまるでその二人が目に入っていないようである。
 ルミ子はぐるりと部屋を見回して、たちまち一番奥にいる鬼童を発見した。
「ダメじゃない。さあ、行くわよ海丸。時間がないんだから頑張ってもらわないと!」
 ルミ子は、円光達を無視して無造作に一歩踏み出した。
「お待ちなさい!」
 その行く手を、まず円光が遮った。突き出された錫杖と強い口調に、ルミ子はぴくっと動きを止めた。ずり落ちかけた眼鏡に手をやったルミ子は、眼鏡を直しながらさも驚いたように円光を見た。
「あら、あなたいつぞやのお坊さん・・・、確か円光さんとおっしゃったわね。何であなたがここにいるの?」
「桜乃宮殿、貴女こそ鬼童殿に何の用があるのです」
 おっしゃっていただくまではどきませんよ、との円光の気色に、ルミ子は僅かに眉をひそめた。
「あなたには関係ない事だわ。さあ、その物騒なものをどけてちょうだい」
「そうはいかないわ。桜乃宮さん!」
 麗夢は、隠し持った拳銃をルミ子に突きつけた。声に釣られて振り向いたルミ子の眉が、たちまち一段と険しさを増した。
「あら? 海丸に妹さんなんていたかしら。でも、子どもはとうに寝てなくちゃいけない時間よ。大人の問題に首を突っ込むのは十年早いわね」
「私は綾小路麗夢! 鬼童さんの妹じゃないわ! 貴女こそ何者なの? 正体を現しなさい!」
「フーっ!」
「ワンワン!」
 アルファとベータも毛を逆立てて麗夢の怒りに応じた。ルミ子はうるさげにそれを見おろしたが、さして感銘を受けた様子もなく鬼童に呼びかけた。
「海丸ぅ。なんとか言ってやって頂戴。あなたと私の仲をやっかんでいるんだわ、この人達」
「ゆ、言うなルミ子! 僕と君との間には、な、何の関係もない!」
 おびえるように叫んだ鬼童に、ルミ子の機嫌はそれまでに増して大きく傾いた。
「何を馬鹿な事を! あなたと私は永遠のパートナー。これからの無限の時を、無数の発明と発見で埋め尽くしていく仲なのよ。いい加減目を覚まして、私についていらっしゃい!」
 途端に、研究室の空気が一変した。ルミ子を中心に爆発的に広がった気は、たちまち現実世界を浸食して、研究室を悪夢の世界へと塗り替えた。突然の事に虚を突かれた麗夢と円光を割って、ルミ子は鬼童へ近づいた。
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5. 3月10日 鬼童の災難 その2

2008-03-20 08:00:32 | 麗夢小説『悪夢の純情』
 パチンッ!
 何かが砕ける音が鋭く三人の耳を突き、同時に部屋に充満していた濃厚な瘴気の渦が、朝日に当たった霧のようにすうっと音もなく消えていった。榊は窓まで走ってカーテンを引いた。途端に明るい陽光が室内を満たし、それまでの陰気が嘘のように晴れ渡った。が、三人はその生気溢れる光の中にうずくまる人物を見て再度背筋を寒くした。直ちに円光が飛びついて、ソファーの上に寝かしつける。落ちくぼんだ目。やせこけた頬。一筋の乱れも許さなかった頭髪は千々に乱れ、無精ひげに埋もれた顔が、青白い死相を浮かべている。垢に薄汚れ、型も崩れたスーツが一週間前そのままだった事も、三人を驚かせるに足りる変事だった。
「鬼童殿! しっかりなされよ! 鬼童殿!」
「鬼童さん! 鬼童さん!」
 悪夢の最中にいた鬼童は、二人に呼びかけに薄く目を開いた。
「れ・・・む・・・さん・・・?」
「気がついた? 鬼童さん!」
「み、水・・・を・・・」
「水だな!」
 円光が部屋の隅にある簡易な炊事施設から、ややほこりをかぶったコップに水道水をなみなみとついで戻った。漸く意識を取り戻しつつあった鬼童は、弱々しい笑みを唇の端に浮かべながら、差し出されたコップを受け取った。
「ああ・・・、円光さん・・・、ちゃんと浄水器から水を汲んでくれたか?」
 そう言いながら、鬼童は返答も聞かずに一気にその水を飲み干した。円光の不調法ぶりを揶揄するいつもの軽いジャブだったが、とにかくそれで一息ついた鬼童は、麗夢に抱き起こされながらやや生色を取り戻して一同を顧みた。
「助かりました・・・。このところ、ろくに水も口にしてなかったのですよ」
「一体何があったの?」
 心配気に問いかける麗夢に、鬼童は言った。
「来たんですよ。ルミ子が。この研究室に」
 鬼童は、先週の深夜、突然の訪問を受けた桜乃宮ルミ子の件をぼつぼつと語った。
「とにかくおかしいのです。彼女が一緒に来るよう言ったと思った途端、急に意識が混濁して気づいてみるとこの部屋で眠り込んでいたんです。初めは昼間にあのような事もあった後ですから、てっきり夢でも見たのか、と思いました。しかし、次の日の夜、またもルミ子はやってきました。次の日も、また次の日も。そして朝、ここで目覚める時には、まるで何日も徹夜の実験を続けていたかのように肉体が疲労しつくし、何をする気も起きないまま、結局うつらうつらと夜を迎えるんです。それが昨日まで続きました。恐らく今日も・・・」
 床に散らばった何かを集めていた榊も、黙って鬼童の話を聞いていた麗夢と円光も、これをただの夢で片づけるには、少しばかり異常な体験を重ねすぎた。まだ相手の正体もまるで判然としない状態ではあったが、三人の嗅覚は、確かにある邪悪な存在を、その空気に確信したのである。
「その、目覚めるまでの記憶は、何もないの?」
「ええ、何も」
「この部屋に夢魔が充満していたが、それについては何かご存じないか?」
「・・・判らない。つい今まで、何が夢で何が現実か、それすら判然としなかったんだ。麗夢さんが呼びかけてくれたからどうやら正気を取り戻せたが、もしこれが円光さんや榊警部だったら、目も覚めたかどうか・・・」
「それだけ言えればまだ大丈夫だよ」
 榊は、苦笑いとともに拾い集めた破片を三人に見せた。
「円光さんがこの部屋に突入した時に破壊した物だ。これが砕けた瞬間に夢魔達も消えたように見えた」
「何かしら、これは? 紫色のガラスみたいだけど・・・」
「まさか・・・、ルミノタイト?」
 鬼童のつぶやきに、麗夢達三人は一週間前にこの場で見た実験を思い出した。実の所その内容を理解したとは到底言えない三人だったが、その美しい宝石のような姿と、名前の由来だけはしっかりと記憶していたのである。
「とにかく、どうやら事態はその桜乃宮ルミ子嬢に関係がある事は間違いないな」
 榊の言葉に円光もうなずいた。
「拙僧もそう思います。目的は分かりませんが、相手はあの死神を拉致するほどの力の持ち主です。彼女なら鬼童殿をこの様に篭絡するのも訳ありますまい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、円光さん!」
 鬼童は、円光の言葉に過敏に反応した。
「ろ、篭絡だなんて、言葉を選んでくれ。無用の誤解を与えかねない」
「そんな事よりも、これからどうするかだわ。円光さん、桜乃宮さんが死神博士を拉致した時の事を、もう一度詳しく話して。それから、どう迎え討つべきか、相談しましょう」
「そ、そんな事だなんて・・・」
 麗夢の言葉にあからさまに落胆した鬼童を放置して、三人は迎撃の相談にいそしんだ。そして、落ち込んだ鬼童を守る三人と二匹の勇者とともに、鬼童研究室は、再び午前二時を迎えようとしていた。
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5. 3月10日 鬼童の災難 その1

