オリオン村(跡地)

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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 仙台の巻 瑞鳳殿の章

2015-11-16 00:04:12 | 日本史

 

文字数制限に引っ掛かったために泣く泣く分割をした後篇、瑞鳳殿の章です。
gooブログは他に比べれば制限が緩いとは聞いていますが、カウンターが付いていながらもそのカウンターどおりに制限がかからないのでたちが悪いです。
公式には1記事20000文字らしいのですが約28000文字まではセーブができていただけに、あともう少しで一本にまとめられたのにと残念でなりません。
仕方がないので真ん中ぐらいでぶった切っての、仙台城の章と瑞鳳殿の章からなる仙台の巻となります。

いよいよ伊達政宗の御霊屋である瑞鳳殿です。
瑞鳳殿があまりに名高いのでその名前で呼ばれることが多いのですが、この一帯は経ヶ峯伊達家墓所が正式な名称です。
こちらはその登り口の脇にある瑞鳳寺で政宗の菩提寺ですが、明治維新後の一時期に廃寺となるなど衰退が著しく、復興後も瑞鳳殿の管理外とは説明板の説明でした。

まずは登り口からすぐ右手にある御子様御廟です。
5代藩主である吉村以降の夭折をした子女の墓が整然と並んでいます。
当時は衛生状態も悪かったでしょうし、今では考えられない習慣などで子女の生存率は高くありませんでした。
だからこそ家を絶やさないために多くの側室を抱えたわけで、現代の価値観からしてもある意味で必要悪と言えなくもありません。
かなり数が多かったですが元服を済ませて諱があったのは吉村の長男である村匡、そして三男の村風だけで、いずれも6代を継げる存在でしたので無念だったでしょう。
写真は中央が村匡、右が村風です。

そのまま時計の逆回りで巡れそうな感じもありましたが、順路に従って左手に進んでの瑞鳳殿です。
手前に料金所がありましたから逆回りであれば悪さができそうな感じもあり、このあたりが日本的な性善説なのでしょう。
さすがに藩祖、手前に涅槃門と呼ばれている正門があり、残念ながら当時のものは戦災で焼失をしてしまいましたが、樹齢数百年の青森檜葉を用いて再建がされました。

涅槃門の右脇をくぐって登れば、そこには豪華絢爛な瑞鳳殿です。
しかし残念なことに柵に囲まれていたために距離を保てず、それなりに広角のカメラなのですが上手く撮ることができませんでした。
のけ反りながらかなり無理な体勢だったために、両端が入ることだけに意識がいっていて下に余裕があるのに上が切れるという体たらくです。
扉には亘理伊達氏の実元が上杉氏から拝領をしたものをちゃっかりと取り込んだ仙台笹が鎮座をして、その下ある九曜紋は政宗が細川忠興からもらったものとのこと、細川氏は室町幕府の管領の家柄ですのでブランド志向だったのかなと、三引両紋が無いのが寂しくもあります。

両脇には殉死をした20人の、おそらくは供養塔がずらりと並んでいます。
当時のことですから喜んで死後の世界まで供をする思いで、当たり前のように追い腹を切ったのでしょう。
藩の重責を担う家臣の名前が無いのは時代の流れなのか、政宗が長命だったことで既に先立っていた人物が多かったのもその理由かもしれません。
名のある氏族としては茂庭兼綱、桑折綱長ぐらいで、ただ兼綱は元は茂庭氏の家臣である斎藤氏ですから政宗の近習に取り立てられたことによるものかもしれず、一方の綱長は伊達氏庶流の桑折氏の傍流である桑折豊後であれば景長の子で宗長の叔父になりますが、しかし年齢的に見れば宗長の子の政長と同世代ですから勘定が合わず、あるいは桑折豊後の子で父と同じ豊後を名乗ったのであれば宗長の従兄弟となりますから収まりがいい感じです。
写真は中央が兼綱、右が綱長です。

