電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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大体、社長になれるのは、50歳をはるかに過ぎてからだが、その年齢で全力投球が毎日続いたら、三期6年もやったらヘトヘトになってしまうはずである。それを20年以上も平然とやっているのは、「社長のサボタージュ」以外の何ものでもない。したがって最も理想的な形でいえば、三期6年の間に後継者を養成しておいて、さっさと退くことである。
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p121 )
第4章 出処進退の人間学
◆トップ業「三期六年」の意味
第二の「頭取業を足かけ7年やりました」という台詞である。
相当に線がふとく、豪放磊落の男でも、社長になりたての一期2年間は死にものぐるいの努力を重ねる。文字通り、昼間はもちろん、夜寝ている時も経営のことを考えるのだ。
旭化成工業社長の宮崎輝がよくいう。
「ボクは副社長の時も、旭化成のことを真剣に考えつづけた。そして、考えながら、ベッドへもぐり込んだものだが、枕に頭をのせると同時に深い眠りに落ち込んだ。ところがどうだ。社長になって、同じように社のことを考えながらベッドへ入ると、ますます目が冴えてきて朝まで寝つかれない。社長と副社長との差はこれくらいあるぜ。しかし、これは社長になってみないと絶対にわからない」
副社長はいろいろ考えても、そのプランを社長に報告すればそれで終わりだ。社長はただ一人で決断しなければならない。孤独な厳しい作業である。
二期、3年―4年もこの緊張はつづくし、三期、5年―6年も、まあまあである。ところが、どんなに意志強固な社長でも四期、7年目になると、ぼつぼつ惰性(だせい)がでてくる。
大体、社長になれるのは、50歳をはるかに過ぎてからだが、その年齢で全力投球が毎日続いたら、三期6年もやったらヘトヘトになってしまうはずである。それを20年以上も平然とやっているのは、「社長のサボタージュ」以外の何ものでもない。したがって最も理想的な形でいえば、三期6年の間に後継者を養成しておいて、さっさと退くことである。せいぜい、妥協しても五期10年が限度であろう。社長に限らず、古今東西、いかなる名君、名宰相といえども、あまり長く、その職にあれば、必ず、マンネリ化し、飽きられるは歴史の常則である。
中山は、そこのところを「足かけ7年」で鮮やかに区切りをつけている。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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大体、社長になれるのは、50歳をはるかに過ぎてからだが、その年齢で全力投球が毎日続いたら、三期6年もやったらヘトヘトになってしまうはずである。それを20年以上も平然とやっているのは、「社長のサボタージュ」以外の何ものでもない。したがって最も理想的な形でいえば、三期6年の間に後継者を養成しておいて、さっさと退くことである。
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p121 )
第4章 出処進退の人間学
◆トップ業「三期六年」の意味
第二の「頭取業を足かけ7年やりました」という台詞である。
相当に線がふとく、豪放磊落の男でも、社長になりたての一期2年間は死にものぐるいの努力を重ねる。文字通り、昼間はもちろん、夜寝ている時も経営のことを考えるのだ。
旭化成工業社長の宮崎輝がよくいう。
「ボクは副社長の時も、旭化成のことを真剣に考えつづけた。そして、考えながら、ベッドへもぐり込んだものだが、枕に頭をのせると同時に深い眠りに落ち込んだ。ところがどうだ。社長になって、同じように社のことを考えながらベッドへ入ると、ますます目が冴えてきて朝まで寝つかれない。社長と副社長との差はこれくらいあるぜ。しかし、これは社長になってみないと絶対にわからない」
副社長はいろいろ考えても、そのプランを社長に報告すればそれで終わりだ。社長はただ一人で決断しなければならない。孤独な厳しい作業である。
二期、3年―4年もこの緊張はつづくし、三期、5年―6年も、まあまあである。ところが、どんなに意志強固な社長でも四期、7年目になると、ぼつぼつ惰性(だせい)がでてくる。
大体、社長になれるのは、50歳をはるかに過ぎてからだが、その年齢で全力投球が毎日続いたら、三期6年もやったらヘトヘトになってしまうはずである。それを20年以上も平然とやっているのは、「社長のサボタージュ」以外の何ものでもない。したがって最も理想的な形でいえば、三期6年の間に後継者を養成しておいて、さっさと退くことである。せいぜい、妥協しても五期10年が限度であろう。社長に限らず、古今東西、いかなる名君、名宰相といえども、あまり長く、その職にあれば、必ず、マンネリ化し、飽きられるは歴史の常則である。
中山は、そこのところを「足かけ7年」で鮮やかに区切りをつけている。