2008-03-20 08:00:02 | 麗夢小説『悪夢の純情』
桜乃宮ルミ子の手紙が研究室で炸裂してから一週間。麗夢、円光、榊は、予定通り午後二時に、城西大学正門の前で落ち会った。本当は翌日にでも鬼童は実験を望んだのだが、大学という組織の中で活動する以上、オーナーに受けのいい鬼童といえども様々な雑用から逃れるわけにはいかなかった。入試、卒論指導、各種会議、などなど、結局鬼童の予定表は、一週間後のこの日まで、真っ黒に埋め尽くされていたのである
 鬼童の研究室は、大学キャンパスを抜けた奥、主に物理・工学系の研究室が集積しているビルディングにある。この建物は高さ約二〇メートル、最新式のスーパーコンピューターを構内地下に設置し、縦横に張り巡らされた高速ネットワークが各研究室と世界をリアルタイムで結んでいる。これも鬼童が夢見人形をめぐる事件で旧研究室を破壊したおかげである。ここには、鬼童の研究内容はともかくその『業績』には感謝している研究者が集まっていた。
 三人は連れだって一路鬼童研究室を目指していたが、その話題は自然昨今の平和とそれによる失職の危機に集まりつつあった。これは一人公務員である榊にとっては余りよい雲行きとは言えない。実際榊も暇を持て余して気乗りしないデスクワークの毎日にうんざりしているのだが、それでも麗夢に言わせればする事があるだけまし、なのである。余り動かないせいか体重も増加傾向にあるし、とにかく困るの! というわけで、閉口した榊は柄にもなく最近の話題で事態の打開を試みた。
「所で、何でも小惑星が一つ、地球目指して飛んできているそうですな」
「何ですか? それは」
「おや、知らないのか、円光さん。巷じゃあ日本に落ちるんじゃないかって随分話題になっているんだぞ」
 うまくいった、と榊はほくそえんだ。榊の思惑通り、確かに話題は宇宙から飛来する一塊の石ころに、まんまと落ちついたからである。
「その小惑星を見つけたのが東京在住の日本人ですと。諸外国では、たった直径二〇メートルの小さなものをよく見つけた。さすが日本人だ、と妙なほめかたをしたそうな」
「じゃあこの間見せてもらった地図の夢が正夢になるのかしら?」
「このまま東京に落ちればそうなりますなあ。その発見者も渋谷の住民だそうです。何でも夜中に突然その悪夢に襲われ、胸騒ぎが収まらないまま趣味の天体観測に勤しんでいるうちに遂に発見したんだとか」
「落ちるとどうなるのです、榊殿」
「場所や突入角度にもよるだろうが、先ず広島型原爆の破壊力を下る事はないそうだ」
「そんなものが東京に落ちてきたら、大変ね」
「大変どころか、一発で東京が、いや日本が機能麻痺してしまう。しかもこの間のグリフィンの故障と違って、何もかも吹っ飛ばされて跡形もなくなりますからね。回復には時間がかかりますぞ・・・」
 などと他愛のない話を繰り広げるうちにも、一行は実験棟に到着した。明るい吹き抜けの玄関ロビーをくぐると、右手奥にエレベーターが三基、扉を開けて三人を誘っている。真ん中の一基に乗り込んだ一行は、まっすぐ五階の鬼童の部屋に向かった。今日は麗夢が先頭に立って研究室のドアをノックする。が、いつもなら麗夢が現れた途端、ドアをはね開けて笑顔を輝かせる鬼童が、今日に限っては何の動きも見せなかった。数秒待って麗夢は改めてノックを繰り返した。このフロアは鬼童の研究室の他は幾つかの実験室があるきりで、今日はまるで人気がない。そのがらん、とした空間に、麗夢のノックだけがうつろな木霊を響かせる。そんなノックを三度繰り返してから、麗夢は円光に振り返った。
「おかしいわね。お留守かしら?」
 円光も、この様な事は初めてなだけに当惑は隠せない。
「しかし、あの鬼童殿が約束の刻限も忘れて留守にするとは、拙僧には思えませんが」
「そうね。あら?」
 何気なくノブに手を伸ばした麗夢は、ドアが何の抵抗もなくすっと動いたのに驚いた。鍵がかかっていないのだ。
「変だわ。鬼童さんいるのかしら? 鬼童さーん、入るわよ」
 するとその時である。僅かに開いた戸の隙間から、死臭めいた陰気な空気が、二人の顔をふっとなでた。同時にアルファとベータがうなり声を上げた。麗夢と円光は突然の予期せぬ瘴気におぞ気をふるったが、たちまちにその正体を看破した。
「夢魔!」
 麗夢は迷わずドアを一気に開け放した。左脇に隠したホルスターに手をつっこんで、愛用の拳銃を抜き放つ。同時にドアから半透明のウツボのようなモノが数匹、海中を揺らめくように泳ぎ出た。
「アルファ! ベータ!」
 麗夢の鋭い呼びかけに応じて、小さな二匹はその見かけに封じた力を解放した。突然二匹の目が燭光を放ち、その光にさらされたウツボ達が、はじけるように蒸発する。続いて円光、麗夢、榊が研究室に突入した。室内は電灯が切られ、窓を覆う分厚いカーテンが、明るい廊下から飛び込んだ一行の目を一瞬だけ暗黒に眩ませる。が、少なくとも円光にとっては視界の有無は関係なかった。一気呵成に核心の気を探り当てた円光は、躊躇する事なく錫杖の先に込めた気を叩き付けた。
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4. 3月4日午前2時 訪問

2008-03-20 07:58:57 | 麗夢小説『悪夢の純情』
 鬼童の一日は長い。元々四、五時間しか眠らないいわゆる短時間睡眠者なのだが、実験に夢中になると徹夜する事も珍しくはない。だが、今日眠る事が出来ないでいるのは、実験のせいではなかった。一応もっともらしくコンピューターの前に座ってはいるが、さっきから画面は一向に動いていない。点滅するコマンド・ラインのカーソルを見つめる目は、まるで違うものを追っているのだった。
(ルミ子か・・・。もう随分になるな)
 鬼童は、左手のルミノタイトに視線を落とし、空いた右手でハーブティーを口に運ぶ。
(確かにあの手紙が来るまで忘れていた。アメリカではいつでも一緒だったのに・・・)
 それは、甘酸っぱいというよりは、ほろ苦い類の思い出かも知れなかった。
 鬼童との出会いは、ルミ子が天才少女の肩書きを引っ提げて鬼童の留学していた研究所にやって来た日から始まる。ただ、最初から二人が親密な関係を結んでいたわけではない。鬼童自身、自分の研究テーマを抱えて日々多忙に過ごしていたし、ルミ子の方も研究所で唯一の同胞に近寄ろうとしなかった。この、徹底した成果主義が貫かれる場所では、よりどころであった自分の燦然たる肩書きはほとんど通用しない。一方同じ国から来た男は、既にこの研究所内において一種異彩を放つ無視できない一人になっている。自分が慣れない環境で孤立する一方で、鬼童の周りには気鋭の研究者達の輪が切れない。そして何よりも、その事が意識されて止まない自分自身が気にくわない。顔を合わせばその事をいやでも意識せざるを得ないが故に、ルミ子は鬼童を避けるよりなかったのだろう。一方鬼童はと言えば、もともと面倒見の良い男ではないのに加えて、基本的に他人の視線を気にするような質ではない。鬼童の視野に収まるには、鬼童が認めるに充分なだけの研究実績を上げるか、鬼童にとって興味深い実験材料になるか以外にないのである。従って、いかに前評判が高かろうとも、実績の乏しいルミ子が鬼童の興味を引くことはあり得ないはずだった。あの、気まぐれな天使が矢を放ったとしか思えない偶然のひと時までは。
 その日、実験に失敗し、すっかりしょげ返ったルミ子を見た鬼童は、いつもの無関心を忘れたように、ふと声をかけた。確か鬼童のあやふやな記憶によれば、そう気を落とすな、とかなんとか、ごく軽い気持ちで言ったようだ。だがその次にルミ子からもたらされた反応は、今でも鮮明に思い出せるほど鬼童の心へ強烈に焼き付いていた。
「専門外のあなたに、何が判るのよ! 放っておいて頂戴!」
 ルミ子は、形相も凄まじく鬼童にまくし立てた。これまで過剰な位意識していた相手が、どう見ても優越感たっぷりとしか思えない態度で前に立っている。これでは、今まで溜まりに溜まった鬱憤が爆発しても、致し方なかったのかも知れない。ところが今回、思わぬ攻撃を喰らった鬼童の方も珍しく気が立っていた。鬼童は一歩も引き下がらずにルミ子の癇癪を受けてたち、情け容赦ない辛辣な言葉で、その実験の問題点と改善策を一つ一つ完璧に指摘して見せたのである。この予期せぬ反撃に仰天したルミ子は、それに対する反論を、とうとう一節として奏でることもできないままその言葉に聞き入った。さすがに鬼童も言い過ぎに気がついて途中で矛を収めたが、その時、初めてルミ子の中に、反発以外の何かが芽生えたことを、鬼童は知らなかった。
 その後鬼童は、人づてにルミ子が驚くほど素直に自分の忠告を受け入れた事を知って、少し興味を抱いた。彼女の中に息づく優秀な科学者としての資質に共鳴したと言うところだろうか。それをきっかけに鬼童の視線の端にルミ子が引っかかり始め、軽い挨拶を交わすまでに変化した。そうこうするうちに、鬼童はルミ子が足を痛めていることを知った。どうしても周囲の西洋人より一段低くなる身長をカバーするために、ルミ子は高いヒールを無理矢理履いていたのである。鬼童は、足を動かすたびにしかめ面になるその様子を見かね、日本から持ち込んだサンダルを勧めた。いわゆるつぼを刺激する突起のついた健康サンダルである。うさんくさげに目をひそめるルミ子を、鬼童は半ば強引に説き伏せた。
 効果はてきめんだった。
 わずか数日でルミ子から神経質そうな角が取れ、のびのびと実験に打ち込む姿が見られるようになった。それを見て鬼童は言ったものだ。
「東洋医学も馬鹿にしたものじゃないだろう? 我々は姿格好じゃなくて、ここを最良に保つ努力をしなきゃ」
 頭をこつこつと人差し指で叩いて見せた長身美形の若者を、少女がどんな気持ちで見上げた事だろうか。
 しばらくして鬼童は、彼女の研究に手を貸すようになっていた。対象は高温超伝導体の探求である。まだ基本理論すらなく、ひたすら高温記録更新を求めて試行錯誤を練り返すしかなかった日々のことだ。いったい二人で幾つの結晶を焼き、測定し、無念の思いを呑んで砕いてきたことだろうか。この日も、そんな毎日の中のワン・ピースに遇ぎない一日となるはずだった。鬼童とルミ子は、焼き上がったばかりの紫の結晶体の、測定装置が示す無慈悲な結果の前に力無くへたり込んでいた。
「どうしてうまくいかないのよ!」
 ルミ子はとうとう我慢の限界を超えて突然堰を切ったように癇癪を破裂させた。いつもなら子どもをあやすように根気よくなだめる鬼童も、この日ばかりは疲れ切って声も出なかった。こうして空気が殺伐とした非理性的な破壊衝動に支配されようとしたとき、それはついにやってきた。偶然二人の目が、突然変化した測定装置の電気抵抗値を捉えたのだ。ルミ子の叫びこそ、精神感応超伝導体、ルミノタイトの産声となったのである。
(若気の至り、か)
 鬼童は、その後の事を思い出すのに少なからぬはにかみを覚えた。幾つかの想定と実験を繰り返して明らかになったルミノタイトの驚異的な性質。湧き起こる喜びに抱きあった二人が、そこから派生した別の感情のおもむくままに、どちらからともなく唇を重ねあうまでは、数瞬の時も必要とされなかった・・・。
 鬼童はそこまで思い出してふっと笑みをこぼし、ティーカップに口を付けた。
(?)
 ティーカップはすっかり干上がっていた。鬼童はルミノタイトを机の上に転がし、何杯目かのお茶をいれに席を立った。おもむろに見上げた目に、壁掛けの時計が午前二時を告げた。
 ペタン。
 お茶を入れ直した鬼童は、突然耳をついた奇妙な音に思考を中断された。
 ペタン・・・、ペタン・・・、ペタン・・・。
(何の音だ?)
 聞き覚えがある、と鬼童は思い出した。
(そうだ、ルミ子だ。ルミ子の足音、あれがそういえばこんな音だった。健康サンダルを履いて実験室を歩き回っていた時、歩く度にあんな独特の足音になっていたっけ)
 まだ鬼童は、それが学生か誰かが居残っている位にしか思わなかった。故にその足音が次第に近づき、ぴたり、と自分の部屋の前で止まるまで、鬼童はさして気にもかけなかった。
 不審に思った鬼童がカップを手にしたままドアへ視線を移したのと、そのドアが開いたのは、完全に同時だった。
「海丸っ!」
 目を見開いた鬼童に、真っ白な固まりが突進した。
「会いたかったわ! 海丸!」
 ガチャン! と絶命の悲鳴を上げて、落ちたカップが床に中身と自身を粉々に振りまいた。替わりに鬼童の手は、白衣越しにきゃしゃな肩を掴んでいた。
「ち、ちょっと待て! 待てったら!」
 だが、ルミ子は二度と離れなかった。
「もうどこにもやらないわ。ヴィクターなんかにあなたを取られてたまるものですか。あなたはこれから、私と一緒に精神物理学の金字塔を打ち立てる運命なのよ」
 ヴィクター! 
 鬼童は一瞬だけルミ子との別れの時を頭に思い浮かべた。ヨーロッパからの魅惑的な誘いに、鬼童はルミ子を振り切るようにして研究所を後にしたのである。その時ルミ子は鬼童に言った。
「私を捨てていくの?」
 対して鬼童は、数瞬のためらいの後、沈黙を守ったまま、部屋を出ていったのである。
「ヴィクターの研究は挫折したよ・・・」
 おかしい! 言い訳がましくヴィクターの実験を話そうとした鬼童は、突然酔いが回ったかのように目の前が暗くなるのを感じた。
「そんな事はもういいのよ。さあ、来てちょうだい、海丸」
 鬼童はほとんど無意識にルミ子と腕を組み、忽然と研究室から姿を消した。残されたのは点け放しのコンピューターが奏でる冷却ファンの音と、音もなくカーソルを点滅させる、モニターの明かりばかりだった。
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3. 同3月3日午後 鬼童超心理物理学研究室 その5

