心配をしていた天気も夜明けから暫くは曇った感じでしたが、それもすぐに逆光に困るぐらいの日差しとなりました。
トップの写真は夜明けからさして時間が経っていない清水山城跡から見下ろした厳原港で、よってまだまだもやった感じがあるのは仕方がありません。
約10時間ほどの対馬での滞在でしたが、ここ清水山城跡がその第一歩目です。
レンタサイクルを借りられる時間帯までは3時間ほどあったので、その自転車では行けそうにないところから攻めたのがこの清水山城跡です。
この登り口まで達するまでも汗だくになるような坂がありましたし、ここから数分は鬱蒼とした山林の中を登る必要があります。
さして歴史が古くはない清水山城は朝鮮出兵の際の兵站基地として築かれたもので、残念ながら建築物は遺されていませんが石垣はかなりのものがありました。
その目的からすれば山城である必要はないと思うのですが、それなりの思惑と事情があったのでしょう。

清水山城のある清水山の麓にあるのが金石城跡で、こちらは宗氏の居城です。
それまでの池の館が内乱で炎上をしたことで14代の将盛がここ金石に金石の館を築き、21代の義真が櫓などを築いて金石城と称しました。
ただ天守閣はなく、いくつかの門と櫓、そして居館のある平城だったようです。
その金石城の二重櫓門と、高麗門です。
左の二重櫓門は大正時代に解体をされたものを古写真を基にして1990年に木造で再建をされたもので、入母屋二重櫓の下が城門となっています。
右の高麗門は金石城が拡張をされた際に同時期に築かれた桟原城の大手門だったもので、1988年に今の場所に移築をされました。
この金石城と桟原城を合わせて金石城とも呼んでいたらしく、これは一国一城令との絡みもあるのかもしれません。

金石城跡からほど近いところに、宗氏の菩提寺である万松院があります。
対馬藩2代藩主の義成が父である初代藩主の義智を供養するために建立をしたもので、その名は義智の戒名からきています。
ここにある宗氏墓所は金沢の前田氏墓所、萩の毛利氏墓所と並ぶ日本三大墓所の一つで、対馬に来たらここを外す手はありません。
百雁木と呼ばれる132段の石段の両脇には石灯籠が並び、秋の万松院まつりの際には明かりが灯されるそうです。
この先に宗氏墓所があり、下御霊屋、中御霊屋、上御霊屋の三箇所に分かれていますが、右は歴代藩主が眠る上御霊屋です。
日本で名だたる墓所だけのことはあり、その規模に圧倒をされました。

中御霊屋と下御霊屋には一族や側室などの墓があるのですが、例外として10代の貞国の墓が中御霊屋にあります。
一般的には11代とも言われている貞国ですが、ここ宗氏墓所では10代とされています。
初期の宗氏の系図には混乱が見られて6代と7代には同名の頼茂がありますので、あるいはこれを一代と数えているのかもしれません。
先にご紹介をした14代の将盛も貞国を10代としての代数で、その他の場所でも対馬ではこの数え方をしています。
この貞国が対馬藩初代藩主の義智の祖であることは間違いないようですが、しかしその出自が直系かどうかは異論があるようです。
その義智は宗氏としては19代で、14代の将盛の四男です。
長兄の成尚が17代、次兄の義純が18代ではありましたが、それにしても父との代数が離れすぎています。
これは本来の直系である晴康が将盛の嗣子として15代を継ぎ、その子の義調が16代となったことが理由ですが、そこに一族内の争いが感じられてなりません。
将盛が金石の館を築いたのが1529年で、また1509年生まれとも言われていますから嗣子とした1475年生まれの晴康よりも年下です。
晴康が家督を継いだのが1539年ですから将盛はまだ壮年ですので、家督を奪われたと考えるのが妥当でしょう。
結局は将盛の子が義調の跡を継ぎましたので元に戻った形にはなりましたが、何とも微妙な感じです。
そんな義智は小西行長の娘を正室としたことで朝鮮の役でも行長の第一軍に属し、行長と石田三成の和睦交渉に荷担をします。
関ヶ原の戦いでも西軍として伏見城や大津城の攻撃に参加をしましたので戦後に改易をされても当然のはずが、しかし朝鮮との交渉窓口としての存在を重要視されたのか所領を安堵されて、幕府と朝鮮との仲立ちをすることで生き抜いていくことができました。
長男の義成は20代となりますが国書偽造に絡む柳川一件の罪で改易の危機に面したものの、やはりその特殊な立ち位置から切り抜けて逆に藩内の統制を強めることになります。
写真は左が義智、右が義成です。
ここからは駆け足です。
21代の義真は義成の嫡男で、隠居をした後も死するまで藩政を握り続けました。
そして次男の義倫が22代を継いだものの24歳で、四男で23代の義方も35歳で、七男で24代の義誠も39歳で早世をしたために九男の方熈が25代となるなど義真の子が続けて家督を継ぎましたが、方熈はそもそもが繋ぎの継承だったために義誠の子の義如が17歳となったところで隠居をして家督を譲ります。
26代となった義如はしかし父と同じく39歳で早世をしたために次弟の義蕃が繋ぎの27代として続き、義如の子の義暢が28代、その子の義功が29代となり、義功の子の義質が30代、その子の義章が31代、弟の義和が32代となって幕末を迎えました。
早世の当主が多いながらも男系が続いていることは喜ばしく、それも対馬という閉鎖された環境があってのことかもしれません。
写真は上段左から義真、義倫、義方、義誠、方熈、義如、義蕃、義暢、義功、義質、義章、義和です。