ぐるっと右手に進んでいくと感仙殿、伊達忠宗の御霊屋です。
忠宗は仙台藩の基礎を築いた名君として、父に比べれば地味ではありますが評価は高く、いい意味での二代目でした。
やはり両脇に16人の殉死者の供養塔が並んでいますが説明がないためにどれが誰のものかが分からず、中には政宗の叔父で伊達氏を出奔して佐竹氏を頼った国分盛重の子、つまりは政宗の従兄弟で忠宗の重臣だった古内重広のものがあったはずなのにと、残念でなりません。
この重広が殉死をしたときには70歳で現役を退いていたでしょうから、まさに死出のお供といったところだったのでしょう。

その左隣には善応殿、伊達綱宗の御霊屋です。
19歳で忠宗の跡を継いで3代藩主となりながらも不行状を理由に21歳で隠居をさせられてから72歳で没するまで50年以上、そんな綱宗にもこれだけ立派な御霊屋を建てるのですから不思議な感じがしないでもありませんが、建てたのが長男で4代藩主の綱村ではなく甥で5代藩主となった吉村であるのが意味深ではあります。
瑞鳳殿、感仙殿、善応殿とも仙台空襲で焼失をしたものを昭和50年代から60年代にかけて再建をされたものですが、善応殿の下の家紋が三引両紋であることを除けば細かな文様に差があるもののぱっと見の区別はつきづらく、形式美と言いますか様式美と言いますか、そういったものなのでしょう。

感仙殿の右手奥にあるのは妙雲界廟です。
仙台藩伊達氏の墓所はここ経ヶ峯伊達家墓所とその一角にある妙雲界廟、大年寺山にある無尽灯廟と宝華林廟、茂ヶ崎墓所に分かれています。
説明によれば4代藩主綱村以降は廟建築を廃して一定規格の板石塔婆に雨屋のみとし、さらに5代藩主吉村以降は夫婦の墓を並列することとなり、さらには明治以降に仏式から神式に改めたことで13台藩主慶邦以降は土饅頭と称する小円墳になりました。
ここ妙雲界廟には9代藩主周宗と、11代藩主斉義の墓があります。

周宗は公式には17歳、しかし実際には14歳で病死をしたために徳川11代将軍家斉の娘と婚約をしながらも婚儀には至らず、よって正室の墓はありません。
また将軍家の偏諱を受けず、御目見をすることなく隠居、死去をしたという異例の藩主です。
斉義は庶流から入った藩主で、8代藩主斉村から12代藩主斉邦まで短命が続いたために5代で僅かに52年、1代で40年以上の綱村や吉村は例外としても、これではじっくりと藩政を行って国力を高めることができるわけもなく、時代の流れに乗り遅れた感は否めず、これが屈指の雄藩ながらも幕末の動乱で遅れを取った理由の一つでしょう。
写真は左が周宗、右が斉義です。

次なるは4代藩主綱村以降の墓所である大年寺山墓地、しかし正確な住所が分からなかったので大年寺山を目指せばいいだろうと当てずっぽで緩やかでもない上り坂を延々と登って頂きに着いてみればあるのは野草園だけで、それならば大年寺と坂を快適に下れば出迎えてくれたのは大年寺惣門で、綱村が開基となった大年寺の唯一の当時の遺構です。
しかしやはり墓所は大年寺山の中腹にあったようで、この惣門から数えるのも嫌になるぐらいの石段を延々と登るのは旅の最終盤、最終日の午後ですのでほぼ拷問でした。

この大年寺山墓所には宝華林廟、無尽灯廟、そして茂ヶ崎墓所がありますが、宝華林廟は立ち入る者を拒むかのように門扉が閉ざされていました。
大年寺で状況を確認しようとしたのですが不在で分からず、また茂ヶ崎墓所も徒歩で登ってきたために足回りが弱くて探し回るのを断念、なかなかに苦労は報われません。
写真は宝華林廟です。

唯一に入れたのは無尽灯廟で、こちらも門扉にかんぬきはありましたが鍵はかかっていませんでしたし案内板もありましたから、地獄に仏といった気分です。
こちらには4代藩主の綱村、5代藩主の吉村、10代藩主の斉宗、12代藩主の斉邦の墓があります。
幕末までの藩主の全てを見られなかったのは残念ですが、高知の山内氏のそれのように今は完全非公開となっているところもありますので、贅沢も言っていられません。