2008-03-20 07:55:40 | 麗夢小説『悪夢の純情』
「これが、ルミノタイトです。その特質は今見ていただいたとおり。これは、人の精神エネルギーによって抵抗値を変え、ついには常温のままで超伝導状態に変化する物質なんです。すごいでしょう?」
 鬼童は上気して一同を見回したが、麗夢をはじめ、皆の目があまり合点の行かない色を呈しているのを見て、改めて説明の必要を覚えた。
「皆さんもう一つ理解されてないようですね・・・。じゃあ、榊警部、超伝導ってご存じですか?」
 突然名指しされた榊は、一瞬の戸惑いの後、自然に上がった手が頭をかき出すのと同時に、詳しくは知らない事を白状した。
「何せ理数系はからきしダメでね。一つ、判りやすく説明してくれ」
「私も数式はダメよ」
 麗夢も横あいから牽制を加えた。鬼童は機先を制されてやや困った顔を二人に見せたが、やがて思いついたようにまず言った。
「そうですか、じゃあ麗夢さん、電流って、何が流れているかご存じですか?」
「電気じゃないの?」
「ええ、まあ電気には違いないんですが、原子を構成するものに原子核と電子があるのはご存じですね。電流とは、この電子の流れなんです。じゃあ、電気抵抗はご存じですか?」
「電気抵抗って、電気ストーブがあったかくなるあれね」
「そうです。電気抵抗というのはようするに電子の流れにくさです。流れにくいほど電子はそこを通るのに余分なエネルギーを必要とします。電気ストーブのニクロム線が熱を持つのも、そんな余分な電気エネルギーが熱エネルギーに変化するからです。この電気抵抗は、この世にある全ての物質に大なり小なりおしなべて存在します。ところが、物質によっては、ある温度まで十分に冷やしてやると、抵抗がなくなる物があります。これが超伝導物質です。超伝導状態になった物質は、磁力線を通さないと言う性質があり、超伝導状態の物質をある一定の磁場に置くと、その磁力に反発します。今皆さんの目の前で浮いたこの石は、円光さんの精神エネルギーで超伝導状態になったため、電磁石の磁場に反発して浮いたわけです。これをマイスナー効果といい、超伝導状態をデモンストレーションするのによく使われる、物理現象なんです」
「そういえばいつだったかテレビで見た事があるわ」
 鬼童は麗夢の反応に安堵の溜息を小さくもらすと、既に情報を持て余し気味の榊をちらと一瞥して話を続けた。
「丁度麗夢さんがテレビで見ていた頃、ぼくは米国で研究に明け暮れてました。ルミ子はその時同じ研究所にいて、高温超伝導体の研究をしていた物理学者なんです。時に、一九八六年、臨界絶対温度三〇度、すなわち摂氏マイナス二四三度で超伝導状態に突入する物質が発見されて以来、世界を上げて高温超伝導体の開発競争が繰り広げられていました。そんなある時、偶然ルミ子の実験を手伝っていたぼくの目の前で、ルミ子はふとした事から常温域、すなわち摂氏二〇度付近という超々高温で、近くにいる人間の精神状態に応じて抵抗値を激しく変える物質を発見したのです」
「それが、ルミノタイトね」
「正確には、ルミノタイト・アルファです」
「ミャア?」
 自分が呼ばれたのかと小首を傾げた子猫の頭をなでながら、鬼童はその先を続けた。
「その後、いくつかの構成分子をいじりながら、同じように精神反応性に富むベータ、ガンマを作りました。そのうちにぼくはヴィクターの人造人間に関する基礎研究にのめり込んでしまって桜乃宮とは袂を分かつ事になり、この記念すべきルミノタイト第一号が僕の手に残った、というわけです」
「で、その実験とさっき言った証明試験とやらは、どうつながるんだね」
 一息付いた鬼童は、榊の問いに労を惜しまず説明を続ける事にした。
「簡単に言いますと、この世界には、力の形態が四つあります。引力、電磁力、弱い相互作用、強い相互作用、この四つです。一部で更に第五の力、斥力を発見しようと言う研究も行われていますが、未だ証明に成功していません。そこでこの四つの力が宇宙創世とともに今日に至るまで、あらゆる現象を支配している基本法則という訳なのですが、ルミ子は、第五の力として精神力を定義し、この物理法則と全く矛盾しないものとして位置づけたというのです」
「それが、そんなに大変な事なのかね」
 榊にはもう一つ鬼童の熱意が伝わらない。内容を理解できないのが一番の原因だったが、鬼童にしてみれば高温から低温に流れるという熱力学第二法則に従わない榊の反応の鈍さにいらだちが募るばかりである。鬼童は、少しばかり声を荒げて榊にもこの熱を伝えようと躍起になった。
「いいですか榊警部、精神エネルギーを語る場合も、必ずこれまでの物理法則に矛盾しないエネルギーである事を、説明できる論理的整合性が必要なんです。それが今まで出来なかったから、つまらない心霊怪奇特集がマスコミを賑わしたり、超能力が見せ物にされたりしてきたんです。でも、頑迷な研究者のように頭からその存在を否定するのならともかく、私のような存在を信じる少数派にとっては、この物理の基本法則と精神エネルギーの関係を正確に解き明かす事は悲願とも言える事なんです。ルミ子は、ルミノタイトという精神エネルギーを物理現象として観測できる物質を使って、その証明に成功した、と言ってるんですよ」
「ふうん。しかし君の専門は確か心理学だったな。どうしてそんなに物理学なんてものに詳しいんだ?」
「今は、学問の最先端と言う奴は、互いに重なり合っているものなんですよ。まあとにかく、桜乃宮の言う事が正しいなら、漸く精神の世界も物理的に解き明かせる日が来るんですよ・・・」
 果たして麗夢、榊、そして円光が鬼童の語る話を理解し得たかどうかは怪しいと言うしかない。榊などすっかり毒気を抜かれて肝心の桜乃宮ルミ子との関係追求すら忘れて帰途についた位だったが、三人の胸中には、どうも何か一つ、途方もなく大事な事を忘れてしまったようなもどかしさが残っていた。だが、彼等がその事について思い出すには、もう少し落ちついて考える時間が必要であった。
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3. 同3月3日午後 鬼童超心理物理学研究室 その4

