電脳筆写『 心超臨界 』

人生最大の目的は人の役に立つこと
それがだめでも少なくとも人を傷つけてはならない
( ダライ・ラマ )

般若心経 《 “よき人生は、日々の丹精にある”――松原泰道 》

2024-07-11 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


鈴木大拙(すずきたいせつ)博士は「盤珪のいう『不生』は、無意識そのものである」といわれます。ここでいう無意識は、意識を失っている状態の意味ではなく、雀の声を聞こうかとか、太鼓の音を聞きたいとかの〈自分の意識作業を起こさない〉いわば「無心・無我」のはたらきのことです。無心の生き方、死に方が盤珪の「不生禅」だと思われます。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p201 )
6章 不生不滅の教え――刻一刻、死に向かいつつある生(せい)を生き抜くために
(1) 来るべき「死」を見つめて
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん

◆“よき人生は、日々の丹精にある”

江戸中期の禅の高僧の盤珪(ばんけい)(1622―1693年)は、白隠より半世紀ほど先に生れましたが、盤珪の禅風を「不生禅(ふしょうぜん)」といいます。「不生」は、心経の不生不滅によることは明らかですが、彼は「不生」といえば不滅というもむだごと」と言い切ります。そして不生を、次のように人びとに説法するのです。

「さて、皆の衆がこちらを向いてござるうちに、うしろで雀の啼(な)く声を、鳥の声とも聞き違わず、鐘の声を太鼓のこゑとも聞き違わず、(中略)みなそれぞれの声を、ひとつも聞き違わず、明らかに通じわかれて聞きそこなわず聞知(ききし)るは、霊明(れいめい)(説明不要の明らかな事実)の徳用(とくよう)(はたらき)ともいうものでござるわいの。是(これ)がすなわち、仏心(ぶっしん)は不生にして霊明なものといいまする」
             (『盤珪禅師語録』岩波文庫・34ページ)

鈴木大拙(すずきたいせつ)博士は「盤珪のいう『不生』は、無意識そのものである」といわれます。ここでいう無意識は、意識を失っている状態の意味ではなく、雀の声を聞こうかとか、太鼓の音を聞きたいとかの〈自分の意識作業を起こさない〉いわば「無心・無我」のはたらきのことです。無心の生き方、死に方が盤珪の「不生禅」だと思われます。

いずれにしても、「不生不滅」を生きつつあることがそのまま死につつあること(逆もまた真なり)」と、腹の底から受けとめられたら、相馬御風(そうまぎょふう)(1950年没)の「大空を静かに白き雲はゆく 静かにわれも生くべくありけり」に、言葉では伝えられない不生不滅の消息が読み取れるのではないでしょうか。

私ごとですが、私も明治40年(1907年)の生れですから、いわゆる高齢者の一人です。数えて84年間生き続けて来たということは、死に向かって84年間生き続けて来たわけです。とくに復員のとき病んだ肺結核で、余命7年と告知されてからは、今日一日の自分を大切に育てることが、そのまま私の最後の死につながるのだと、観じました。今も私は“よき人生は日々の丹精にある”を自分の杖ことばにしています。(この言葉は、昭和54年9月に、隠岐島(おきのしま)西郷町に記念碑として建立されました)。

一日一日の私の生の丹精が、日一日と近づいて来る私の死を醸し出してくれるようです。私はこのように「不生不滅」を受けとめるのです。それは、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の「楠(くす)千年さらに今年の若葉なり」の句や、金子大栄(かねこだいえい)先生の「花びらは散っても花は散らない」の言葉が縁になって教えられたのです。

“年々歳々花相似(あいに)たり 歳々年々人同じからず”という、中国・唐時代のはじめの詩人・劉廷芝(りゅうていし)の有名な対句があります。『白頭を悲しむ翁(おう)に代わる』と題する詩の中に見えます。

詩の内容は、毎年毎年、花は同じようには咲くが、花を見る人の身は年ごとに老いていくという人生の移ろいを嘆くのです。しかし私がこの詩をここに紹介するのは、無常感の例証としてです。空相のガイドとして引用するのです。

もちろん、自然が私たちに不生不滅の道理を教えようとして、葉や花が散るのではありません。しかし自然のたたずまいから、自然と人生とをつらぬく深い真理(法)を観察して、人生を豊かにしようとの願いと修行が、「観自在菩薩」の名で表わされているのを学ぶべきです。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生きるための杖ことば 《 心... | トップ | セレンディピティの予感 《 ... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事