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電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

朝鮮人の戸籍に対する反感というのはいまも根強い――渡部昇一教授

2012-03-26 | 05-真相・背景・経緯
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渡部昇一「日本の歴史」(3)戦国篇
『戦乱と文化の興隆』http://tinyurl.com/7fzufb2
【 渡部昇一、ワック (2010/09)、p172 】

そして5月2日、小西・宗の軍隊は午後8時ごろに東大門から京城に入り、翌日、加藤・鍋島の第二軍は午前に南大門(なんだいもん)から入って京城(けいじょう)(漢城(かんじょう))を占領した。このときも、日本軍が近づくと、朝鮮人が進んで門を開けてくれたというから、当時の李王朝がいかに不人気だったががわかる。日清戦争のときも日本に協力する朝鮮人が非常に多かったと言われている。5月10日までには全軍が朝鮮に上陸した。

京城の都はほとんど火事で焼けており、朝鮮国王宣祖(せんそ)はすでに逃げていた。小西行長は蔚山(うるさん)のあたりの高級官僚を捕まえて手紙を持たせ、幸福を勧めようとしたが、この男は恐れて逃げてしまった。他の各地の高級官僚たちも妾(めかけ)を連れてみんな逃げてしまう。自分が逃げるだけで精一杯(せいいっぱい)で、京城の守りに行こうなどという人間はいない。まったくの無政府状態であった。

世子(せいし)(後継ぎ、光海君(こうかいくん)と思われる)は王と一緒に逃げ、ほかの王子は各道に分かれて勤王の士を集めようということになり、臨海君という王子は咸鏡道(かんきょうどう)に、順和君(じゅんわくん)という王子は、江原道(こうげんどう)に逃げた。

宣祖と世子は、まだ明けやらぬ頃に雨の降る中を馬で逃げたが、従うものは百人ぐらいだった。王妃と侍女数人も雨の中をつまずきつつ泣きながらついていく。

夜が明けて振り返ってみると京城が燃えている。これはなぜかというと、(ぬひ)や召使いたちが、自分がこういう身分にあるのは、戸籍文書があるからだというわけで、文書をすべて燃やしてしまおうと火をつけたからである。だから、日本軍が来る前にすでに京城は燃えていた。

余談だが、朝鮮人の戸籍に対する反感というのはいまも根強い。戦後観た映画でも、日本の警視庁が新しい建物に移るのにつけこんで指紋の入っている資料を奪おうという計画を立てた物語があった。それは戦後、闇で儲けた朝鮮人たちが、みな一度くらいは捕まって指紋を登録されているからだ。いま日本で戸籍の廃止や過度なプライバシー保護を訴えて騒いでいる人たちは、この系統だと思う。現代のプライバシー情報管理、個人情報保護というのは異常である。民主党の法務大臣が戸籍をなくすことを最終目的にしていたらしいのも、この朝鮮下層民衆的発想と言えるのではなかろうか。

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