2008-03-20 07:55:12 | 麗夢小説『悪夢の純情』
「本っ当に何もなかったんですからね」
「しつこいわよ鬼童さん。それよりせっかくああ言ってらしたんだから、早く読んでさしあげたら?」
 これは怒っている! 鬼童は暗然とした気持ちで麗夢の勧告を耳にしたが、もはや取り繕う事もできない。この場はあきらめるしかないと観念した鬼童は、もう一度手紙に手を伸ばし、おそるおそる封筒から便箋を取り出した。まだ何か隠れているかも知れないと思うと、さしもの鬼童も、爆発物処理班もかくやと言わんばかりな慎重さを意識せざるを得ない。周りはと言うと、やはり何か起こる事を期待しているようである。それにしてもと鬼童は思った。
(円光もやってくれる。まさかこんな手で来るとは)
 さっきまでの感謝も忘れて、鬼童は円光を睨み付けた。が、円光はそれを難なく受けとめて逆に見つめ返した。円光からすれば、鬼童の邪推はおよそ見当違いであるし、鬼童が何を怒っているのか、あるいは本当に気づいていないかも知れないのである。あまりまっすぐに見返されて、鬼童は思わず視線を封筒に返した。口を開いたそこには、小さなメモリーとフィルム型スピーカー、それにバッテリーが巧妙に隠れ、封を切ると同時にスイッチが入るように細工してあった。つまらない悪戯をして、と鬼童はいつになく苛立たしげに愚痴をこぼしたが、中から二枚のかわいい便せんが姿を現した時にはまたもやどきりとして手紙を取り落としそうになった。鬼童は、その丁寧に折り畳まれた様子を警戒し、封筒同様細心の注意を払って便せんを開いた。今度は何事もなく紙は開かれた。ほっと一息ついた鬼童は、恐る恐るその文字を追った。が、鬼童の怖じ気ぶりもほんの数秒の事だった。途中まで、どちらかと言うと気もそぞろに字を追っていた鬼童は、あるところで急に目を見張り、周囲の目も忘れて、その内容に熱中したのである。
「本当だろうか?」
 しばらくの沈黙の後、漸く開いた口から漏れる不審の色を、麗夢と榊は少し心配げに眺めやった。やがて鬼童は中身をすっかり読み終えると、困惑を隠せない面もちで、三人と二頭に振り向いた。
「何ともはや、ルミ子、いや桜乃宮は、精神エネルギーの粒子的形態、霊子(スピリトン)を発見し、超ひも理論における素粒子と力の統一理論の中に位置づける事に成功した、というんですよ」
「れいし? 超ひも理論? 一体なんだ? それは」
 榊の問いに鬼童は興奮も隠さず説明した。
「一口で言うと、精神は場として存在し、その力は波の性質を持つと考えられます。それを量子力学的に解釈した時に現れるのが、スピリトン、すなわち霊子です。性質は不明ですが、電子が磁場を形成するように、霊子も霊場とでも言うべき場を形成するのでしょう。私は、夢の世界もそのような場の一種ではないかと思っているんです。もう一つ、超ひも理論というのは、物理学の根本をなす四つの力を一つの方程式で表そうと言う試みの、基本になる仮説ですよ」
 残念ながら、榊は鬼童の言う事を半分も理解できなかったに違いない。もっとも榊としては、そんな難解な話よりも、桜乃宮ルミ子と鬼童海丸の関係の方がはるかに解き明かしたい課題である。
「で、そのルミ子さんは他に何か言ってないのかね」
「ええ、ルミノタイトを使ってその証明実験を行うから、協力して欲しい、とありました」
 榊は、期待しない内容と、またも増殖した不明の単語に少なからず落胆した。
「今度はるみのたいと、か。何だね、それは」
「ルミノタイトですか? 桜乃宮ルミ子が発見した、精神感応高温超伝導体です」
 榊は、山寺で禅問答をしているような錯覚に陥った。どうもさっきから鬼童の言う単語が理解できないのだ。以前榊は、警視庁内の電算化に伴い若い者に混じってコンピューターのマニュアルにかじりついた事があったが、今鬼童と話をするのは、その時の悪夢を彷彿させるものがあった。
「どうもさっぱり判らん。麗夢さん、判りますか?」
「全然。理数系は苦手なのよ。円光さんは?」
「拙僧もまるで・・・」
 以前、実験中にうっかり鬼童に質問して、繰り出される数式の海に溺れかけた経験を持つ二人は、あっさりと榊の肩を持った。
「それじゃあ、お見せしましょう」
 もう一つ反応の乏しい三人に業を煮やした鬼童は、おもむろに立ち上がると奥の事務机の引きだしをあけた。
「確かここに入っていたんだが・・・。あ、あったあった」
 鬼童がしばらくして取り出したのは、小さな石であった。それは手のひらに乗る程のかけらに過ぎなかったが、美しい八面体が磨き上げられて透明な紫の光を放ち、一見宝石のような外見を見せている。
「きれい・・・。何なのこれ?」
 鬼童は麗夢の質問を笑顔で抑えて、円光を呼んだ。
「口で言うのは優しいですが、これの意味を知ってもらうために少し簡単な実験をお見せしましょう。円光さん、ちょっと協力してくれないか?」
 鬼童は、今度は引きだしからむき出しのコイルも厳めしい、一台の電磁石を取り出した。その上に石を置くと、電磁石のスイッチを入れた。
「さあ、円光さん。この石に気を集中してくれ。円光さんなら、きっとうまくいく」
「うまくいったら、どうなるの?」
「まあ見てて下さい」
 もう一つ要領を得ない麗夢だったが、鬼童の勧めるままに気をこらす円光も、一体何が起こるのか見当も付かなかった。榊、アルファ、ベータも、興味津々で円光と磁石を見つめている。
 変化は、突然にやってきた。
 見つめ始めて十秒もたった頃だろうか。急に石が音もなくすっと浮き上がったかと思うと、磁石から十センチくらいの所で静止して、そのまままるで透明の台に載っているかのように、微動だにせず浮かんだのである。
「こ、これは一体どうしたんだ? 超能力か?!」
「いやいや、そんな特殊なものではないです。れっきとした物理現象ですよ」
 試しに触ってみろという鬼童に尻込みした榊に代わって、麗夢がその結晶にそっと触れた。初めは人差し指で少しこづき、ついで上から押さえつけるようにしてその抵抗を確かめた。
「まるで磁石が反発しているみたい」
 驚く麗夢と榊を見て、鬼童は満足そうに円光へ呼びかけた。
「どうもごくろうさまです。でもさすがに円光さんだ。ぼくなどはどんなに集中してもなかなかぴくりともしないんですよ」
 円光はうっすらと額に汗を浮かべながら、緊張を解いた。途端にそれまで宙に浮いていた石は、今度は糸が切れたようにぽたり、と磁石に落ちた。鬼童は磁石のスイッチを切り、石をもう一度手に取った。
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3. 同3月3日午後 鬼童超心理物理学研究室 その3

2008-03-20 07:53:29 | 麗夢小説『悪夢の純情』
 老人の顔が半分が骸骨になっていたという人、大きな鷲鼻が突き刺さらんばかりに襲ってきた、と言う人など幾つかの具体例を挙げながら鬼童の報告が締めくくられると、それは確かに死夢羅だろう、と言う共通の認識が、一同の胸にできあがった。が、何かおかしい。それを初めに整理して口にしたのが、麗夢だった。
「でも、何か妙ね。あの死夢羅が苦しげに、泣きながら走るなんて」
「そうです。それに何もしないで走っていったというのも変だ」
 そんな事は絶対あり得ない、と榊も自分の疑問を口にした。
「実は夜勤中に、この夢を見た警官がいる。その話によれば、鎌を振り上げて襲いかかってきたそうだ。運良く途中で目覚めたおかげで手を切られただけで済んだが、そうでなければ、袈裟掛けに切り殺されていただろう」
 榊は、交番のマークの上に付けられた赤い点を指さした。が、それまで沈黙を保っていた円光が、気むずかしげな表情のまま、いかにも言い難そうに榊に言った。
「榊殿、申し上げにくい事ながら、拙僧にはその夢、単なる偶然ではないかと思うのですが・・・」
「何か根拠があるのかね。円光さん」
 身内の事だけに少しむっとして顔を上げた榊は、続けて円光が語りだした三日前の体験に、思わずうなり声を上げて問い返した。
「すると、あの死神が手も足も出せずに、どこかに連れ去られたというのかね」
 円光は黙ってうなずいた。が、榊は合点がいかなかった。あの死夢羅が、一介の女性に何の抵抗もできずに捕まえられるなんて、信じろと言う方が無理であろう。しかし、一方で円光が戯れ言を吹聴するような性格でない事も榊は知っていた。
「どう思います? 麗夢さん」
「どうって、円光さんが嘘付くはずないし・・・」
 麗夢も半信半疑で首を傾げた。鬼童など、はなから夢でも見たのではないか、と疑ってかかったが、円光のはだけた胸に、傷跡も生々しい鎌の跡を見せられては、そう疑ってばかりもいられなかった。
「で、その死夢羅を拉致したという剛腕のお嬢さんは、一体誰だね」
「判りません。でも、鬼童殿の知り合いか? 宜しくと申されていたが。そうそう、うっかりしていた。これを・・・」
 円光は、懐から一通の手紙を取り出した。
「これを鬼童殿に渡してくれと頼まれた」
「ふうん」
 封筒は特に特徴のない既製品である。表書きは大学の住所と鬼童の名前がワープロ印字のゴシック体で打ち込まれているばかりで、没個性も甚だしい。一体その女とは誰か? 興味津々の視線を意識しつつ、鬼童がその手紙の封を切った瞬間だった。鬼童をはじめそこにいた全員が、突如没個性の仮面を脱いだその手紙に、仰天する事になったのである。
「やっほーっ! 海丸元気ぃ?! あたしよ、あたし。どう? 思い出した? だったらいつもみたいにその辺に放り出さないで、今直ぐこれを読みなさい。判った? 愛する海丸へ。おーほっほっほっ・・・」
 反射的に鬼童はその手紙を放り出した。手紙は、唖然とする皆の間をスローモーションのようにゆっくりと舞いながら、応接セットのテーブルに落ちた。鬼童は、頭脳の奥底で閃いた古い記憶のままに、遠く忘れていた相手の名前を口にした。
「る、ルミ子か!」
「ルミ子、さん?」
「ほう? 誰なんですそれは?」
「わんわん」
「にゃん!」
 鬼童思わずしまったと思った。特にルミ子がいやに親しげに自分を名前で呼んだ事と、それを麗夢がはっきり聞いていた事に、自分を見失いそうになるほどの衝撃を受けた。既に、ここに集うもの全てが彼女の声を聞き、鬼童の返答に耳をそば立てている。鬼童は好奇心一杯の十の目に、何らかの反応を示す必要に迫られた。
「さ、桜乃宮ルミ子。昔の研究仲間ですよ。アメリカにいた頃の」
「桜乃宮?」
 はて、と榊は首を傾げた。
「知ってるの? 榊警部」
 麗夢に問われて、榊は再度首をひねった。
「うーん、何か聞いた事があるような名前なんだが・・・。思い出せないな。まあ、思い出せないくらいなら大した事もないでしょう。それより鬼童君、本当にそれだけなのか?」
 一時は逸れた矛先が、再び自分に向いて鬼童は動揺した。榊の問いかけを待つまでもなく、物足りなそうな、うさんくさげな色が十の瞳に浮かんでいる。鬼童は、麗夢にまで「それだけじゃないでしょう?」と問い詰められているような気がして、どう言い繕うか必死に考えた。
「も、勿論、ただの研究仲間ですよ。それ以上の関係は絶対、天地神命に誓ってありません!」
「でも、相手は実に親しげに君の名前を呼んでいたようだが」
 そんなはずはなかろう、白状したまえと迫る榊に、鬼童は、風切り音が聞こえそうな位大げさに何度も首を振り、すがるような目で麗夢を見た。
「信じて下さい、麗夢さん。ルミ子・・・いや桜乃宮とぼくとは、本当にただの研究仲間だったんですから」
「その割には君も結構親しそうじゃないか。相手を名前で呼び捨てにするなんて」
「そ、それは、アメリカではファーストネームで呼び合う方が普通でしょうが? 榊警部!」
「それはそうだが・・・」
「もうそれくらいにしたら、榊警部。鬼童さんも、あんまりうろたえると、いい男が台無しよ」
 麗夢にたしなめられたのを潮時とばかりに、榊は漸く矛を収めた。鬼童は取りあえずほっとしたが、果たして麗夢が自分と桜乃宮の間をどれくらい邪推しているかという不安は、まるで解消されていない。
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3. 同3月3日午後 鬼童超心理物理学研究室 その2