ここまでが対馬藩の当主の全てでしたが、実はもう一人だけ影の当主がいます。
それが高源院殿とされている猪三郎で、28代の義暢の四男です。
8歳で家督を継いだものの元服をすることなく15歳で病死をしてしまい、幕閣も黙認をして弟の種寿が猪三郎の替え玉として29代の義功となりました。
よって公式には存在をしない当主ではありますが、29代を猪三郎、30代を種寿義功とするのが本当のところのようです。
中御霊屋と下御霊屋にある一族の墓のうち、その中で男系と思われるものだけをピックアップしてみました。
台林院は23代の義方の子で岩丸、覚源院は26代の義如の一子で万千代、顕光院は28代の義暢の子で富寿、春泰院は同じく義暢の子、龍珠院は29代の種寿義功の子、玉了院は32代義和の嫡男で彦三郎、大明院は次男で勝千代、天樓院は輝之允、雲行院は田鶴丸、情潔院も義和の子です。
ただ情潔院はその戒名からして女性かもしれず、確たることは分かりません。
写真は上段左から台林院、覚源院、顕光院、春泰院、龍珠院、玉了院、大明院、天樓院、雲行院、情潔院です。

暫くは墓巡りが続きます。
太平寺は少弐氏に所以のある寺で、ここでは住職さんにいろいろとお世話になりました。
目指す墓には何の標識もなく、おそらくは一人で探していれば見つけることはできなかったでしょう。
わざわざ案内を、また対馬や宗氏のことなどのお話を聞かせていただきました。
門をくぐって左の方にひっそりとたたずむのが、少弐氏の13代である嘉頼の墓です。
大内氏との抗争で父の満貞と兄の資嗣が討ち死にをしたために家督を継ぎましたが、ここ対馬に亡命を余儀なくされます。
宗氏の援助を受けて再興の戦いを繰り広げるものの夢破れて、願いが叶わないままに対馬で没しました。

竹藪などを払いながら数分ほど裏山を登ると、宗氏の16代の義調の墓があります。
ここにもやはり何の案内もなく「46」と側の石に貼ってあるシールを見てここだと住職さんが教えてくれましたので、自分の生き方に間違いはないと確信をした次第です。
義調は14代の将盛の弟である調親の叛乱を鎮めて宗氏の統一を成し遂げましたが、やはりその叛乱があったことからして父の晴康の家督継承はいわく付きだったのでしょう。
将盛の子を養子として家督を譲ったのも、そのあたりが理由なのかもしれません。
知足院跡には宗氏の12代の義盛の墓がありますが、今は西山寺の裏手となっています。
これまた寺の方に場所を聞かなければなかなか行き着けない場所にあり、ここでもお世話になりました。
義盛は10代の貞国の孫ですが、さしたる事績はないようです。
この義盛だけではなく11代の材盛、18代の義純の墓の情報も現地に入ってから手に入れたのですが、残念ながら他の墓を探し出すことはできませんでした。
材盛の墓は醴泉院にあるとのことで訪ねたのですが過去帳まで持ち出して調べてもらいましたが分からないままで、それではとスマフォを駆使してチェックをしてみれば隣の天沢院ではないかとのことになったのですが、やはりここの住職さんもご存じないとのことでしたので諦めるしかありません。
義純の墓があるはずの長寿院では住職さんがお留守でお子さんしかいなかったことで、これはもうあっさりと断念です。
それでも醴泉院、天沢寺ともにいろいろとお話をさせていただき、いい時間を過ごすことができました。
写真は左から醴泉院、天沢寺、長寿院です。

