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『功名が辻(二)』http://tinyurl.com/aanohcb
【 司馬遼太郎、文藝春秋 (2005/02)、p225 】
山崎合戦のおこなわれた天正10年6月中旬は、太陽暦にすれば7月中旬である。その酷暑は推して知るべきであろう。
その上に、この夏は雨が多かった。
秀吉軍の先鋒がはやくも山崎駅(宿場)に進出した12日は、午後から豪雨が降った。
秀吉は軍令を発し、
「雨に濡れるな、在所々々の民家に入って雨宿りせよ」
と、無理な行軍をいましめた。さいわい、秀吉軍の進路には人家が多い。伊右衛門らは軒を借りる農家に不自由しなかった。
秀吉が雨中行動をいましめたのは、将士の健康を考えたわけではない。足軽衆めいめいが携行している煙硝(えんしょう)に水気が含むことをおそれたのである。雨中突進しても、いざ合戦で弾がうてなければなにもならない。
ところが明智光秀の側は。――
この豪雨の12日、行軍中であった。
秀光が、中国征伐中の秀吉が、おもいもかけず敵と講和して軍をひるがえして東上中であるというおそるべき報告をきいたのは、10日の夜であった。
「猿め、毛利に足をとられて動きがとれぬと思いしに、はや軍を旋回しおったか」
光秀は狼狽し、しかしながらこの織田家で最も秀才の作戦家といわれたこの男は、すばやく手配りした。光秀はこの日、京都の南郊下鳥羽(しもとば)から所用あって洞ヶ峠(ほらがとうげ)に足を運んでいたが、すぐ下鳥羽にもどり、まず淀城を修復させた。合戦を前に城の修繕からはじめねばならぬ光秀の心境は悲痛なものであったろう。
ところが、指折って数えていた秀吉の行軍速度が、光秀の予想以上に早く、12日その先鋒が山崎のあたりにあらわれたのを知りあわてて全軍をあらたに部署し、進撃を命じたのである。
豪雨である。
が、手遅れた光秀は、雨であろうと嵐であろうと、とにかく進撃せざるをえない。
なぜならば、山城平野と摂津平野をヒョウタンの二つのフクラミとすれば、山崎の地形はそのクビレというべきものである。ここを先に制する者が、勝つ。
戦術の常識である。
光秀は、諸事行動をあせった。豪雨の中を行軍し、かつ、水かさのふえている桂川を渡った。橋などはないころである。
光秀は小舟で渡り、騎馬隊は水馬でわたり、足軽隊は全身ずぶぬれになって渡った。この川渡りで足軽どもが腰につけていた火薬がほとんど濡れてしまった。鉄砲は役立たなくなった。
「これでは戦はできませぬ。さればここを捨て、京を捨て、近江の湖畔の坂本城まで軍を退いて後図を策しましょう」
と侍大将の斎藤利三(としみつ)が口をすっぱくして諫めたが、光秀は、
「いや、やってみる」
といった。光秀は本能寺で信長を討って臨時政府を京都にうちたてて以来、ほとんど眠るいとまもなかった。
疲れている。
疲れほど人間を無残にするものはない。光秀はかれの最も重大な時期において、その叡智は枯れ、判断力はにぶり、果断心がなくなり、しかもかれだけでなくその兵は疲労しきっており、火薬さえなかった。
とまれ、12日、光秀は御坊塚に本営を進め、諸隊は、勝竜寺、西ヶ岡などに宿営させて、「あす、払暁には山崎に進出せよ」と諸隊に命じた。
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【 司馬遼太郎、文藝春秋 (2005/02)、p225 】
山崎合戦のおこなわれた天正10年6月中旬は、太陽暦にすれば7月中旬である。その酷暑は推して知るべきであろう。
その上に、この夏は雨が多かった。
秀吉軍の先鋒がはやくも山崎駅(宿場)に進出した12日は、午後から豪雨が降った。
秀吉は軍令を発し、
「雨に濡れるな、在所々々の民家に入って雨宿りせよ」
と、無理な行軍をいましめた。さいわい、秀吉軍の進路には人家が多い。伊右衛門らは軒を借りる農家に不自由しなかった。
秀吉が雨中行動をいましめたのは、将士の健康を考えたわけではない。足軽衆めいめいが携行している煙硝(えんしょう)に水気が含むことをおそれたのである。雨中突進しても、いざ合戦で弾がうてなければなにもならない。
ところが明智光秀の側は。――
この豪雨の12日、行軍中であった。
秀光が、中国征伐中の秀吉が、おもいもかけず敵と講和して軍をひるがえして東上中であるというおそるべき報告をきいたのは、10日の夜であった。
「猿め、毛利に足をとられて動きがとれぬと思いしに、はや軍を旋回しおったか」
光秀は狼狽し、しかしながらこの織田家で最も秀才の作戦家といわれたこの男は、すばやく手配りした。光秀はこの日、京都の南郊下鳥羽(しもとば)から所用あって洞ヶ峠(ほらがとうげ)に足を運んでいたが、すぐ下鳥羽にもどり、まず淀城を修復させた。合戦を前に城の修繕からはじめねばならぬ光秀の心境は悲痛なものであったろう。
ところが、指折って数えていた秀吉の行軍速度が、光秀の予想以上に早く、12日その先鋒が山崎のあたりにあらわれたのを知りあわてて全軍をあらたに部署し、進撃を命じたのである。
豪雨である。
が、手遅れた光秀は、雨であろうと嵐であろうと、とにかく進撃せざるをえない。
なぜならば、山城平野と摂津平野をヒョウタンの二つのフクラミとすれば、山崎の地形はそのクビレというべきものである。ここを先に制する者が、勝つ。
戦術の常識である。
光秀は、諸事行動をあせった。豪雨の中を行軍し、かつ、水かさのふえている桂川を渡った。橋などはないころである。
光秀は小舟で渡り、騎馬隊は水馬でわたり、足軽隊は全身ずぶぬれになって渡った。この川渡りで足軽どもが腰につけていた火薬がほとんど濡れてしまった。鉄砲は役立たなくなった。
「これでは戦はできませぬ。さればここを捨て、京を捨て、近江の湖畔の坂本城まで軍を退いて後図を策しましょう」
と侍大将の斎藤利三(としみつ)が口をすっぱくして諫めたが、光秀は、
「いや、やってみる」
といった。光秀は本能寺で信長を討って臨時政府を京都にうちたてて以来、ほとんど眠るいとまもなかった。
疲れている。
疲れほど人間を無残にするものはない。光秀はかれの最も重大な時期において、その叡智は枯れ、判断力はにぶり、果断心がなくなり、しかもかれだけでなくその兵は疲労しきっており、火薬さえなかった。
とまれ、12日、光秀は御坊塚に本営を進め、諸隊は、勝竜寺、西ヶ岡などに宿営させて、「あす、払暁には山崎に進出せよ」と諸隊に命じた。
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