2008-03-20 07:52:14 | 麗夢小説『悪夢の純情』
 榊は警視庁に在職する公務員である。捜査能力、格闘術、射術、指揮・統率力と過不足無く鍛え上げた敏腕は、警視庁切っての荒武者として名を馳せている。少しくたびれかけたコートにがっしりとした骨格を包み、やもすれば手入れが不足がちになる髭が顔の下半分を覆っている壮年の男だ。それが、死神博士こと死夢羅博士の事件以来、何かと常識では捉えきれない事件に巻き込まれる事が多く、今や警視庁内部でも、「訳の分からない事件は榊警部」、という暗黙の了解が成立していた。そんな困った事件を持ち込まれる度、榊は鬼童や円光、そしてこの麗夢に助力を求め、事件を解決しているのである。
 鬼童は、和気藹々と会話を続ける二人を恨めしげに眺めながめていたが、すぐに気を取り直して麗夢に言った。
「それじゃあ今日は雛祭りでもある事ですし、特別にアルバイト料をはずませてもらいますよ。夕食付きで」
 少しばかり下心を露出させながら鬼童は言った。知ってか知らずか、こう言う時の麗夢の反応はいつも決まっている。
「わあ! ありがとう、鬼童さん。でも、無理しないでね」
「何、あれからここのオーナーは気前がいいんですよ。予算もほとんどぼくの言いなりなんですから」
 また始まったか、と榊は思った。この大学の経営者が鬼童に惜しみない助力をするのも、夢魔にとりつかれて命旦夕に迫ったところを、鬼童が麗夢の力を借りて(というよりほとんど麗夢の力を使って)助けた事に端を発している。しかし榊は、何となく鬼童が実は最初から予算獲得のために事を仕組んだのではないか、と考えないでもなかった。何の根拠もないのだが、鬼童には確かに純粋さから少しずれた、ダーティーな香りがほのかに漂うのである。だがそんな榊の思いも、突然膝に飛び乗った二頭の動物に蹴り飛ばされた。
「にゃん!」
「わんわん」
「おお。アルファ、ベータも元気そうで何よりだ!」
 榊は、その毛玉のような二頭を抱いて、おかえしの挨拶に顔中をなめられた。
「榊殿、これは?」
 榊の対面に腰を落ちつけた円光が、目の前に広げられた地図を指さした。一見、何の変哲もない東京二十三区である。ただ、普通の地図と違うのは、そのあちこちに三文判位の青や赤の点が付けられている事だった。麗夢も興味深げにその地図を覗き込んだ。
「ああ、これか」
 榊はアルファ、ベータを降ろし、軽く腕で顔を拭って二人に言った。
「鬼童君が今作っているものなんだ。丁度いい、麗夢さんと円光さんの意見も聞かせてもらったら?」
「勿論そのつもりですよ」
 鬼童はあたたかい湯気を立てながら、ハリオールへお湯を注いだ。既に人数分のカップにはなみなみとお湯が張られている。一つだけ肉の分厚い湯飲みになっているのは、円光の緑茶である。
「何なの、この点は?」
「ここ三日ほどの、悪夢を見た人のプロットですよ」
 鬼童は三人の客にお茶を配りながら、簡単に内容を説明した。
 事の起こりは、鬼童のゼミの学生達が見たという夢であった。別々の場所でほぼ同時に似たような内容の夢を見る。その話に興味を覚えた鬼童は、急遽更に何人かの学生を捕まえてはこの数日の夢についてアンケート調査を実施した。その結果を落としていったのが、目の前の地図なのである。鬼童がまず注目を要求したのが、地図の西寄り、丁度渋谷界隈に、ほぼ円形に青く散りばめられた部分だった。
「この青い点は、三月一日の晩に見られたという夢です。内容は、爆発、火事、崩れるビルなど、どうも東京が壊滅する、という共通のイメージがあるようです。麗夢さん、何か感じませんでしたか?」
 鬼童は、相当の期待感を持って向かいの美少女を見た。麗夢は、その事務所を青山の一角に据えて活動しているのである。しかし、麗夢はすまなそうに首を横に振った。
「その日は丁度横浜で久しぶりの仕事だったから・・・。ごめんなさいね、鬼童さん」
 意中の女性に頭を下げられて、鬼童は慌てて話題を転じた。
「い、いや、そんないいんですよ。それよりこっちの方がより我々には意味のある夢だと思うのですが・・・」
 鬼童の指が、その青い点をはずれて、地図上に点在するいくつかの赤い点を、星を描くように適当に指し示した。
「これらは一見何の連携もない様なんですが、全て、この二晩の内に見られた夢のプロットです。現在もまだ収集中ですから、もう少したてば、もっと多くの事例が寄せられると思います」
「それで、その夢の中身って何なの? 私たちにより意味のある夢って」
「死夢羅です」
 既にその事を告げられていた榊も、改めてそこに集う仲間と同じく息を飲まずにはいられなかった。それほどにその名前は、恐怖と怒りを皆の心に沸騰させる事が出来るのである。皆の沈黙は、鬼童が続けて説明を始める事で漸く破られた。
「実際に見られたのは、シルクハットをかぶった銀髪黒尽くめの老人が、全身を覆うほどな黒いマントをなびかせながら巨大な鎌を振りかざして疾走して来たかと思うと、苦しげな、あるいは人によっては確かに泣いていた、と言うんですが、そんな表情で一目散に走り去っていくというものなんです」
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3. 同3月3日午後 鬼童超心理物理学研究室 その1

2008-03-20 07:50:01 | 麗夢小説『悪夢の純情』
 城西大学の経営者は、有り余るお金の使い道に困っている道楽者である。おかげで、城西大学超心理学研究室の主、鬼童海丸は、国立大学ではその存在すら許されない異端の城をここに構築し、一人、真実の探求者たる地位をほしいままにしているのである。今日も、その電子の城と化した彼の研究室で、湯水の如く電気を喰らう実験システムがスタートを待っている。その中で「城主」鬼童は、白衣に身を固めた臨戦態勢のまま、なかなか進まない時計を焦れったく眺め、来客を歓待する準備に勤しんでいた。
 鬼童は少壮の天才科学者である。少しばかり山師的な怪しさがあるが、天才にありがちな偏狭さや異常性を持たず、一見青年実業家とも取られかねない精悍なマスクと長身という外観もあって、学生を中心に異性のファンも多い。ただ、鬼童自身はその研究対象の浮気ぶりに比べば信じがたいほど身持ちが堅い。その美貌なら即大学を自分専用のハーレムに出来るのに、とやっかみ半分に惜しむ声は多い。だが今の所、鬼童はそれをただ一人の女性にしか行使しようとはしないのである。しかもその女性が、鬼童の武器を好ましく思いつつもなかなか容易になびかないとあって、鬼童は益々その人一筋に知恵を絞り続けるのだった。
 準備に没頭する鬼童の傍らで、突然コンピューターの画面が切り替わり、意中の女性に模した電脳秘書が、客の到来を鬼童に告げた。鬼童は体当たりする勢いで応接室兼用の書斎に駆け込むと、先客のよれたコートを飛び越え、その先にあるドアのノブを勢いよく引いた。
「いらっしゃい! 麗夢さ・・・ん?」
「これはお出迎え忝ない、鬼童殿」
 飛びつかんばかりに破裂した笑顔が、一瞬その端正な顔の上で凍り付いた。あらかじめ、相手の顔の高さを予測して投げた視線が墨染の衣にぶつかり、主人の驚きのままにすっと上方に移動して、自分と張り合うほどな美形の剃髪の上で停止した。鬼童は、落胆を隠しもせずに声にした。
「なんだ、円光さんか。遅いじゃないか。時計くらい持ってないのか」
「いや、拙僧は日の高さや腹の空き具合でおおよその目安をつける故、そのようなものは所持いたさぬ。それよりも・・・」
 この二〇世紀に一体何を考えているんだ、大体実際に時間に遅れているじゃないか、と失望を転嫁して嵩にかかった鬼童の前で、円光はさして気にする様子もなく軽く身を脇に寄せた。その広い肩越しに、少し前屈みになった一人の少女が、まるで隠れんぼしていた子どものようにいたずらっぽい笑顔を見せた。
「ごめんなさい、鬼童さん。ちょっと遅れちゃって」
 やや凹凸に乏しい体つきや、赤いミニスカートから伸びる肢体が少し太めに見えるせいか、時としてその姿は非常に幼く見える。豊かな緑の黒髪は柔らかなウェーブを描きながら腰を隠し、いつも鬼童を魅了してやまない大きな瞳が笑いかけている。綾小路麗夢。人智を超えた超常現象相手によろず相談の看板を掛ける、年齢不詳の美少女探偵である。
「いや、そんな! 少しくらい遅れたってどうって事ないですよ! なあ、円光さん!」
 ついさっきの物言いを見事に棚に上げて、鬼童は円光に同意を求めた。円光は鬼童にとっては恋敵である。この目の前の少女を挟んで、陰に陽に競い合う中だ。だが、このくらいの事で点数を稼ぐような発想は、円光にはない。おかげで鬼童は、黙ってうなずいた無毛の頭に、心の中で素直に感謝する事になった。
「どうぞ、麗夢さん」
 ほっとして道をあけた鬼童の脇を、ありがとうと会釈して麗夢と円光が過ぎる。続けてその足に絡まるように、小さな猫と犬が鬼童の足下を通過した。麗夢の相棒、アルファとベータである。軽く尻尾を振って挨拶するあたりは凡百のペットを超えている。だが、彼等の本当の力はそんな可愛らしいモノではない。見かけは手に乗る位貧弱なのに、危ない橋を好んで渡る主人にとってはこの上なく頼もしい力を、その中に秘めているのである。
「あら、榊警部。どうしたの?」
 麗夢は、先客を応接セットに認めて声をかけた。榊は穏やかに笑顔を上げて、長い付き合いの友人を迎えた。
「円光さんも、久しぶりだな」
「やあ、榊殿、息災で何よりです。して、今日は何故鬼童殿の所へ?」
「何、最近死神博士も鳴りを潜めているし、あぶない鎧武者や怪しげなサーカス団の類も出てこない。はっきりいってちょっと暇なんで、遊びに来たと言うわけだ」
 困ったものだと顔をしかめた鬼童の前で、麗夢もまた本当に困ったと言う顔をした。
「そうなのよぉ。だから私も暇で暇で」
「ほう、麗夢さんもですか。いや全く、平和はいいとは言うものの、このままでは三度の食事にも事欠きますな」
「榊警部はいいわよ、公務員だから。でも私のような自営業にとっては死活問題なのよ」
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2. 3月3日早朝 蠢動

