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『続・発想法』http://tinyurl.com/854k7wm
【 川喜田二郎、中央公論社 (1970/02)、p23 】
まず問題提起のやりかたである。以上の説明でもおわかりいただけるように、問題提起はまず当惑から出発する。この当惑は、われわれの心の奥底の状態である。だからまずわれわれは、自分たちの心の奥底を正直にさぐって、当惑状態をつかまえなければならない。これを問題意識の探求といってもよい。ところが、この当惑状態は、どのような当惑かということが、つねに明確に自覚的にとらえられるとはかぎらない。
たとえば「新型のカラーテレビを買いたい」と思って、預金通帳や財布を調べたら、お金が2万円足りない。こういう場合には当惑を見出したときから、その当惑の性質は自覚的につかまえられているといってよかろう。つまり、「問題は、いかにして2万円を調達するかにある」。けれども、他方、こういう場合もある、「私は最近、落ちつかない。なんだか不安である。しかしなにが問題なのか、自分でもよくわからない。それが問題である」という場合すらあるのである。
そのような場合に、問題提起はどうすればよいのか。たとえばある農民の青年が、そのようなとらえがたい悩みにおちいったとしよう。そのときにはどうすればよいのか。まず第一には、自分の心の奥底の状態をみつめ、問題意識を探ろうと思うことである。次にそのような心の姿勢をもったとき、「なんだか自分の当惑とかかわりのありそうなこと」を、なんでもよいから枚挙して、紙きれに書きつけてみることである。
たとえば「1カ月前に牛が死んだ」とか、「きのう彼女がそっけない態度をした」とか、「学校を卒業すれば、どんな就職をすればよいのだろう」とか、さまざまの人名やものの名前や事柄が思い浮かぶだろう。このようにして書きつけられたメモは、おたがいに一見なんらのつながりがなく、ばらばらにみえる。ところが不思議なことに、その「なんだか気にかかる」ものごとを出しつくして、これをKJ法で組み立てると、自分の悩みの本当の構造がつかまれてくるのである。そこで構造がつかまれれば、なおいちだんと明白に自分の直面する問題を定義して書きつけてみるとよい。
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【 川喜田二郎、中央公論社 (1970/02)、p23 】
まず問題提起のやりかたである。以上の説明でもおわかりいただけるように、問題提起はまず当惑から出発する。この当惑は、われわれの心の奥底の状態である。だからまずわれわれは、自分たちの心の奥底を正直にさぐって、当惑状態をつかまえなければならない。これを問題意識の探求といってもよい。ところが、この当惑状態は、どのような当惑かということが、つねに明確に自覚的にとらえられるとはかぎらない。
たとえば「新型のカラーテレビを買いたい」と思って、預金通帳や財布を調べたら、お金が2万円足りない。こういう場合には当惑を見出したときから、その当惑の性質は自覚的につかまえられているといってよかろう。つまり、「問題は、いかにして2万円を調達するかにある」。けれども、他方、こういう場合もある、「私は最近、落ちつかない。なんだか不安である。しかしなにが問題なのか、自分でもよくわからない。それが問題である」という場合すらあるのである。
そのような場合に、問題提起はどうすればよいのか。たとえばある農民の青年が、そのようなとらえがたい悩みにおちいったとしよう。そのときにはどうすればよいのか。まず第一には、自分の心の奥底の状態をみつめ、問題意識を探ろうと思うことである。次にそのような心の姿勢をもったとき、「なんだか自分の当惑とかかわりのありそうなこと」を、なんでもよいから枚挙して、紙きれに書きつけてみることである。
たとえば「1カ月前に牛が死んだ」とか、「きのう彼女がそっけない態度をした」とか、「学校を卒業すれば、どんな就職をすればよいのだろう」とか、さまざまの人名やものの名前や事柄が思い浮かぶだろう。このようにして書きつけられたメモは、おたがいに一見なんらのつながりがなく、ばらばらにみえる。ところが不思議なことに、その「なんだか気にかかる」ものごとを出しつくして、これをKJ法で組み立てると、自分の悩みの本当の構造がつかまれてくるのである。そこで構造がつかまれれば、なおいちだんと明白に自分の直面する問題を定義して書きつけてみるとよい。
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