午前一時五五分。かつて、丑満つ時と畏れられた時間が、まもなくやってくる。もっとも、この表現法が現役だった頃に五分差など意識もされなかっただろうから、もう草木は眠りについているといってよいだろう。しかし、鬼童研究室というこの限られた空間だけは、四人の男女と二頭の獣が、時や遅しと目を光らせて、その五分が過ぎるのを待っていた。
「そろそろですな」
最も年長の榊が時計を睨んで呟いた。入り口を前にして左右に並ぶ麗夢と円光が、無言のうちにうなずいた。
麗夢は常日頃のミニスカート姿から、動きやすい赤のレオタードに着替えている。足は黒いタイツと膝までのルーズソックス、肩はいつも身につけている短いマントで被っている。一見無防備とも見える格好だが、そのマントに隠されたホルスターには、強力にチューンされた四四マグナムが収まっており、先端に十字の切れ込みを入れた銀の弾丸が、夢魔に向かってその威力を発揮する時を待っているのである。円光は普段通り袈裟姿に錫杖を構え、麗夢より半歩前に出て、さりげなく麗夢をかばう構えである。その足下の小さな猫と犬ーアルファとベータも、緊張の中に身構えている。榊の後ろには、鬼童海丸が控えている。十二時間前に比べれば身だしなみこそ整えはしたが、こけた頬やまだ青冷めた顔色に、回復しきってない疲労の様子が浮かんでいる。その鬼童の話だと、相手はまずサンダルの足音をたてながら廊下をやってくるという。麗夢、円光、榊の三人にはそれがどんな音なのか、今一つ想像つきかねたが、五分後には、ああこれか、と得心する事になった。
ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん・・・。
「エレベーターにも階段にも何の反応もない。廊下にも姿がないぞ!」
鬼童とともに監視モニターをのぞいていた榊は、前の二人に注意を呼びかけた。監視用のカメラは、鬼童がその疲労しきった身を押して、急遽設置したものである。また、エレベーターと階段には簡単なレーダーを置き、何か動くものが現れれば、直ちに鬼童のコンピューターに表示されるはずだった。しかし、今、足音が聞こえてくるその廊下には、何の反応も無いというのである。
ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん・・・。
「音だけとはどう言う事だ? ルミ子・・・」
額に脂汗を浮かべながら鬼童は呟いた。やがて足音は次第に近づいて、とうとう研究室のドアの前で、ぴたりと止んだ。その一瞬のしじまを割って、円光の小さいが鋭い一言が飛んだ。
「来るぞ!」
全員の緊張が一挙に高まるのを待っていたかのように、一瞬のためらいの後、ついに研究室のドアが開いた。
「海丸ぅ、今夜も頑張って研究しましょ・」
円光は一目で彼女だと認めた。白衣に包んだすんなりとした体つき、短く整えた髪と縁のない眼鏡、その奥に光る大きな瞳。足下はビニールの健康サンダル。それは確かに過ぎる夜、死夢羅を拉致していった女性に間違いなかった。
(しかしおかしい。夢魔でも悪霊でもないようだ・・・)
円光は昼の惨状から、てっきり相手は強力な夢魔の類であると思いこんでいた。しかし、少なくとも今目の前にしている女性は、姿も、気も、夢魔にはほど遠い存在である。だが、では人間なのかと誰かに問われれば、円光は答えに窮したに違いない。それは、何か異質の、今までに出会った事の無いような気の様子だった。
同じ様な違和感は麗夢も感じていた。お互いにちらと目配せしてその事を確かめあった二人は、いよいよ警戒の念を強くして、ルミ子をにらみつけた。だが、当のルミ子はまるでその二人が目に入っていないようである。
ルミ子はぐるりと部屋を見回して、たちまち一番奥にいる鬼童を発見した。
