風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

イザベル・ファウスト ヴァイオリン・リサイタル @東京オペラシティ(11月17日、18日)

2021-11-23 02:58:38 | クラシック音楽



11/17
J.S.バッハ:
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV1001
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 ロ短調 BWV1002
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005
(アンコール)無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003 より 3. アンダンテ

11/18
J.S.バッハ:
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
(アンコール)無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV1001 より 3. シチリアーノ

※休憩なし

東京オペラシティで二夜にわたって開催されたイザベル・ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータの全曲演奏会に行ってきました。
ファウストを聴くのは今回が初めてです。
ファウストの演奏はパフォーマンス的な派手さが一切なく自然で端然としているので、聴く人によっては一見淡泊に聴こえるかもしれないけれど、実はとても色彩豊かで思索的。そんな親密さと崇高さが同居している自然体のバッハは、私にとってこの曲の理想型の演奏でした。
また音色の色彩感は弓の特性によるところもあるようで、以下、プログラムノートより。

今回、2夜にわたる全曲演奏会には、愛用するストラディヴァリウスの銘器「スリーピング・ビューティー」に、バロックボウという組み合わせで臨む。「サウンドの違いは、むしろ弓の特性の違いによる要因が大きい。バロックボウを使えば、豊かな色彩感が誕生します。もしも、現代の弓を使えば、全く違ってしまうでしょう。その差は、ピュア・ガットを使うか、金属弦かよりも、遥かに大きいのです」。

そして録音で聴いたときはそうは感じなかったけれど、今回生でその演奏を聴いて、シフのバッハと似ているなと感じました。シンプルで知的で端然としていて、かつ色合い豊かで生き生きとしているところが。違うのは、ファウストは客席に緊張を強いないところ(笑)

最近プライベートで少しずつ小さな変化が起きていて、不安なことや悲しいことも多くて、この2日間、彼女のバッハを聴きながら、何度も涙が込み上げてきそうになりました。
以前シフがイギリス組曲→イタリア協奏曲の流れで弾いてくれた時に「私達が住むこの世界は悲しいことや辛いことが多すぎるから、そんな私達のために神様がこの世界にバッハとシフを遣わせてくれたのだろう」と本気で感じたことがあったけれど、ファウストの演奏からも同じものを感じました。
最近つくづく思うんです。私達の人生って基本は辛く悲しくて、その中に楽しさや幸福が星砂のように散らばっているのではないか、と。この無伴奏ソナタ&パルティータは全6曲のうち4曲が短調で、全曲の中で頂点をなすと言われるシャコンヌを含むパルティータ2番も短調。
その中にソナタ3番やパルティータ3番のような長調が散らばっていて(番号どおりに演奏すると最後の2曲が長調になりますが)、それぞれの曲の中にも短調の中に長調が散らばり、長調の中に短調が散らばって、光と闇が混在している。ファウストの弾く長調が軽やかで活き活きとしていて、かつとても清らかだったので、一層沁みました。
初日の演奏会があった17日は、東海道線だけで人身事故が2件。寿命まで生きたって大して長くはないよ、だからみんな生きようよ、と思うけれど。でも直後に、フレイレにとって最後の2年間はきっとすごく長い時間だったのだろう…と思い直す。
やっぱり、人生は辛くて悲しい…。

「私たちが生きる”今”は、とても不確実性の高い時代です。人々がどんどん、生きることに疲れてきたように、私には思えます。そんな中、バッハの無伴奏の全曲に向き合うのは、特別な鍛錬です。私と長い旅を共にし、”感じ”てくれる同志を創る。これは簡単な課題ではありませんが、知的な挑戦であり、感動を呼び起こします。『考え、そして、感じる』。音楽こそが、可能にするのです」
(プログラムノートより)

