電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
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ジョッシュ・ビリングス

ゆがみに満ちた村山談話 継承は論外――古森義久さん

2015-07-02 | 04-歴史・文化・社会
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ゆがみに満ちた村山談話 継承は論外――古森義久・ワシントン駐在客員特派員
【「経度 緯度」産経新聞 H27(2015).06.27 】

安倍晋三首相の戦後70年談話をめぐる論議は村山富市もと首相の戦後50年談話の継承の度合いが主要な争点となってきた。だがこの村山談話自体に国際的な史観からみても、日本国民の一般認識からみても、ゆがみと呼べる欠陥があることがいままた検証されるべきである。

村山談話のゆがみとは簡単にいえば、日清、日露の両戦争をも事実上、「誤り」と断じ、「侵略」扱いして、「お詫び」の対象としている点である。具体的には以下の記述だ。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」

だから「心からのお詫びの気持を表明」するというのだ。

日本の「植民地支配」といえば、台湾と朝鮮である。欧米列強の植民地支配とは違う要素があったとしても、長期的かつ制度的な他領土の統治としての植民地という表現が適用できるのはまず台湾、朝鮮だろう。対米戦争の開始後の領土の占拠は植民地支配とはいえない。

その台湾の割譲、朝鮮の併合はそれぞれ日清戦争、日露戦争の主要な結果だといえる。だから村山談話は「国策を誤った戦争」の結果としての「植民地支配」と「侵略」を詫びることで日清、日露両戦争をも悪かったと断じているわけだ。

この点、村山氏自身、同談話発表時は「誤り」や「侵略」をどの時期からとするかについては「断定は適当ではない」と述べていたが、首相辞任後には「やはり日清、日露からずっとだ」と明言した。村山氏が委員長を務めた日本社会党が明治時代の日清戦争など日本の対外的な動きを「侵略」と決めつけていたのだから自然でもあろう。

だがこの見解はあくまでマルクス主義系の特殊な史観である。中国共産党や日本共産党の主張でもある。とくに中国では日清戦争を「日本が仕かけた中国侵略戦争」と呼び、「日本軍の残虐行為」を中高校の歴史教科書で膨大な分量、教えている。日露戦争も日本を悪の侵略国として描く点では同様である。

だが国際社会一般となると事情はまるで異なる。日本の侵略を糾弾した極東国際軍事裁判でさえ、日清、日露の両戦争は視野の外においていた。ましていまの世界の歴史観では村山談話的な「明治時代の日本侵略非難」は超少数派だといえよう。いまの日本国民一般の認識も明確だろう。

現在、慰安婦問題などで日本の歴史認識を批判する米国の歴史学者たちの間でも日清、日露両戦争をも「侵略」と断じる声はまずない。

米ウィスコンシン大学博士課程の日本歴史研究学者ジェーソン・モーガン氏は次のような見解を語った。

「日清、日露両戦争は日本の侵略などではなく、日露戦争はとくにロシアの朝鮮半島侵略を防ぐ防衛の戦いだった。日本側で両戦争を自国による対外侵略だとする声があれば、戦後の米軍占領時の『恥と罪の意識』教育の結果といえるマゾヒズム(被虐性)歴史認識の名残だろう。でなければ、それを利用した村山氏の例のような特定の政治主張だと思う」

これほどのゆがみに満ちた村山談話の継承は論外であり、日本の未来のため、清算してもおかしくはないだろう。

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