「ダメじゃない。さあ、行くわよ海丸。時間がないんだから頑張ってもらわないと!」
ルミ子は、円光達を無視して無造作に一歩踏み出した。
「お待ちなさい!」
その行く手を、まず円光が遮った。突き出された錫杖と強い口調に、ルミ子はぴくっと動きを止めた。ずり落ちかけた眼鏡に手をやったルミ子は、眼鏡を直しながらさも驚いたように円光を見た。
「あら、あなたいつぞやのお坊さん・・・、確か円光さんとおっしゃったわね。何であなたがここにいるの?」
「桜乃宮殿、貴女こそ鬼童殿に何の用があるのです」
おっしゃっていただくまではどきませんよ、との円光の気色に、ルミ子は僅かに眉をひそめた。
「あなたには関係ない事だわ。さあ、その物騒なものをどけてちょうだい」
「そうはいかないわ。桜乃宮さん!」
麗夢は、隠し持った拳銃をルミ子に突きつけた。声に釣られて振り向いたルミ子の眉が、たちまち一段と険しさを増した。
「あら? 海丸に妹さんなんていたかしら。でも、子どもはとうに寝てなくちゃいけない時間よ。大人の問題に首を突っ込むのは十年早いわね」
「私は綾小路麗夢! 鬼童さんの妹じゃないわ! 貴女こそ何者なの? 正体を現しなさい!」
「フーっ!」
「ワンワン!」
アルファとベータも毛を逆立てて麗夢の怒りに応じた。ルミ子はうるさげにそれを見おろしたが、さして感銘を受けた様子もなく鬼童に呼びかけた。
「海丸ぅ。なんとか言ってやって頂戴。あなたと私の仲をやっかんでいるんだわ、この人達」
「ゆ、言うなルミ子! 僕と君との間には、な、何の関係もない!」
おびえるように叫んだ鬼童に、ルミ子の機嫌はそれまでに増して大きく傾いた。
「何を馬鹿な事を! あなたと私は永遠のパートナー。これからの無限の時を、無数の発明と発見で埋め尽くしていく仲なのよ。いい加減目を覚まして、私についていらっしゃい!」
途端に、研究室の空気が一変した。ルミ子を中心に爆発的に広がった気は、たちまち現実世界を浸食して、研究室を悪夢の世界へと塗り替えた。突然の事に虚を突かれた麗夢と円光を割って、ルミ子は鬼童へ近づいた。
「そろそろですな」
最も年長の榊が時計を睨んで呟いた。入り口を前にして左右に並ぶ麗夢と円光が、無言のうちにうなずいた。
麗夢は常日頃のミニスカート姿から、動きやすい赤のレオタードに着替えている。足は黒いタイツと膝までのルーズソックス、肩はいつも身につけている短いマントで被っている。一見無防備とも見える格好だが、そのマントに隠されたホルスターには、強力にチューンされた四四マグナムが収まっており、先端に十字の切れ込みを入れた銀の弾丸が、夢魔に向かってその威力を発揮する時を待っているのである。円光は普段通り袈裟姿に錫杖を構え、麗夢より半歩前に出て、さりげなく麗夢をかばう構えである。その足下の小さな猫と犬ーアルファとベータも、緊張の中に身構えている。榊の後ろには、鬼童海丸が控えている。十二時間前に比べれば身だしなみこそ整えはしたが、こけた頬やまだ青冷めた顔色に、回復しきってない疲労の様子が浮かんでいる。その鬼童の話だと、相手はまずサンダルの足音をたてながら廊下をやってくるという。麗夢、円光、榊の三人にはそれがどんな音なのか、今一つ想像つきかねたが、五分後には、ああこれか、と得心する事になった。
ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん・・・。
「エレベーターにも階段にも何の反応もない。廊下にも姿がないぞ!」
鬼童とともに監視モニターをのぞいていた榊は、前の二人に注意を呼びかけた。監視用のカメラは、鬼童がその疲労しきった身を押して、急遽設置したものである。また、エレベーターと階段には簡単なレーダーを置き、何か動くものが現れれば、直ちに鬼童のコンピューターに表示されるはずだった。しかし、今、足音が聞こえてくるその廊下には、何の反応も無いというのである。
ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん・・・。
「音だけとはどう言う事だ? ルミ子・・・」
額に脂汗を浮かべながら鬼童は呟いた。やがて足音は次第に近づいて、とうとう研究室のドアの前で、ぴたりと止んだ。その一瞬のしじまを割って、円光の小さいが鋭い一言が飛んだ。
「来るぞ!」
全員の緊張が一挙に高まるのを待っていたかのように、一瞬のためらいの後、ついに研究室のドアが開いた。
「海丸ぅ、今夜も頑張って研究しましょ・」
円光は一目で彼女だと認めた。白衣に包んだすんなりとした体つき、短く整えた髪と縁のない眼鏡、その奥に光る大きな瞳。足下はビニールの健康サンダル。それは確かに過ぎる夜、死夢羅を拉致していった女性に間違いなかった。
(しかしおかしい。夢魔でも悪霊でもないようだ・・・)
円光は昼の惨状から、てっきり相手は強力な夢魔の類であると思いこんでいた。しかし、少なくとも今目の前にしている女性は、姿も、気も、夢魔にはほど遠い存在である。だが、では人間なのかと誰かに問われれば、円光は答えに窮したに違いない。それは、何か異質の、今までに出会った事の無いような気の様子だった。
同じ様な違和感は麗夢も感じていた。お互いにちらと目配せしてその事を確かめあった二人は、いよいよ警戒の念を強くして、ルミ子をにらみつけた。だが、当のルミ子はまるでその二人が目に入っていないようである。
ルミ子はぐるりと部屋を見回して、たちまち一番奥にいる鬼童を発見した。
「ダメじゃない。さあ、行くわよ海丸。時間がないんだから頑張ってもらわないと!」
ルミ子は、円光達を無視して無造作に一歩踏み出した。
「お待ちなさい!」
その行く手を、まず円光が遮った。突き出された錫杖と強い口調に、ルミ子はぴくっと動きを止めた。ずり落ちかけた眼鏡に手をやったルミ子は、眼鏡を直しながらさも驚いたように円光を見た。
「あら、あなたいつぞやのお坊さん・・・、確か円光さんとおっしゃったわね。何であなたがここにいるの?」
「桜乃宮殿、貴女こそ鬼童殿に何の用があるのです」
おっしゃっていただくまではどきませんよ、との円光の気色に、ルミ子は僅かに眉をひそめた。
「あなたには関係ない事だわ。さあ、その物騒なものをどけてちょうだい」
「そうはいかないわ。桜乃宮さん!」
麗夢は、隠し持った拳銃をルミ子に突きつけた。声に釣られて振り向いたルミ子の眉が、たちまち一段と険しさを増した。
「あら? 海丸に妹さんなんていたかしら。でも、子どもはとうに寝てなくちゃいけない時間よ。大人の問題に首を突っ込むのは十年早いわね」
「私は綾小路麗夢! 鬼童さんの妹じゃないわ! 貴女こそ何者なの? 正体を現しなさい!」
「フーっ!」
「ワンワン!」
アルファとベータも毛を逆立てて麗夢の怒りに応じた。ルミ子はうるさげにそれを見おろしたが、さして感銘を受けた様子もなく鬼童に呼びかけた。
「海丸ぅ。なんとか言ってやって頂戴。あなたと私の仲をやっかんでいるんだわ、この人達」
「ゆ、言うなルミ子! 僕と君との間には、な、何の関係もない!」
おびえるように叫んだ鬼童に、ルミ子の機嫌はそれまでに増して大きく傾いた。
「何を馬鹿な事を! あなたと私は永遠のパートナー。これからの無限の時を、無数の発明と発見で埋め尽くしていく仲なのよ。いい加減目を覚まして、私についていらっしゃい!」
途端に、研究室の空気が一変した。ルミ子を中心に爆発的に広がった気は、たちまち現実世界を浸食して、研究室を悪夢の世界へと塗り替えた。突然の事に虚を突かれた麗夢と円光を割って、ルミ子は鬼童へ近づいた。