これらの現地で入手をした情報は、長崎県立対馬歴史民俗資料館に展示があった対馬の年表のボードにあったものです。
ただ資料館の方に聞いても具体的な場所までは分からなかったので、どこまで正しいものかは不明です。
展示としてはそのボードが興味を引いただけで、自分の嗜好に合うものはほとんどありませんでした。
この資料館の脇には朝鮮通信使之碑がありましたし、市街のここそこに朝鮮通信使幕府接遇の地の跡が残されています。
いわゆる史跡と言えるようなものではないのですが、やはり対馬の歴史は朝鮮とは切っても切れない関係にあるようです。
写真は左が朝鮮通信使之碑で、右が朝鮮通信使幕府接遇の地です。

国分寺は朝鮮通信使の来聘に際して、その客館として使われました。
やはりここにも朝鮮通信使幕府接遇の地、との説明の碑が立っています。
対馬では唯一の四脚門の山門は市指定有形文化財ですが、残念ながら絶賛工事中でした。
対馬での最大の失敗は、対馬藩お船江跡に行き着けなかったことです。
近くまでは行けたのですが案内も何もないのでよく分からず、近くの老人ホームの方に聞いたところ橋の途中にある階段を降りたところだと教えていただき船着き場っぽい雰囲気のあった左の写真がそれだと思ったのですが、どうやらこの左の方をもっと奥に行ったところが正しい場所だったようです。
観光マップに載っているものとは違ったので先の資料館の方に写真を見てもらったのですが、あっさりと否定をされました。
藩船が係留をされていた場所とのことで石垣なども遺されているようなのですが、しかし実のところはさして興味がなかったので痛手ではなかったと強がりを言ってみるものの、それでもそれなりのアップダウンの3キロをこなしてのことなのでもったいなかったのが正直な思いです。
また宗家館跡はありがちな役所になっており、この看板が虚しく感じられました。
対馬での最後の目的地に向かう途中で見つけた、文字どおりに見つけたのが対馬藩家老屋敷跡と藩校日新館門です。
左の対馬藩家老屋敷跡は宗氏の一門であり家老でもあった氏江氏のもので、当時ものとのことです。
右の藩校日新館門は宗氏の中屋敷門だったものが幕末に転じられましたが、勤王党の拠点として粛正の舞台となったそうです。
そして今は陸上自衛隊の対馬駐屯地と化した、桟原館跡です。
本来は桟原城なのでしょうが、先に書いた理由もあってか館という扱いとなっています。
もっとも天守閣などがなければ城も館もさして変わらないでしょうし、そこを気にしても仕方がありません。
金石城が拡張をされた際に築かれて、その後は幕末まで対馬藩の中心はこの桟原館が担うこととなりました。
それであればもっと詳しく見たいところなのですが、お国のためを思えば我慢をするのが日本人です。
まだ日が高かったのですが、博多に戻るフェリーが15時過ぎに出港となりますのでこれにて終了です。
予定では宗氏の初代である重尚の墓がある木武古婆神社や2代の助国の首塚や胴塚などにも行きたかったのですが、島の中腹部を目指して暫く行ったところで半端ない上り坂に気弱になってしまい、ただ結果的に帰りのフェリーがギリギリの乗船でしたので正解だったかもしれません。
次の機会があるかどうかは分かりませんが、そのときには原チャリでチャレンジをしてみようと思います。
【2012年7月 福岡の旅】
ボーダーレスな対馬
ボーダーレスな対馬 旅程篇
ボーダーレスな対馬 旅情篇
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 福岡の巻
ボーダーレスな対馬 史跡巡り篇 柳川、久留米の巻
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