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線香の残り香――プロ昇格を祈った母の思い
将棋九段・内藤国雄 [5]
【「こころの玉手箱」08.12.05日経新聞(夕刊)】
薬剤師の父は、大の将棋嫌いだった。当時、将棋は博打(ばくち)の一つと思われていた。兄たちが家で将棋を指していたら、ゲンコツが飛んできた。
今と違って、将棋指しの社会的な地位も低かった。兄が棋士になりたいと言っていたら、父は猛反対しただろう。もし父が将棋に理解があったら、兄が棋士を目指していただろう。兄弟のうち二人が棋士を目指すなんてことにはならないから、私が棋士になることはなかったと思う。私が棋士を目指して師匠の藤内金吾先生に入門したときには父は亡くなっていた。結果的には、父が将棋嫌いだったので、私に棋士を目指す機会が訪れたことになる。
将棋のプロになるには、奨励会という養成期間を突破して四段になる必要があり、その競争は今も昔も熾烈(しれつ)だ。奨励会があった日、家に帰ると、母は、玄関の扉の開け閉めの音で私の結果が分かったそうだ。
私が「負けた、負けた」と悔しがっていると、母は「相手の人は喜んだはるんやから、我慢しなさい」といって慰めようとした。こちらは負けてイライラしているから、最初は腹が立った。後で考えると、母のほうがつらかったと思う。自分は負けた理由が分かっているから、次は頑張るぞと思える。ところが、母は将棋のことは何も知らないから、オロオロするのもグッとこらえていたはずである。
あるとき、奨励会のあった日に家に帰って玄関を開けたら、線香の残り香がした。心配のあまり、母が夕方まで父の仏壇に向かって手を合わせていたのだと思う。線香の残り香は私がプロになるまで続いた。
私がプロの四段になったのは、1958年、18歳のときだ。初めてもらった給料で母に洋服ダンスを買った。7千6百円だったと思う。我が家には男の子が4人もいて、母には自分の服をかけるところがずっとなかったからだ。
やっと親孝行できたと思った。母が亡くなったのは、おの翌年のことだった。
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線香の残り香――プロ昇格を祈った母の思い
将棋九段・内藤国雄 [5]
【「こころの玉手箱」08.12.05日経新聞(夕刊)】
薬剤師の父は、大の将棋嫌いだった。当時、将棋は博打(ばくち)の一つと思われていた。兄たちが家で将棋を指していたら、ゲンコツが飛んできた。
今と違って、将棋指しの社会的な地位も低かった。兄が棋士になりたいと言っていたら、父は猛反対しただろう。もし父が将棋に理解があったら、兄が棋士を目指していただろう。兄弟のうち二人が棋士を目指すなんてことにはならないから、私が棋士になることはなかったと思う。私が棋士を目指して師匠の藤内金吾先生に入門したときには父は亡くなっていた。結果的には、父が将棋嫌いだったので、私に棋士を目指す機会が訪れたことになる。
将棋のプロになるには、奨励会という養成期間を突破して四段になる必要があり、その競争は今も昔も熾烈(しれつ)だ。奨励会があった日、家に帰ると、母は、玄関の扉の開け閉めの音で私の結果が分かったそうだ。
私が「負けた、負けた」と悔しがっていると、母は「相手の人は喜んだはるんやから、我慢しなさい」といって慰めようとした。こちらは負けてイライラしているから、最初は腹が立った。後で考えると、母のほうがつらかったと思う。自分は負けた理由が分かっているから、次は頑張るぞと思える。ところが、母は将棋のことは何も知らないから、オロオロするのもグッとこらえていたはずである。
あるとき、奨励会のあった日に家に帰って玄関を開けたら、線香の残り香がした。心配のあまり、母が夕方まで父の仏壇に向かって手を合わせていたのだと思う。線香の残り香は私がプロになるまで続いた。
私がプロの四段になったのは、1958年、18歳のときだ。初めてもらった給料で母に洋服ダンスを買った。7千6百円だったと思う。我が家には男の子が4人もいて、母には自分の服をかけるところがずっとなかったからだ。
やっと親孝行できたと思った。母が亡くなったのは、おの翌年のことだった。
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