2008-03-20 07:48:12 | 麗夢小説『悪夢の純情』

 東京郊外の住宅地は、終電が最後のビジネスマンを都心から吐き出した後の平穏で静かな夜に包まれていた。いずことも知れず走る車のエンジン音が木霊のようにくぐもり、点々と灯る街灯がわずかに闇を退けて、おぼろに街をたゆたっている。この町中の派出所でも、酔っぱらいや喧嘩にかき乱されることもないまま、たんたんと時が刻まれていた。宿直当番の田川巡査長三五歳は、その日一日の日誌を付け、届けられた落とし物などの整理を終えると、奥の宿直室で熱いコーヒーを入れ、おもむろに分厚い本を机上に広げた。その素っ気ない表紙を見ながら、やれやれと田川は首を回す。こきっと骨の鳴る音が響いて、わずかな心地よさを覚える間もなく、進まない気を無理矢理本に向けた。昇進試験のための勉強である。だが、草木も寝静まろうかというこの時間、ただ一人コーヒーの香りだけを頼りに意識を保ち続けるのはなかなかに至難の技である。初めのうちこそ右手の鉛筆を器用にくるくる回しながらページをめくっていた田川の意識は、ほどなくしてうち寄せる波のような睡魔に誘われていた。思わず引き込まれそうになるたびに、これはいけない、と手を休めて目頭をもんだりするものだから、余計にページは進みそうもない。そして、そんなささやかな抵抗も長くは続かなかった。10頁ほども読むことが出来ただろうか? いつしか右手から演技に失敗した鉛筆が滑り落ち、左手に支えられたまま、田川の頭はうつらうつらと夢の世界に漕ぎだしていた。
 田川は今、夢の中で勤務に就いていた。本人は勿論、勉強を続けているつもりである。そんな田川の顔を、生臭い微風がふっとなでた。また誰かが収集日を無視して向かいのゴミ置き場に生ゴミでも捨てに来たのか。先日の苦々しさを思い出し顔をしかめた田川は、今度こそ捕まえて注意してやろうと席を立った。
 派出所は、駅から住宅街に伸びる道に面していて、正面は道を挟んでむかいの公園並木のはずだった。ところが、その時田川の目に入ったのは、派出所に向かって真っ直ぐ伸びる、たった一本の道だった。その両側は真っ暗で何があるかも判らないのに、道だけがおぼろに白く浮かんで、風はそこから流れてくるのだ。田川は変だと思いつつも何となくその道に出た。そして地平線に突如現れたシミのような点が、急激に大きくふくらんでくる様子を、ぼんやりと見つめていた。それは、やがて走ってくる人の形に像を結んだ。漆黒のシルクハットから輝くような銀髪をはみ出させ、全身を黒のタキシードに包んだ背の高い男が、何か長い棒を持って迫ってくるのだ。背中にはこれも真っ黒なマントを翻し、彫りの深い顔の右半面はうつろな穴を穿つ骨を露出し、中央に屹立する大きな鷲鼻が、まっすぐこちらを睨み据えていた。田川は、相手の右の眼窩から、時折きらりと跳ねる光がちらつくことに気が付いた。
(涙?)
 だが、田川にはその疑問を意識のそ上で吟味する暇はなかった。人の足とは思えない猛スピードで突っ込んできたその老人は、先に鋭い刃をつけた、巨大な鎌を振りかざし、田川めがけて叫んだのである。
「どけ! 邪魔だ!」
 突然耳に鳴り響いた轟音と共に、その鎌は田川めがけて振り下ろされた。
「ひいっ!」
 止まった時が一瞬にはじけた。反射的に身をのけぞらせ、右手が顔の前で鎌を受け止めた。そして、突進する自動車にぶつけられたかのような衝撃を覚えた瞬間、田川は、顎を襲った衝撃に突如として目を覚ました。
「大丈夫ですか? 先輩?」
 田川は、すぐに自分がだらしなく眠りこんでいた事に気がついた。明るい派出所の電灯の下で、自分を心配そうに見つめる後輩の顔が目に映った。田川は支えの手から落ち、机の角に激突した顎の痛みをなでながら、ああ、大丈夫だと手を振った。
「ちょっと居眠りしてしまったよ。ところで・・・」
 ぴしっ、と小さな音がして、手から飛んだものが机の上の参考書に赤いしみを付けた。
「ちょっと先輩、どうしたんです!」
 田川の右手が、丁度赤い手袋をはめたように染まっていた。血である。手の平が鋭い刃物ですっぱりと割られ、その切り口に骨がのぞいていたのだ。
(そんな馬鹿な・・・)
 田川の顔は、手から抜けた分以上に色を失って真っ青になった。確かあれは夢だったはずだ。夢の中で切りつけられたからって、それが現実になったりするものか? 大丈夫ですか、と気遣う後輩に田川はこわばった顔を向け、シルクハットをかぶった黒尽くめの人間を見なかったかと問い返した。しかし、むろんそんな人物が目を覚まして警ら任務についていた後輩に見えたはずは無い。田川は、後輩の表情に単なる気遣い以上の色が浮かぶのを見てそれ以上の質問を避けた。
 結局田川が悩みに悩んだ末、敬愛する上司、警視庁の榊真一郎に事情を話す決心をしたのは、救急病院で巻いた白い包帯に朝日がほの赤く映える、その日の朝の事であった。
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1.  3月1日 死夢羅の災難 その5

2008-03-20 07:47:05 | 麗夢小説『悪夢の純情』
「当然じゃない。あなたの行方をずっと追っていたのよ。あなたが去年からここで何か企んでいた事も知っていたわ。それで、私の実験室にご足労願う機会を待っていたわけ。随分戦いに熱中してらしたから、チャンスを掴むのは楽だったわよ」
「しかし、何も感じなかった。貴女が近づくのを」
 円光の驚きは、死夢羅のそれでもあった。特に死夢羅は、実験のためにこの一帯にたくさんの結界を施していたのである。ごくたまに円光のような特殊な人間に突破される事はあったとしても、とそこまで考えて死夢羅はあっと気が付いた。そういえば、円光の近づいてくる事すら、自分は知り得なかったではないか。愕然とした死夢羅の目は、目の前の女の手にある小さな機械に吸い付けられた。
「その機械だな。どんな方法か知らんが、わしの結界を無効にし、わしの自由を奪い、ついでにこのくそ坊主をかためているのは」
「判らない? 自分がどうして動けないのか?」
 女は一瞬眉をつり上げて死夢羅をにらみつけると、ふうっと大きくため息をついて、怒りと言うよりは、むしろ哀れみに近い目で死夢羅を見た。
「もう何年になるかしら、博士が第一線から姿を消したのは。あれからどんな秘密の研究に没頭されているのかと期待に胸を膨らませていたけれど、この歳月はむしろ博士の才能を錆び付かせる事しかできなかったのね」
 女は独り言のように呟きながら、ビルの端近く、死夢羅や円光が飛び降りた辺りに歩み寄った。そこからは、まだ窓が開いたままになっている死夢羅の研究室を覗く事が出来る。そこにちらちらと明かりがまたたいているのを見た女は、二人に振り返ってもう一度ため息をついた。
「精神波増幅器ですか……。でも、死夢羅博士、あれ位の機械、せめて電話帳の大きさにしないと。今時素人でも、あんなこけおどしに驚いちゃくれないわよ」
「な、こ、このわしの苦心の結晶を、こけおどしだとぉ!」
「こけおどしで悪ければ、がらくたね、老いては駿馬も駄馬に劣ると言うけれど、老いた駿馬とはまさしくあなたの事よ、死夢羅博士。精神の分野では知らぬ者とてなかった博士の令名も、今ではその論文と共にくずに成り下がったわ」
「く、く、くずっ! こ、こ、このわしを! おのれえぃ、許さん、許さんぞおっ!」
 死夢羅は全身を振り絞るようにして怒りの様を口にした。だが、女はむしろ更に軽侮の色を上塗りして、死夢羅の怒りをあおりたてた。その目は時折手元の機械に表示される数字に注がれるのだが、死夢羅も円光も、そんな視線の瞬間移動に気づくほどの余裕は無い。
「あら、怒ったの? でも、事実は事実だわ。現にあなたは私の作った結界を破れないでいる。最近の論文にもろくに目を通してないんでしょう? ちゃんと研究に勤しんでいれば、これ位のちゃちなおもちゃに捕まったりはしない筈よ」
 死夢羅は、言葉を失って歯ぎしりとともに沈黙した。確かにこの小娘の言うとおりだ。今や、力の源である地霊や夢魔も、死夢羅の助けにはならなかった。これまで感じた事のない程の深い敗北感に襲われた死夢羅は、ふうっと肩の力を抜いた。と同時である。突然死夢羅の身体が自由になった。いや、実際にはまだ、死夢羅は自由にはほど遠い状態にあるのだが、その拘束感が感じられないと思うほどに、変化が劇的だったのである。
(そうか、これがこの結界の秘密か!)
 死夢羅は、今やっと気づいた事実に、新たな憤怒を吹き上げた。この結界は、どういう力を利用しているのか、此方の力が強ければ強いほど、より強力にその拘束力を高めるのだ。死夢羅は、円光の方が少しばかり楽にいるように思えるのが不思議でならなかったのだが、これでその謎は完全に解けた。
(つまりあの坊主より、わしの方が強いと言う事か)
 当然だと普段なら高笑いの一つも湧いてくるはずのこの事実も、今の死夢羅にはなんの慰めにもならなかった。
「じゃあ行くわよ。死夢羅は・か・せ・」
 きびすを返そうとした女に、それまで黙っていた円光は慌てて言った。
「お待ちなさい、その男は、貴女の手に負える相手じゃない」
「人は見かけで判断してはいけませんわ」
 女はにっこりと笑いかけると、思い出したように円光に言った。
「それよりお坊さん、お名前は?」
「拙僧は、円光と申す……」
「あ、そう、じゃあ円光さん、海丸とは頻繁にお会いになるの?」
「明後日、会う約束をしているが……」
「そう、それは丁度良かったわ」
 女はポケットから一通の封書を取り出して、円光に投げた。
「円光さん、使いだてして悪いけど、それを海丸に渡してちょうだい。近いうちに挨拶に伺いますって」
 円光が、まだ抵抗が残る身体をなんとか動かしてその手紙を拾うと、女は、もう一度楽しそうにひとしきり笑って円光に言った。
「じゃあ海丸によろしくね」
 女は、陰のようについて離れない老女に目配せしたかと思うと、忽然としてこの廃虚から消え失せた。後に残された円光は、漸く取り戻した自由を持て余すかのように、一人呆然と立ち尽くすばかりだった。
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1.  3月1日 死夢羅の災難 その4

