電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

ウィシフル・シンキング――浅田次郎さん

2018-08-14 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写の記事の中からこれはと思うものを メルマガ『心超臨界』
にて配信しています。是非一度お立ち寄りください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★歴史の是正を世界に宣揚せよ――小堀圭一郎・東京大学名誉教授
【「正論」産経新聞 H30.08.10 】https://tinyurl.com/y7648e4x

★日韓揺らす徴用工判決に準備を
 ――西岡力・モラロジー研究所教授/麗澤大学客員教授
【「正論」産経新聞 H30.08.08 】https://tinyurl.com/y8emyclt

★菅直人政権と瓜二つでは――櫻井よしこ
【「美しき勁(つよ)き国へ」産経新聞 H30.08.06 】https://tinyurl.com/ycdt7932
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

●ウィシフル・シンキング

『長く高い壁』https://tinyurl.com/y7hd4ndu
【 浅田次郎、KADOKAWA (2018/2/28)、p228 】

「マアマア、川津君――」

そう言いながら小柳先生は、煉瓦のアーチを潜りそこねてしこたま頭をぶつけた。

「アッ、大丈夫ですか、先生」

帽子ごと頭を抱えて、先生は蹲(うずくま)ってしまった。

ううん、ひとしきり唸(うな)ったあとで出血のないことを確かめ、先生は背中を壁に預けたまま呟いた。

「ウィシフル・シンキング」

「は?」

「希望的観測だよ、君の説は」

「ああ、Wishful thinking ですね」

「帝大出の文学士はさすがに発音がよろしい。つまり、苦力(クーリー)に化けた匪賊が食い物に毒を混入したとなれば、戦闘行動の結果とみなされて戦死扱いとなる。勤務中の出来事であるから、敢闘むなしく、などという報告も嘘にはあたるまい。僕も君も、小田島曹長も立派に任務を果たし、方面軍司令部は匪賊討伐部隊をさし向けるだろう。めでたし、めでたしだ」

「本当に大丈夫ですか」

「心配ない。ふだんでも原稿に行きづまったときは、書斎の壁や柱に頭突きをくれる。締切まぎわは、こんなものじゃないぞ」

「大変なお仕事なのですね。自信がなくなりました」

「ところで、君は希望的観測といううまい言葉の、初出を知っているとかね」

「そんなもの、知るはずないでしょう。明治時代の哲学者ですか」

小柳先生は靴音を響かせながら、南の石廊を歩んだ。

「クレメンス・メッケル少佐。かのモルトケ元帥の愛弟子(まなでし)で、明治時代に招聘されたドイツの参謀だね。陸軍大学校の教官を務めた彼は、日本の軍人をこう評価した。――彼らは総じて優秀であるが、一点だけ軍人として致命的な性格を共有する。規模の大小にかかわらず、まず理想の戦果を特定し、ひたすらそれに向かって作戦を立案する癖(へき)である。すなわち、敗北、撤退、混乱といって、戦場に充満せる負の要素をいっさい想定せず、希望的観測によってのみ戦争を遂行せんとするのである」

まったくの初耳であるが、もし小柳先生の創作でないとするなら、まさに正鵠(せいこく)を射ていると川津中尉は思った。

幸い過去の戦争は、希望的観測が的中して勝った。しかし、どうも昨今の戦況は、さほどうまく運んでいないように思える。「支那兵は弱い。蒋介石はすぐに降参する」という希望的観測に基づき、力攻めの作戦がくり返されているのではあるまいか。

「小田島曹長は、川津君の説をどう思うね」

柱と壁の間に見え隠れする先生の姿を目で追って、曹長は答えた。

「そうであってくれればよいと思います」

「なるほど。そうであってくれればよい、か。希望的観測を一言で言うと、そうなるね」

「しかし、憲兵はまず、そうした考え方をみずから戒めます。何ごとも疑(うたぐ)るところから始めねばなりません。因果な稼業であります」

川津中尉は浅慮を恥じた。たぶんメッケル少佐の批評は、軍人に向けられたものではなく、日本人すべてに対する感想なのだろう。

太古から民族と国家の戦争が絶えなかったヨーロッパ諸国に比べれば、単一民族であり、陸上の国境を持たなかった日本は、実に平和な国であったと言ってよかろう。何にも増して「和」を貴(たっと)んできたのである。そうした歴史が、「そうであってくれればよい」という希望的観測を、いわば共通の国民性として形成したのであろう。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 良き日本人をやめる――中西輝... | トップ | 八俣大蛇――竹田恒泰さん »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事