門から一直線に続く石畳の奥にあるのが綱村です。
伊達騒動のときの幼君で、自ら政務を執るようになってからは名君と言われるぐらいに藩政に力を入れました。
しかし多くの建造物を造営するなど支出が増えたことで藩財政を苦しくさせた元凶との評もあり、毀誉褒貶相半ばするといったところでしょう。

その両側には吉村、斉宗、斉邦です。
政宗からの直系は忠宗、綱宗、そして綱村で途絶えてしまい、綱村の跡を継いだのは従兄弟の吉村です。
吉村は綱村が破綻に導いた財政を立て直し、40年もの長きに渡って中興の英主と称えられる善政を敷きました。
斉宗、斉邦は短命が続いた末期の藩主で、よってこれといった事績はありません。
写真は左から吉村、斉宗、斉邦です。

松音寺は政宗から5代前、稙宗の祖父の成宗の菩提寺です。
元は福島県伊達郡国見町にあったものを、政宗が仙台に入った際にこの地に遷されました。
その国見町に苦労をして探した成宗の墓がありましたが、ここ仙台の松音寺にも成宗の墓があります。

その墓所は上記写真の左手、松音寺と道を挟んだ向かいにあります。
入口に案内板が立っていますので、余程のことがなければ見落とすことはないでしょう。
成宗は室町幕府に奥州馬や砂金を献ずるなど中央と結びつつ、隣接をする大崎氏などと抗争を繰り返しながらも伊達氏の隆盛の基盤を築いた一人です。
隣にあるのは政宗の五男、宗綱の墓です。
宗綱は五男ながらも正室である愛姫の二番目の息子ですので兄の忠宗を支える藩屏として期待をされたのでしょう、岩ヶ崎に3万石を与えられて岩ヶ崎伊達氏の初代となりました。
しかし16歳で早世、跡を継いだ異母弟の宗信も後嗣がないままに24歳で没したため、岩ヶ崎伊達氏は2代で途絶えることとなります。
写真は左が成宗、右が宗綱です。

裁松院には久保姫、絶世の美女で晴宗が強奪をしたとも言われている政宗の祖母の位牌が納められています。
隠居寺でもあった裁松院は白石にありましたが、やはり政宗が仙台に入ったときに遷されました。
余談ではありますがそれであれば父の輝宗の墓所がなぜに仙台には無いのか、菩提寺の覚範寺は米沢から遷されてはいますが、やや違和感があります。
門をくぐった左手に久保姫の供養塔がありますが、見てのとおりさほどに古いものではありません。

そして本堂の左裏手にあるのが伊東氏の墓所で、むしろ目的はこちらです。
伊達騒動に際して伊達兵部の暗殺を企んだとして処刑をされた伊東七十郎重孝、また父の重村、一族の重義の墓があります。
伊東新左衛門こと重義が奉行になるなど伊東氏の本家で重孝は分家でしかないのですが、今となっては伊達の伊東と言えば七十郎でしょう。

七十郎は今でこそ忠義の士とされていますが、葬られた当時は伊達兵部、つまりは仙台藩にとっての逆賊ですので墓石に戒名すら無かったとのことです。
その伊達兵部が失脚をしたことから後で刻まれたらしく、ただ中央にそれがありますので単なる言い伝えかもしれません。
写真は左から重義、七十郎重孝、重村ですが、重義と重村は戒名や刻まれた諱からの想定ですので不確かかもしれず、また重義と七十郎との関係も叔父甥だったり義兄義弟だったりと諸説あるようで、あやふやですから伝重義、伝重村とでもさせてください。

見落としがちな地味な存在ではありますが、伊東氏の墓所の手前にある冨塚重長の墓です。
伊達晴宗のころからの宿老の一族で、重長も城代家老として仙台藩に仕えました。
しかし子の重標のときに改易となり、冨塚氏のその後は定かではありません。

仙台の、そしてこの旅の最後は孝勝寺です。
日蓮宗の最北の本山とのこと、当初は大仙寺でしたが伊達政宗が戦勝を祈願したところ沢山の武勲をあげることができたことで全勝寺に改め、その後に善勝寺、そして伊達忠宗の正室である振姫、その法号である孝勝院殿秀岸日迅大姉から孝勝寺となりました。
ビックリするぐらいに立派な五重塔があり、仙台でも中心的な存在だったようです。