2008-03-20 07:46:41 | 麗夢小説『悪夢の純情』
「おい破戒坊主、随分とあの小娘に熱を上げているようだが、どんな手練手管で取り込まれたのだ? 教えるなら、このわしがより以上の快楽を約束してやるぞ」
「麗夢殿は、そんな女性ではない!」
「無理するな。麗夢のような小娘に熱を上げる余り、このわしに傷一つ付けられぬ程、自慢の法力も錆び付いておるではないか?」
「おのれっ。言うなっ!」
 死夢羅にからかわれて顔を真っ赤に染めた円光は、再び錫杖を振りかざすと死夢羅に飛びかかった。
「オンアビラウンケンバサラダドバンっ!」
 口に大日如来真言を含み、法力を錫杖の先一点に集中して円光は死夢羅を叩き伏せた。それを待っていたかのようにかがみ込んだ死夢羅が、勝利を確信した笑みで唇をゆがめながら、その手の鎌で円光の首を払った。互いに火花を散らした勝負は、その一瞬で全てが終わる……筈だった。
 一瞬、円光も死夢羅も、自分が途方もなく粘性のある泥に包み込まれたような感覚にとらわれた。両者の常人離れした膂力すらひしぐ抵抗が、二人の動きを完全に抑え込んだのである。どちらの獲物も相手の急所に触れなんばかりに近づいていたが、後一歩、いやわずか十分の一歩の距離がまるで無限に広がったように、ついにぴたりと二人は空中に静止した。
「ふーん、紙一重で、博士の勝ちの様ね」
 円光は、突然かけられた声の方へやっとの思いで振り向いた。途端に円光の首に軽い痛みが走った。死夢羅の切っ先が、まさに紙一枚挟み込む隙間もないほどに身近に迫っていたのである。円光は、自分の錫杖と死夢羅との距離を測り、わずかな差で確実に敗死していた事に気づいた。無念さと冷や汗で全身を濡らした円光だったが、一方の死夢羅は、顔を振り向く事すら出来ずに脂汗を噴き出していた。
(な、何故動けん? 何が起こったんだ?)
 死夢羅の目は、円光に固定されたまま、円光の首が横を向いた様子を捉え、主人を驚愕させることになった。
(一体どう言うことだ? 何故こいつは動けるんだ? まさかこのくそ坊主の方が、わしより強いというのか?)
 その思いは、円光が上げた誰何の問いに、より一層深まる事になった。何故なら死夢羅は、声すら出せなかったのである。
「貴女は……、何者なんです? この、結界は、一体?」
「あら、お坊さんは少し動けるのね」
 円光は、その声の主を見て更に驚かされた。女性である。すんなりとした体つき、縁のない眼鏡を乗せたやや高い鼻、短く整えた髪、引き締まった足にはミスマッチなビニールの健康サンダルを履いてはいたが、その姿の何処にも、凡そ二人の猛者を足止めできるような力があるとはとても思えない。
「でもそれじゃちょっと話もできないわね。少しゆるめて上げるわ。ばあや!」
「はい、お嬢様」
「出力を、十%程絞って頂戴」
「かしこまりました。お嬢様」
 円光は、初めて相手が一人ではない事に気が付いた。が、もう一人は視界にない。声から察するにかなり年老いた婦人のようだが、と円光が思った時、ふっと身体を固定していた呪縛が解けた。あわてて円光は身を引いて死夢羅の鎌を避けたが、死夢羅の目にはもう円光の姿はない。漸くの事で首を回し、視線を相手に向けた死夢羅は、絞り出すようにして言葉を投げた。
「な、何を……何をした!」
 あーら、まだ苦しそうね、と再び笑ったその女は、紺色に和装するひからびた手からビデオのリモコンのようなものを受け取って、これみよがしにひけらかした。
「これよ、今あなた方を押さえ込んでいるのは。亡霊の死夢羅博士はともかく、お坊さんも随分精神力を鍛えてるのね。普通の人だったら、そこまで強く反応しないものよ」
 死夢羅は、押さえつける力に逆らう苦痛と戦いながら、必死の思いで次の疑問を口にした。
「貴様……、何者だ」
「私? 私の名前は、いずれ精神物理学にその人ありとうたわれる事になるわ。それまでの、お・た・の・し・み」
 おーっほっほっほっ、と口元に手をやって三度高笑いする女に、今度は円光が声をかけた。
「精神物理学? 鬼堂殿の身内か?」
 女は、鬼堂の名前にふと笑いを停めた。
「鬼堂って、あなた、海丸を知ってるの? 」
 うなずいた円光に女は少し考えこむふうだったが、忽ちその脇から発した怒号の前に、その思考を中断された。
「貴様っ! ど、ど、どういう積もりだ! このわしを、このわしを死神博士、メフィストフェレスと知っての狼藉か!」
 女は、その丸眼鏡の奥で軽侮の色をひらめかせながら、話す事さえやっとの死夢羅に言った。
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1.  3月1日 死夢羅の災難 その3

2008-03-20 07:44:55 | 麗夢小説『悪夢の純情』
「ほう、吼えたな。だが、それが無謀だというのだよ」
 マントを割って、死夢羅の右手が水平ににゅうとのびた。長さ数十センチはある棒を三本、その手に鷲掴みにしている。棒はそれぞれ一本の鎖でつながれており、死夢羅は中の一本を手に残し、残りをすっと地に投げた。じゃらんと音をたててその二本がぶら下がる。続けて死夢羅は軽く右手をひねった。途端に何か止め金がはずれたらしい。一瞬に三本は互いに引き合って、一本の長い棒へと変化した。これは! と緊張を高めた円光を前に、その先端から空気を切り裂く鋭い音と共に巨大な鎌が飛び出した。薄刃だが、粘りと剛性に長けた、刃として理想的な冷たい輝きが円光を威嚇する。死夢羅は、その細い腕の何処にと見る者をして不思議に思う膂力を披露して、軽々と鎌を左右に振った。
「これは、まだ美しき少女の血しか吸った事がない。貴様如きにはもったいない武器だが、このわしの手にかかったと知れれば、貴様も地獄で恥ずかしい思いをせずに済む」
「貴様こそ、拙僧を甘く見るな」
 円光は突如として脱兎の如く飛びかかった。
「でええいっ!」
 錫杖が、死夢羅の胸の中央に突き立つ!
 が、一瞬早く死夢羅の身体は円光の鋭鋒を避けた。宙へ舞った身体はそのまま翻るマントをこうもりの羽のように広げ、大上段に振りかぶった大鎌を円光の頭上に叩き付けた。円光はそれを紙一重で見切った。鎌の勢いに引きずられた死夢羅の身体が背を見せる。その隙を円光は突いた。が、これは死夢羅が剣舞の罠であった。死夢羅は回転の勢いに前にも増すスピードを得て、そのまま円光をなぎ払ったのである。円光の反射神経が悲鳴を上げて、身体のベクトルを一八〇度転換した。が、その常人を遥かに飛び越えた円光一瞬の判断も、鎌の切っ先から完全に逃げきるには至らなかった。大魚を逸した鎌が、その先から細く鮮血を引いて去り、円光の胸板に真っ赤な斜め一文字の線を引いた。
「ほう? よくよけたな。少しは出来ると見える」
 ふわりと降り立って不敵に笑う死夢羅を見据え、円光は胸の血を指先に採った。そのまま口元に運んだ円光は、指先をぺろりとなめて同じ様な笑みを返して見せた。
「次は拙僧の番だ!」
 しごきにしごいた円光の錫杖が、一気呵成に死夢羅へと猪突する。上段中段下段を問わず、右に左にと間髪入れぬ連続技に、さしもの死夢羅も押され気味に後ずさった。そのほとんどを紙一重でよける死夢羅だったが、疲れを知らない円光の突きは、少しずつ死夢羅の衣装を削り、衝撃をその内部にまで響かせる。こらえかねた死夢羅は、僅かな隙をついてとんぼ返りに後ろに逃げた。が、その瞬間を狙った円光渾身の突きが、初めて死夢羅の身体を捉えた。
「怨敵退散!」
 一種華麗に舞っていた死夢羅の身体は、その瞬間、暴風にさらわれる木の葉のように、瞬間的にはじけ飛んだ。しかし、二転三転とコンクリートの床に激突した死夢羅が、一見ずたぼろになりながらよろけもせずに立ち上がったのを見て、円光は初めの不敵さも忘れるほどに目を見張った。急所こそ逸したとはいえ、あの手応えである。少なからぬダメージを与えていないはずがない。円光は、死夢羅が本当に何も感じていないのか、それともただやせ我慢しているだけなのかを窺うように相手を見た。それをまるで読んでいるかのように、死夢羅は高らかに笑声を上げた。
「ふぁははははは、効かんな」
「くっ!」
 円光の額に脂汗がにじむ。息が切れないのはさすがだが、それでも突きのほとんどを空振りした円光が疲れを覚えないはずはない。だが、一見泰然自若に見える死夢羅もまた、自身を襲っているある違和感に、内心困惑を覚えないではいられなかった。おかしいのだ。さっきまで、死夢羅に無限のエネルギーを供給していた地霊の流れが、どういう訳かふつととぎれて、一向に上がってこない。まさかこの坊主が結界でも張ったのか、と疑ってみたが、窺うところどうも相手にそのような余裕はなさそうである。どちらにせよ、新しいエネルギーが得られない限り、長期戦を戦うのは死夢羅としても得策とは言えなかった。
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1.  3月1日 死夢羅の災難 その2