バッハの音楽にはいつも、「人間」の根源の部分を感じます。全てを包み込む包容性、どんな人間もどんな人生も受け入れる大きさ。特定の宗教の神というよりも、その根本にある神のような(私はあらゆる宗教の神は根本では同じものだと思っています)。綺麗なものも汚いものも善も悪も「人間の生活」の全てを拒否することなく受け入れる神のような。それゆえの厳しさと優しさ、そして崇高さのようなものを感じる。
初日のアンコールでも弾いてくれたソナタ2番BWV1003のアンダンテは、一人の人間が前を向いて人生を歩んでいる、そういう音楽に聴こえました。
そして第二夜の最後に演奏された、パルティータ2番BWV1004(その後にアンコールはあったけども)。
弾き始めからファウストの表情や空気がそれまでの曲とは違って。最後にシャコンヌが置かれているこの曲は多くのヴァイオリニストにとって特別な曲なのだろうと想像するけれど、ファウストにとってもそうなのだな、と少しの意外さとともに感じたのでした。
それまで第一夜からずっと人間の人生を辿ってきたような演奏を聴いてきて、最後に辿り着いたシャコンヌ。
彼女はこの曲も特別に大仰には弾かないんですよね。感情的に追い込むようには弾かない。いつもの日常の一日のように弾く。何気ない日常の一日の崇高さを感じさせる。
今回の演奏、この動画の29:20~のところでは、日常の生活の中で私達が避けることのできないどうしようもないものの存在を感じました。でもその後の29:43~の加速していくところ、今回の演奏でもそうでしたが、自分を奮い立たせるような、毅然とそれと対峙していこうするような、立ち向かうような、そんな人間の心持ちを私は感じるんです。
最後の音が消えてもファウストはかなり長い時間動かず、客席も永遠のような静寂で。とても自然に、これは”死”なんだ、と感じました。それは決して悲観的な意味だけではなく。
ありふれた日常のある日、私達はここからいなくなる。
でも、最後まで自分自身に負けずに、生ききって死ぬ。ファウストの演奏のシャコンヌはそうあろうとする人間の姿のように感じられました。
とても難しいけれど、できれば、私もそんな風に生きられたらいい、とそう感じました。
もちろんファウストがどういうつもりで弾いていたか、バッハがどういうつもりで作曲したかはわかりません。特にバッハはそこまで考えてこの曲を作曲したかどうか。この曲が作曲されたのは1720年で、今からちょうど300年前なんですね。自分の作曲した曲が300年後の日本人の心にこんな風に響くことになるなんて、彼は想像していなかっただろうな。
樹木希林さんが主演されている井上靖さん原作の『わが母の記』という映画の中で、バッハのヴァイオリン協奏曲が使用されているんです。痴呆が進んでいく母親とそれを見守る家族の数年間を淡々と静かに描いている物語で、最後は母親の葬儀の場面で終わります。大好きな映画なんですが、その印象に通じる今回のファウストのバッハでした。

ファウストが楽器を下ろすのを待って(コロナ禍では禁止されている)ブラボーが客席からとんだけれど、正直、よく言ってくれた!と感じました。国立劇場の吉右衛門さんの俊寛の千穐楽のときに「播磨屋!」とかけてくれた人にも、同じように感じたものだった。いま調べたら、ちょうど1年前でした。吉右衛門さん、どうされてるかな…。大好きなクラシック音楽の演奏会にもいらっしゃることができない状況なのだろうか…。

ファウスト、曲の合間の客席の咳とか、アンコールの前とか、少し上目遣いの、母親が子供に見せるような笑みが素敵。頭の良さそうな人だなあ、と頭の悪い感想を持つワタシ。

※Isabelle Faust: musical sleuth (The Guardian, 15 Sep 2013)
※Isabelle Faust: “Music must be enjoyed without prejudice”(Opus Klassiek, April 2011)

Tokyo Opera City Christmas

17日の開演前に点灯テストをしていた、東京オペラシティのクリスマスツリー。音を出して見てね

Bernard Haitink (R.I.P) conducts Isabelle Faust & the BSO - Mozart: Violin Concerto No. 5 in A major

ファウストはハイティンクともよく共演していましたね。二人の音楽は似ている気がします。
ハイティンクがペライアのピアノに対して言っていた「Life is ok(人生は悪くない)と感じさせてくれる」というあの感覚に、私は救われています。「人生は楽しい」「人生は素晴らしい」ではなく、「人生は良いものではないかもしれないけど、悪いものでもないよ」と。

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ピョートル・アンデルシェフ... | TOP | 谷川俊太郎『虚空へ』PV »

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。