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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

日本史 昭和編 《 満州事変勃発で終わった幣原協調外交——渡部昇一 》

2024-01-12 | 04-歴史・文化・社会
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日本人の国際的地位を高めたのは、国際協調外交であった。そしてアメリカにおける排日移民法の成立以後の国民的激昂の時期にも維持されたことは注目に値(あたい)する。何しろ幣原は排日移民法の成立した大正13年から、田中内閣の2年間を除(のぞ)けば、昭和6年の満州事変が勃発・拡大した年の終わりまで外相であったのである。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p187 )
2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた
(1) 反米感情の“引き金”は何か

◆満州事変勃発で終わった幣原協調外交

排日移民法は日本の朝野(ちょうや)を憤慨せしめた。

しかし当時の日本は、伝統的な慎重さで国際協調を重んずる外交を取り続けた。そして、排日移民法で国論が沸騰していく中で、護憲三派内閣を組織した加藤高明(かとうたかあき)は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を外務大臣に任じた(大正13年)。幣原こそは、よき時代の日本外交の権化であり、その政策は国際協調である。彼の外交政策は加藤の死後、第一次若槻(わかつき)(礼次郎(れいじろう))内閣(大正15年1月組閣)にも継承された。

ところが、世論は幣原の国際協調政策を、対米追従外交とか、軟弱外交と称する方向に向かった。そして、大陸強硬策を主張する勢力は外交の変更を求め、昭和2年田中義一(たなかぎいち)内閣の誕生を見るに至った。

田中は長州閥の陸軍大将で、かねてから大陸における日本の利権を擁護する立場だった。彼は同時に外務大臣の職を兼ねたが、このこと自体、この内閣の誕生が外交問題からきていることを示している。外務次官は森恪(もりかく)であった。

しかし、満州における張作霖(ちょうさくりん)爆死事件(昭和3年6月)の処理について天皇が不快の念を示されたため、田中内閣は総辞職し(昭和4年7月)、その2カ月後に田中首相は狭心症で亡(な)くなった。天皇に叱(しか)られたのが原因だと言われている。

そして浜口(はまぐち)(雄幸(おさち))内閣が成立すると、幣原喜重郎はふたたび外相にもどった。するとロンドン軍縮会議(昭和5年)がきっかけとなって例の統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題が起こり、浜口首相は右翼青年に射たれた(同年11月)。浜口が病床にある間、幣原は首相代理を務(つと)め、ついで第二次若槻内閣(昭和6年4月組閣)においても、幣原は外相を務めた。

だが、幣原外交に対する反感は国民の一部、特に陸軍に強く、満州派遣軍であった関東軍は勝手に独走して昭和6年(1931)9月柳条溝(りゅうじょうこう)事件、つまり満州事変を起こしてしまった。

幣原外相は不拡大方針を採(と)り、国際連盟理事会にも、出動している日本軍の撤退を約束したが、陸軍はそれを無視して事変を拡大する一方であった。

また国民の一般の支持も軍についたので、幣原外交の維持は不可能になり、満州事変勃発(ぼっぱつ)の年の12月中旬、若槻内閣は総辞職した。

これで日本の国際協調路線を柱にした幣原外交――昭和天皇が心から支持しておられたと思われる外交――は、ふたたび戻ることはなかった。いな、幣原外交が復帰したのは、悲しいかな、敗戦の年の昭和20年10月、東久邇(ひがしくに)(稔彦(なるひこ))内閣のあとを受けて、戦後最初の民間人の首相になった時である。

昭和6年(1931)の満洲事変から昭和20年(1945)の15年間を、15年戦争という人もいる。しかし昭和12年(1937)にシナ(日華)事変が勃発するまでは、戦争はなかったのであるから、15年戦争という名称は不適当であろう。しかし、この15年間は「幣原外交の停止期間だった」と言えば、きわめて正確である。

日本人の国際的地位を高めたのは、国際協調外交であった。そしてアメリカにおける排日移民法の成立以後の国民的激昂の時期にも維持されたことは注目に値(あたい)する。

何しろ幣原は排日移民法の成立した大正13年から、田中内閣の2年間を除(のぞ)けば、昭和6年の満州事変が勃発・拡大した年の終わりまで外相であったのである。
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