2008-03-20 07:43:55 | 麗夢小説『悪夢の純情』
 死夢羅の集中が高まるとともに、死夢羅の頭部アンテナから洩れた気が、一触即感電するかのように空気を緊張させた。死夢羅の大きく翼を広げたような鷲鼻に、脂汗が玉と浮かぶ。握り拳が青筋を刻みだし、やがて小刻みに震えながら小指の下から赤い血が滴った。
(まだだ。まだ集中が足りぬ。もう少し、もう少し!)
 限界まで気を高めた死夢羅は、突如目を見開くと、詰めていた息を一気に吐いた。途端に頭からのびるコードが生きたままあぶられる蛇のように跳ね、次の瞬間、電圧計の針が突然の負荷に堪えかねてレッドゾーンを振り切ったまま凍り付き、幾つかのコードが火を噴いた。死夢羅は、全力を出しきった後の恍惚感に浸りながら、今まさに天に向かって飛び去った、増幅されたおのが気の輝きを窓外に見た。勿論常人に見える質のものではないが、勘の鋭い者ならば、その光芒の飛沫に触れただけで、今宵の枕に得もいわれぬ悪夢を結ぶ事だろう。そしてそれは、死夢羅の計算によれば、きっちり一カ月後に正夢として思い出されるはずだった。
 幸福な余韻を惜しむかのようにゆっくりと輪を取った死夢羅は、焼け切れたコードがまだくすぶっているのも構わずにそれを後ろに放り投げた。替わって傍らのシルクハットを手にとって、かぶる時間も惜しいとばかりに、緑のモニターにかじり付いた。モニターにはたくさんの文字と数字が明滅し、上へ上へと消えていく。死夢羅はそこから、完全に自分の計算通りに進んでいる事業を読み取った。
「ふぁっはっは! 一月も待たねばならぬのが、今となっては口惜しいわ。だが、もはや逃れる術はない。東京よ、ソドムの街を破壊した、神の力を思い知るがいい!」
 シャン! 
 全能感に浸る死夢羅の耳を、輪管の打ち合う音が突き抜けていった。少なからず驚いた死夢羅が振り向くのも待たず、その音の主は死夢羅に言った。
「そこで何をしている!」
「貴様は……」
 闇の中、そこだけほのかに光を放つかのように立つ一人の男がいた。すり切れた墨染めの衣に細身だが鍛え抜かれた鋼の肉体を包み、梵字を刻み込んだ額を白く輝かせながら錫杖を構えるその姿。死夢羅はすぐに名前を思い出す事が出来なかった。
「貴様、確か麗夢のとりまきの破戒坊主だったな。何の用だ」
 円光は、自分が破戒坊主と呼ばれた事に憤慨した。
「こちらが先に聞いているのだ。質問に答えてもらおう、死夢羅。いや、悪魔メフィスト!」
 小うるさい奴が来た、と死夢羅は思った。もとより戦って負ける気など毛先ほどもない。が、少し間が悪いのも確かだった。既に主要な役割を果たしたとはいえ、ここのシステムは三〇日後の祭宴まで、無事虚空を迷わずに小惑星がやってくるかどうか監視するという、地味だが重要な役割が残っている。この坊主と一戦するのは構わないが、そのとばっちりを受けてシステムに傷が付くのは、死夢羅とすれば願い下げなのである。死夢羅は、まだ手にしたままだったシルクハットを頭に乗せた。そのまま、操り人形が糸に引かれるように、ゆっくりと立ち上がった。
「それにしても良くここが判ったな。偶然にしても上出来だ」
「あんなに強烈な気を爆発させれば、気づかない方がおかしい」
 円光はそういいながら、初めて一対一で相まみえた目の前の老人を見た。長身である。百八十センチはあるだろう。全身を黒マントにすっぽりと覆っているので、そこに何を隠しているのか、まるで判らないのが不気味である。この妖怪の振るう巨大な鎌を、円光はまだ見た事がなかった。
 やや斜め下に顔をうつむけながら、死夢羅はなめるように目だけを円光に向けている。口元に浮かべるのは、人を歯牙にもかけない冷笑である。
「わしが何をしているか、知りたくば教えてやろう。ついてくるがいい!」
 死夢羅はマントを翻して直ぐ側の窓を引き開けると、その空いた空間に身を躍らせた。あっと窓辺に駆け寄った円光は、死夢羅がまるでグライダーのように、マントを大きく広げながら、隣のビルへふわりと降り立つのを見た。
「おのれ!」
 円光は窓枠に手をかけると、やっとばかりに飛び移った。死夢羅は、仁王立ちで円光に正対すると、その到来を歓迎した。
「良く逃げずについてきたな。今ならわしも気分がいいから、逃げるならこのまま見逃してやっても構わないと思っていたが。だがその無謀な勇気が、お前の最後の勇気になるぞ、破戒坊主」
 まるで今からでも遅くは無いぞ、というような死夢羅の物言いに、円光はかっとなった。
「貴様こそここが最後だと思え! 麗夢殿の手を煩わすまでもない。この円光が、貴様に引導を渡してくれる!」
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1. 3月1日 死夢羅の災難 その1

2008-03-20 07:41:37 | 麗夢小説『悪夢の純情』
闇が深い……。
 渋谷。東京でも一級の栄華を誇るこの喧噪も、廃虚同然に打ち捨てられた、この雑居ビルまでは届かない。バブル期にはここを拠点にした一企業が、東京全体を動かすばかりな隆盛を誇ったものだが、今は入り口脇の壁に掛かった、「渋谷桜乃宮ビルヂング」と言うレリーフの重厚さのみが、かつての繁栄ぶりを忍ばせるばかりである。それすらも既に朽ち果て、正しく読み取るには相当の苦労と欠けた部分を補うだけの想像力が要求される。が、それは死神博士、死夢羅がここを選んだ事とは余り関係はない。ただ死夢羅にとっては、これから始める一大実験の舞台として、実験成功後の大都会の姿を彷彿させるこの一角が、何となく肌にあったと言うところだろう。
 この雑居ビルの最上階、と言っても十階に足りないのだが、そのフロア全体はすでに様々な機械で埋め尽くされ、現在の城主たる死夢羅の微笑みで満たされている。林立する真空管。夢魔の触手の如く這い廻る電線。様々な色のライトが雑ぱくな混乱を演出し、大量の熱にむせかえる。死夢羅が、この混沌としたざわめきの中で行おうと言うある壮大にして狂気ほとばしる実験は、実の所、死夢羅の専門からは少しばかりはずれたところにある。それだけに死夢羅は、その成功のために、血を狂わせてやまない美少女狩りさえも自粛して、ひたすらに励んでいるのである。その点、どんなにその本質が狂気と破壊に傾いていたとしても、やはりこの男は科学者なのであった。何にもまして、自分の研究に没頭するのが好きであったし、その研究成果がどれほど大きく、効率よく、エレガントに人々を血も凍るような恐怖の惨劇に誘い込むか、その結果を少年のような無邪気さで楽しんでいるのである。
 死夢羅は近くの電圧計に目をやった。無断で盗んでいる電気は不安定でノイズも多く、しばしば死夢羅の舌打ちを誘ってきたが、今夜はまるで成功を祝福しているかのように安定した電圧を保っている。思わず頬のゆるんだ死夢羅は、次に隣のモニターをのぞき込んだ。緑色のスクリーンは、ビルの屋上に取り付けられたパラボラアンテナからの情報を、死夢羅に懸命に伝えている。死夢羅はその数字から、目標が誤差測定限界以内に収まっている事を知って満足した。次ぎに死夢羅は、太さ二センチばかりの真鍮管を輪にしたものを手に取った。頭より一回り大きな輪の空洞には、クモの巣のような網が張られている。それはこの装置の固定具であるとともに、死夢羅の精神エネルギーを余すところなく受け止めるアンテナでもあるのである。その一端からは赤白黄色と色とりどりなコードがビニルテープで一束にまとめられ、死夢羅の足下にある一抱えはありそうな鉄製の箱に吸い込まれていた。箱の反対側からは直上のパラボラアンテナに向けて一本の黒く、太いケーブルが延び、触手の一端を形成しつつ天井へと吸い込まれていくのだった。
 死夢羅はシルクハットを取り、手にした輪をその豊かな銀髪の上に載せた。少しばかりコードが短かったのか、僅かに引っ張られて輪が斜めに傾いたのが気に障ったが、余裕のない時間が、それに対する死夢羅の美意識に優先した。
「いよいよだな。麗夢め、もう貴様に逃れる術はないぞ。この街の人間を全て供に付けてやる故、安堵して地獄に赴くがいい」
 死夢羅は、心を集中させて目標を脳裏に思い描いた。暗黒の、水も空気もない空間に浮かぶ石塊。宇宙の大きさからすればその存在は芥子粒にすら届かないが、それが地球に到達した時、人々は巨大なエネルギーの奔流の前に、なす術ない己の無力さを絶望するに違いない。死夢羅は、今からその光景が目に浮かぶようで楽しくて仕方がなかった。
 死夢羅の節くれだった指が、手元のスイッチを一つ跳ね上げた。途端に何処からともなくわき上がった低いうなりが辺りの空気を震わし、乱雑に配置されたランプが次々と明滅した。同時に幾つかのモニターの文字列が流れるようにスクロールを始め、電圧計の針が一瞬だけ大きく触れた。死夢羅は口元をゆがめていた笑いも納め、真剣な面もちで、今まさに虚空を駆けて、地球をかすめつつある名もない小惑星に語りかけた。軌道、距離、大きさなど、色々な条件を勘案して死夢羅が選び出した、小さな石の塊である。その小惑星の軌道をほんの少し動かし、地球の傍らを通過させずに、東京に向けて落下するよう誘導しようというのが、死夢羅の実験であった。直径二〇メートルという石塊は、秒速二〇メートルの猛スピードで地表に突っ込み、広島型原爆を凌駕する閃光と爆風を生み出して、ありとあらゆる生命を浄化してくれるはずである。既に予備試験として幾つかのごく小さな塵のようなものを動かして、東京上空に流れ星を刻んだ死夢羅だったが、今日のように、塵と言うよりは明らかに岩と言うべき大きさを持ったものを動かすのは初めての経験だった。
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