電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく次世代へつなぎたいと願っております。
その願いを実現するために有効と思われる記事を書きためてきました。
本ブログは19年に及ぶ私の記憶データを収納した貯蔵庫(ラヤ)です。
あなたの気になるキーワードをブログ内検索してみてください。
ユングが唱えた「集合的無意識」を顕在化できるかもしれません。
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東京裁判史観の虚妄を粉砕し本当の日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
( 心が臨界質量を超えるとは → http://tinyurl.com/5kr6f )
( 東京裁判史観とは → https://tinyurl.com/ugz9qah )
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《 拡散希望 》
★『アドミラル東郷ビールに継いで「ジェネラル樋口季一郎ビール」の製造を小樽ビールに要請してください』
★『ロシアによるウクライナ近郊の悲劇と同等の「尼港」の惨劇が封印されている』
★『プーチンに重くのしかかる4月4日期限の債務「2500億円」◇「日本製」で日本再興の狼煙を挙げる』
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《 注目の論点 》
★明らかに低学歴な財務官僚たち――上念司
★脱炭素は新興宗教――杉山大志
★拉致犯人の「釈放嘆願書」に署名した菅直人――安倍晋三
★朝日のお家芸は「書かない嘘」――高山正之
★「CO2ゼロ」コストは国家予算に匹敵――杉山大志
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「とうとう私は、もうどうにも我慢しきれなくなったのです。そして、9月23日に、逃亡しようと決心したのです。私は自分の一番大きい肘かけ椅子にロープを結びつけました。それをつたわって下に降りようと思ったのです。私は一晩中そのことを考えながら起きていました。そして、つぎの朝には決行する準備が完了していました。私は浴室に行って、身体を洗いました。家を出ていくにあたって、身体をきれいにしておこうと思ったのです」
『世界で一番簡単な運命を変える本』
( ロバート・シュラー、知的生きかた文庫、p140 )
――フリーダ・シュルツという人物は、77歳という年で新しい人生への突入を試みた。
「そのときのことを考えると私はいまでもすこしふるえます」と、1962年に全世界の新聞をにぎやかしたその事件を思い出して、シュルツ夫人はこう語っている。
「しかし、それだけの価値がありました……私は彼らの政策には耐えられなかったのです」と、自分の激情をおさえきれないように、ふしくれだった指をふるわしながら、彼女はこういった。
1961年8月13日に、旧東ドイツがベルリンの壁を築いたとき、シュルツ夫人は、ベルリンのウェディング地区のベルナウエル通りのへりにあるアパートの1階で暮らしていた。その通りの歩道は西ベルリンにあったが、家は東ベルリンに属していた。
東ドイツの警官と軍隊が有刺鉄線を張りめぐらしはじめたとき、世界でもっとも悲しい通りとして知られているベルナウエル通りの東側に住んでいた何百人という人々が、わずかな所有物を窓から投げ出して逃亡した。
旧東ドイツ人たちは、それから1階の窓を煉瓦でふさいで、残っている住民たちを、逃亡したひとたちが引き払ったアパートの上の階に移動させた。
「彼らは、私も上階に移しました。新しい部屋に入っていったとき、私は手足がしびれたようになって座りこんでしまいました」と、シュルツ夫人は語る。「アパートには電燈がついていませんでしたが、外ではたくさんのサーチライトが光っていましたので、電燈は必要ありませんでした。それは恐ろしい光線でした」。
シュルツ夫人の眠りは、西ドイツへ逃げようとする者を狙った銃撃の音、消防自動車や救急車の警笛やサイレン、壁の向こう側の住民たちを元気づけようとする西ベルリン住民たちの激励の声、東ドイツの守備兵へのののしり声などでしばしば破られた。
彼女はいう。「とうとう私は、もうどうにも我慢しきれなくなったのです。そして、9月23日に、逃亡しようと決心したのです。私は自分の一番大きい肘かけ椅子にロープを結びつけました。それをつたわって下に降りようと思ったのです」。
白髪のきゃしゃな夫人はこう続ける。「私は一晩中そのことを考えながら起きていました。そして、つぎの朝には決行する準備が完了していました。私は浴室に行って、身体を洗いました。家を出ていくにあたって、身体をきれいにしておこうと思ったのです」。
そのあとで起こったことは、世界中に伝えられたニュース写真にとらえられた。シュルツ夫人は窓の下わくに登った。彼女は旧西ドイツの巡査によって発見され、消防隊が呼びよせられた。彼女の下15フィートのところに網がはられた。彼女はその腕に飼い猫をしっかりとかかえていた。
人々は、「おばあさん、はやくこちらに飛び下りなさい」とくりかえしくりかえし叫びはじめた。その物音が人民警察の連中に不審をいだかせた。しばらくして、これに気がついた二人の人民警察が窓のところにやってきた! 彼女を引きもどそうとする。
歩道にいる旧西ドイツの人たちは、彼女の窮状を知った。一人の青年が1階の窓わくに登ってきた。彼は手を上に伸ばし、シュルツ夫人の足をつかんで引き降ろそうとしたが、一方では人民警察の警官が彼女の一方の腕を引っぱっていた。もう一方の腕にはまだ猫が抱かれていた。
彼女は猫を網のなかに投げこみ、人民警察の警官の手をふりほどいて一気に飛び降りた! 幸いにも彼女は、お尻のところをほんの少し傷つけただけだった。
群集は喜びの声をあげて、シュルツ夫人の逃亡をほめそやした。
