電脳筆写『 心超臨界 』

何もかもが逆境に思えるとき思い出すがいい
飛行機は順風ではなく逆風に向かって離陸することを
ヘンリー・フォード

厳しい国際環境を潜り抜けてきた知恵と体験が、いまだに本当の意味で継承されていない――中西輝政さん

2012-01-26 | 05-真相・背景・経緯
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『なぜ国家は衰亡するのか』
http://tinyurl.com/72jm33s
【 中西輝政、PHP研究所 (1998/10)、p215 】

同じことは、戦後の繁栄を築き上げてきた世代についてもいえるだろう。オイル・ショックを乗り越えていった世代というのは、善くも悪しくも戦前の日本がどのようなものか知っており、第二次世界大戦による「世界の崩壊」を成人として体験した人々だった。したがって彼らは、大きな使命感と歴史認識をもって戦後の復興と国家の再建を最前線に立って切り開こうとした。

こうした世代が70年代の半ばには、ちょうどトップ層に来ていた。彼らが自らに課したことは、日本経済の流れを見据えて、高度成長をさらに先進国に横並びできるところまでもっていこう、ということだったろう。このオイル・ショックなどで挫折するわけにはいかないという、強い使命感があった。

ところが、80年代に登場してきたその次の世代のリーダーたちは、戦中戦後の混乱を、学生かあるいは子供として過ごした世代だった。生まれたときには戦時体制であり、物心ついたときには自分が戦争で死ぬかもしれない、ということだけを考えた人たちである。したがって、戦前の日本がいかに安定した社会であり、あの十数年がいかに逸脱した時代だったかということを知らない世代であった。それなりの良さをもった戦前の日本社会というものを知らない以上、「再建」の終わったあとの、新たな国家目標など展望しえなかったわけである。

政治家でいえば、中曽根康弘までは戦前の日本を知っていたが、竹下からは「戦前を知らない世代」に移る。竹下登、宮澤喜一、安倍晋太郎といった人々が中曽根の後継者と目されたとき、政治において決定的な何かが継承されなかったのであろう。それまでの世代の日本人には、「戦後日本」というものは敗戦によって迫られた「やむをえない選択」にすぎない。緊急避難的なものだと思っていた人々が多かった。吉田茂から池田勇人、佐藤栄作くらいまでは、戦後は明らかに「やむをえない時代」として受け止められていた。

財界においても、現在のリーダーたちは「国際」体験が豊富で、通訳なしで国際会議に参加できるような人々が多くなった。しかし、それ以前の、土光敏夫、稲山嘉寛らに続いた世代の人たちと比べると、やはり「甘さ」と「軽さ」が目立つ。たとえば「国際的調和」という神話をあまりにも容易に受け入れてしまう体質でも、政治家や言論人の同世代と共通している。それはやはり陸奥宗光と幣原喜重郎、あるいは伊藤博文と加藤高明との落差とどこかパラレルな形となって現れているように思われる。財界においても、厳しい国際環境を潜り抜けてきた知恵と体験は、いまだに本当の意味で継承されているようには思えない。

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