そうは言いながらも寺社仏閣に興味があるわけではなく、目的は三沢初子の墓所でした。
しかしどうやらその墓所は離れたところにあるようで、こちらは伊達綱村が母である初子の菩提を弔うために持仏だった釈迦仏を祀った持仏堂です。
その手前には綱村を抱く初子の像があり、これは伽羅先代萩の政岡のモデルとなっているイメージそのものです。

その墓所は数分ではありますがそれなりの距離があり、そして門扉は閉ざされていました。
普段は閉まっているものの事務所に頼めば開けてもらえる、との事前情報があり、向かいのビルの一階にある事務所に向かったのですが時間が遅かったことで既に終わっていて目の前が真っ暗、しかし何かあれば連絡を、との掲示があったので電話をしてみれば、わざわざ孝勝寺からお寺の方に来ていただき感謝の言葉もありません。
15分ほども見学を待っていただき、この墓所も当時は孝勝寺の一角にあり、つまりはそれだけ広大な寺院だったと、そんなお話も聞かせていただきました。

三沢初子の墓です。
その墓石に違和感があり、後世のもののようにも思えますが、他も含めて仙台市史跡に指定をされています。
政岡のイメージが強いために綱村の乳母と思い込んでいたのですが、綱村の実母、正室を持たなかった綱宗の側室ですので実質的な正室でもありました。
尼子氏の重臣であった三沢為清の流れで、為清と子の為虎が毛利氏に降り、為虎の子の為基が毛利氏を出奔して伊達氏に仕えたとの話もあるようですが、一方で為基の子の清長は氏家氏に仕えたとも、清長の子である宗直の母は氏家行広の娘であり、そして清長の娘である初子は叔母、つまりは清長の姉妹なのでしょうが、その叔母が伊達忠宗の正室の老女だった縁で侍女として伊達氏に入り、器量を見初められて綱宗の側室となったのが実状のようです。

初子が伊達氏に入るきっかけとなった忠宗の正室が振姫、徳川振子です。
池田輝政の娘で、徳川秀忠の養女となって忠宗に嫁ぎました。
初子の叔母が振姫の侍女となったことで初子が仙台に呼ばれましたので、初子からすれば結果的に大恩のある人物です。
また綱村の正室、仙姫の墓も隣に並んでいます。
仙姫は稲葉仙子、つまりは稲葉氏の出身で、父の正則は春日局の孫ですから、その血筋が尊ばれたのでしょう。
残念ながら後継となる男児を得ることはできず、三人の子は全て夭折をしてしまったようです。
この代々の藩主の正室が葬られたことで多くの寄進があり、広大な寺域を誇ったとは先のお寺の方のお話でした。
写真は左が振姫、右が仙姫です。

最後に仙台の巻に登場をした伊達氏にかかる人物の、相関関係をまとめてみました。
やや複雑になってしまいましたが、せっかくですので藩主の正室、及び実質的な正室を載せての血縁を明らかにしています。
例えば夭折をした虎千代丸、光宗は忠宗と正室の振姫との子ですが、忠宗の跡を継いだ綱宗は側室の子ですので本来であれば家を継ぐことはできなかったはずです。
凡例は赤字が藩主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。


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2 コメント

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Unknown (バビロバ)
2017-05-24 09:59:27
昔、仙台に住んでいて瑞鳳殿には行ったはずなのですが、ほとんど記憶がありません。勉強になりました。
江戸時代、女性が使っていた白粉に水銀が含まれていて特に乳母がいるような高級武家の乳幼児はその影響?で早死にが多かったようですね。
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お返事 (オリオン)
2017-05-25 01:40:49
乳母が○首にまで白粉を塗って、そこから水銀を体内に取り込んでしまったことで乳児の早死にが多かったみたいですね。
それこそ軒並みの早死にで後継者が・・・なんてところも少なくなかったようで、島津斉彬なんかもそうじゃなかったでしたっけ。
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