日本の歴史、伝統、文化を正しく次世代へつなぎたいと願っております。
その願いを実現するために有効と思われる記事を書きためてきました。
本ブログは19年に及ぶ私の記憶データを収納した貯蔵庫(ラヤ)です。
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ユングが唱えた「集合的無意識」を顕在化できるかもしれません。
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東京裁判史観の虚妄を粉砕し本当の日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
( 心が臨界質量を超えるとは → http://tinyurl.com/5kr6f )
( 東京裁判史観とは → https://tinyurl.com/ugz9qah )
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《 拡散希望 》
★『アドミラル東郷ビールに継いで「ジェネラル樋口季一郎ビール」の製造を小樽ビールに要請してください』
★『ロシアによるウクライナ近郊の悲劇と同等の「尼港」の惨劇が封印されている』
★『プーチンに重くのしかかる4月4日期限の債務「2500億円」◇「日本製」で日本再興の狼煙を挙げる』
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《 注目の論点 》
★明らかに低学歴な財務官僚たち――上念司
★脱炭素は新興宗教――杉山大志
★拉致犯人の「釈放嘆願書」に署名した菅直人――安倍晋三
★朝日のお家芸は「書かない嘘」――高山正之
★「CO2ゼロ」コストは国家予算に匹敵――杉山大志
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「とうとう私は、もうどうにも我慢しきれなくなったのです。そして、9月23日に、逃亡しようと決心したのです。私は自分の一番大きい肘かけ椅子にロープを結びつけました。それをつたわって下に降りようと思ったのです。私は一晩中そのことを考えながら起きていました。そして、つぎの朝には決行する準備が完了していました。私は浴室に行って、身体を洗いました。家を出ていくにあたって、身体をきれいにしておこうと思ったのです」
『世界で一番簡単な運命を変える本』
( ロバート・シュラー、知的生きかた文庫、p140 )
――フリーダ・シュルツという人物は、77歳という年で新しい人生への突入を試みた。
「そのときのことを考えると私はいまでもすこしふるえます」と、1962年に全世界の新聞をにぎやかしたその事件を思い出して、シュルツ夫人はこう語っている。
「しかし、それだけの価値がありました……私は彼らの政策には耐えられなかったのです」と、自分の激情をおさえきれないように、ふしくれだった指をふるわしながら、彼女はこういった。
1961年8月13日に、旧東ドイツがベルリンの壁を築いたとき、シュルツ夫人は、ベルリンのウェディング地区のベルナウエル通りのへりにあるアパートの1階で暮らしていた。その通りの歩道は西ベルリンにあったが、家は東ベルリンに属していた。
東ドイツの警官と軍隊が有刺鉄線を張りめぐらしはじめたとき、世界でもっとも悲しい通りとして知られているベルナウエル通りの東側に住んでいた何百人という人々が、わずかな所有物を窓から投げ出して逃亡した。
旧東ドイツ人たちは、それから1階の窓を煉瓦でふさいで、残っている住民たちを、逃亡したひとたちが引き払ったアパートの上の階に移動させた。
「彼らは、私も上階に移しました。新しい部屋に入っていったとき、私は手足がしびれたようになって座りこんでしまいました」と、シュルツ夫人は語る。「アパートには電燈がついていませんでしたが、外ではたくさんのサーチライトが光っていましたので、電燈は必要ありませんでした。それは恐ろしい光線でした」。
シュルツ夫人の眠りは、西ドイツへ逃げようとする者を狙った銃撃の音、消防自動車や救急車の警笛やサイレン、壁の向こう側の住民たちを元気づけようとする西ベルリン住民たちの激励の声、東ドイツの守備兵へのののしり声などでしばしば破られた。
彼女はいう。「とうとう私は、もうどうにも我慢しきれなくなったのです。そして、9月23日に、逃亡しようと決心したのです。私は自分の一番大きい肘かけ椅子にロープを結びつけました。それをつたわって下に降りようと思ったのです」。
白髪のきゃしゃな夫人はこう続ける。「私は一晩中そのことを考えながら起きていました。そして、つぎの朝には決行する準備が完了していました。私は浴室に行って、身体を洗いました。家を出ていくにあたって、身体をきれいにしておこうと思ったのです」。
そのあとで起こったことは、世界中に伝えられたニュース写真にとらえられた。シュルツ夫人は窓の下わくに登った。彼女は旧西ドイツの巡査によって発見され、消防隊が呼びよせられた。彼女の下15フィートのところに網がはられた。彼女はその腕に飼い猫をしっかりとかかえていた。
人々は、「おばあさん、はやくこちらに飛び下りなさい」とくりかえしくりかえし叫びはじめた。その物音が人民警察の連中に不審をいだかせた。しばらくして、これに気がついた二人の人民警察が窓のところにやってきた! 彼女を引きもどそうとする。
歩道にいる旧西ドイツの人たちは、彼女の窮状を知った。一人の青年が1階の窓わくに登ってきた。彼は手を上に伸ばし、シュルツ夫人の足をつかんで引き降ろそうとしたが、一方では人民警察の警官が彼女の一方の腕を引っぱっていた。もう一方の腕にはまだ猫が抱かれていた。
彼女は猫を網のなかに投げこみ、人民警察の警官の手をふりほどいて一気に飛び降りた! 幸いにも彼女は、お尻のところをほんの少し傷つけただけだった。
群集は喜びの声をあげて、シュルツ夫人の逃亡をほめそやした。