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[師弟感奮興起物語] 「世界の王」はこうしてつくられた
荒川博・野球評論家 VS 王貞治・福岡ソフトバンクホークス球団会長
『仕事力入門』http://tinyurl.com/osn3kc2
【致知出版社 (2012/8/8)、p78 】
【王】 思えば僕が中学2年の時、草野球の試合に出ていたのを目に留めていただいたのが、荒川さんとの初めての出会いでしたね。
【荒川】 そう、忘れもしないね。昭和29年11月23日の、午後2時頃だ。当時24歳だった私は毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の選手だったけれど、その頃のプロ野球には秋季練習なんてなかったから、暇を持て余して近所の隅田公園へ出掛けていった。そしたらそこに凄いピッチャーがいたんだ。
ところがその子は左で投げているにもかかわらず、打つ時になると、なぜか右で打つんだよ。で、初めは黙って見てたんだよね。1打席目3塁ゴロ、2打席目ショートフライ。覚えてる?
【王】 いや、全然覚えていませんね(笑)。
【荒川】 それで3回目の打席に立った時にね。「ちょっと待って、坊や。君は何で右で打ってるの? 本当は左利きなんだろう? 次の打席は左で打ってごらん」と声を掛けたら、「はい」って素直に言ったんだよ。
これがすべてのきっかけだな。普通、それまで左で打ったこともない子が、試合中にいきなりそんなことを言われたら、「できない」って言うのが当たり前だよ。ところが次の打席でも左ボックスに入ったその坊やは、いきなり2塁打をかっ飛ばした。
【王】 それは覚えていますね。
【荒川】 右中間真っ二つ、ビックリするくらいのいい当たり。私はその時に、あ、この子を、母校の早稲田実業に入れようと思った。そうすれば絶対に甲子園で全国制覇ができるって。それで試合が終わるまで待って、早実に入るよう勧めたんだ。
【王】 ところが僕の家では野球を専門的にやることには反対だったんです。父は僕ら兄弟が学校を出たら、中国に帰って国のために働くようにと、兄を医者に、僕をエンジニアにしようと考えていました。僕も親の言うとおりにしなきゃいけないと思っていたものですから、荒川さんに声を掛けていただいた時も即答はできなかったんです。
【荒川】 私はともかくも早実へすっ飛んでいってこういう選手を見つけたから、2年後には何が何でも入れてくれと頼み込んだ。ところが翌週に少年の家に行くと、お父さんからけんもほろろに断わられてしまった。「うちの子には野球なんかやらせない。両国高校へやって東大に行かせるんだ」って。いや、これは頭がいいんだなと思ったね。
でも私はそこで諦めなかった。人生には「もし」ということがある。もし落っこちたときはどうすんだ、と。そこで近所の知り合いのオヤジに「もしあそこの家の子が受験に落ちた時には、俺のところへ知らせてくれ」と頼んでおいた。そしたら結果的に志望校を落ちて、早実へ入ることになったんだな。
【王】はい。あの時もし志望校に受かっていたらそのまま進学していたと思います。いま振り返ってみると人生の凄い分かれ道でしたね。
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【王】 思えば僕が中学2年の時、草野球の試合に出ていたのを目に留めていただいたのが、荒川さんとの初めての出会いでしたね。
【荒川】 そう、忘れもしないね。昭和29年11月23日の、午後2時頃だ。当時24歳だった私は毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の選手だったけれど、その頃のプロ野球には秋季練習なんてなかったから、暇を持て余して近所の隅田公園へ出掛けていった。そしたらそこに凄いピッチャーがいたんだ。
ところがその子は左で投げているにもかかわらず、打つ時になると、なぜか右で打つんだよ。で、初めは黙って見てたんだよね。1打席目3塁ゴロ、2打席目ショートフライ。覚えてる?
【王】 いや、全然覚えていませんね(笑)。
【荒川】 それで3回目の打席に立った時にね。「ちょっと待って、坊や。君は何で右で打ってるの? 本当は左利きなんだろう? 次の打席は左で打ってごらん」と声を掛けたら、「はい」って素直に言ったんだよ。
これがすべてのきっかけだな。普通、それまで左で打ったこともない子が、試合中にいきなりそんなことを言われたら、「できない」って言うのが当たり前だよ。ところが次の打席でも左ボックスに入ったその坊やは、いきなり2塁打をかっ飛ばした。
【王】 それは覚えていますね。
【荒川】 右中間真っ二つ、ビックリするくらいのいい当たり。私はその時に、あ、この子を、母校の早稲田実業に入れようと思った。そうすれば絶対に甲子園で全国制覇ができるって。それで試合が終わるまで待って、早実に入るよう勧めたんだ。
【王】 ところが僕の家では野球を専門的にやることには反対だったんです。父は僕ら兄弟が学校を出たら、中国に帰って国のために働くようにと、兄を医者に、僕をエンジニアにしようと考えていました。僕も親の言うとおりにしなきゃいけないと思っていたものですから、荒川さんに声を掛けていただいた時も即答はできなかったんです。
【荒川】 私はともかくも早実へすっ飛んでいってこういう選手を見つけたから、2年後には何が何でも入れてくれと頼み込んだ。ところが翌週に少年の家に行くと、お父さんからけんもほろろに断わられてしまった。「うちの子には野球なんかやらせない。両国高校へやって東大に行かせるんだ」って。いや、これは頭がいいんだなと思ったね。
でも私はそこで諦めなかった。人生には「もし」ということがある。もし落っこちたときはどうすんだ、と。そこで近所の知り合いのオヤジに「もしあそこの家の子が受験に落ちた時には、俺のところへ知らせてくれ」と頼んでおいた。そしたら結果的に志望校を落ちて、早実へ入ることになったんだな。
【王】はい。あの時もし志望校に受かっていたらそのまま進学していたと思います。いま振り返ってみると人生の凄い分かれ道でしたね。
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