電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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1686年、「自然哲学の数学的原理」(通称プリンキピア)は完成し、王立協会に提出された。原稿を見たハレーが、「興奮のあまり死んでしまわなかったのはまさに幸運」と言ったほどの内容だった。これは翌年刊行された。仕掛け、気むずかしいニュートンをなだめすかし、面倒な校正の一切を引き受け、刊行費用まで受け持ったハレーの功績は実に大きい。
◆自然科学の歴史において、『プリンピキア』の出現ほど重大な事件は他にない
『心は孤独な数学者』
( 藤原正彦、新潮社 (2000/12)、p38 )
時折数学や光学に向かう他は、主に錬金術や聖書研究に没頭していたニュートンに、41歳の時、大転換が訪れた。ハレー彗星(すいせい)の発見者ハレーが、ケンブリッジにニュートンを訪れたのである。
ハレーはその数ヶ月前にロンドンのコーヒーハウスで、フックやレンと流行り始めたコーヒーを飲んでいた。イギリスで初めてのコーヒーハウスがオックスフォードにできたばかりの頃に、オックスフォード大学生だったフックやレンは、コーヒーが大好きだったのである。
コーヒーハウスには男性しか入れなかったが、それぞれに常連がいて、ある店は文人、ある店は法律家という具合だった。店には新聞や雑誌が常備され、情報収集の場でもあり、ここに情報を提供するためにジャーナリズムが生まれたのである。コーヒーハウスの増加は目ざましく、初めてできてから約50年後の1700年には、ロンドンだけで2千軒に達していたという。
レンは1666年のロンドン大火の後、復興計画の陣頭に立ち、セント・ポール寺院、ケンジントン宮殿、ハンプトンコート宮殿などを手がけていた。フックもモニュメント(大火記念館)などの設計に奔走していたが、二人とも少しは暇ができたため、科学に戻ったのである。
ここでまだ二十代のハレーがコーヒーを片手に言った。「太陽からの距離の2乗に反比例する力で、太陽に引っぱられる惑星は、必然的に楕円(だえん)軌道を描くだろうか」。レンが「証明した人には栄誉だけでなく商品もあげるよ」と付け加えると、フックが大風呂敷(おおぶろしき)を広げた。「証明はすんでいるが、いろいろな人が試みて失敗してから発表するよ。そうすれば一層高く評価してもらえるから」
ハレーは、この問題だけはニュートンの数学によってしか解決されないと思い、ケンブリッジを訪れたのである。
「引力が距離の2乗に反比例する時、惑星の軌道はどうなるでしょうか」
「楕円だ」
「何故でしょうか」
「前に計算したことがある」
「計算を見せていただけないでしょうか」
意気込んで言うハレーには答えず、ニュートンは所狭しと積まれた書類の山を探し始めた。しばらくあちこちをひっくり返したあと、
「新しく書いて送るよ」
と約束した。
負けず嫌いのニュートンは、これをあの不愉快なフックの挑戦と受け取った。ハレーの訪問は、5年前に母親を失ってから消沈気味だったニュートンを、自然科学に引き戻すための、英国科学界を代表する三人の共謀だったとも言えよう。ニュートンはまんまと乗せられたのである。
生活は急変した。数学、力学、天文学に、伝説的な激しさで打ち込み始めたのである。これからの2年間にわたる極度の精神集中は、若き日のウールズソープ村でのそれに匹敵するものであった。講義時間以外は、自室に閉じこもったまま、いかなるリクリエーションもとらず、研究にふけった。食事を忘れるのも毎度で、秘書がテーブルに置きっぱなしになっている食事を催促して、やっと一口か二口食べるという具合だった。この秘書は、5年間ほどニュートンに仕えたが、その間に彼は一度しか笑わなかったと言う。笑ったのは、ある知人がニュートンに「ユークリッドの幾何学を勉強して何の役に立つのですか」と尋ねた時だったと言う。
ハレーの質問に対しては、3ヶ月後に、手紙というより論文ほどの厚さのものを送る。質問に答えるだけでなくケプラーの第三法則まで証明してしまう。この頃になってニュートンは、自分のし始めたことの途轍(とてつ)もない可能性に目を見張った。力学と天文学を一つの体系にするという壮大な研究テーマに全精力を注入したのである。
1年半後の1686年、「自然哲学の数学的原理」(通称プリンキピア)は完成し、王立協会に提出された。原稿を見たハレーが、「興奮のあまり死んでしまわなかったのはまさに幸運」と言ったほどの内容だった。これは翌年刊行された。仕掛け、気むずかしいニュートンをなだめすかし、面倒な校正の一切を引き受け、刊行費用まで受け持ったハレーの功績は実に大きい。
自然科学の歴史において、『プリンピキア』の出現ほど重大な事件は他にない。アリストテレス、プトレマイオス、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、デカルトと、人類の築き上げてきた力学、物理学、天文学が一変したからである。
基礎工事は終わっていた。床材、壁材、屋根材も雑然とではあるが揃(そろ)っていた。青写真は20年前のウールズソープ村で描かれていた。地球半径を含む新しい天文データも整った。武器となる微積分にも習熟した。機はまさに熟していた。
「ニュートン出(い)でよ」、神風に守られたニュートンは、渾身(こんしん)の力で一気呵成(いっきかせい)に壮麗な宮殿を完成した。人々にとっては、1687年のある日突然、宇宙が変わってしまった。天と地が、数学により一体化したのである。
『プリンキピア』を手にした数学者ロピタルは、それが人間の手になるものとは信じられず、「ニュートンは食べたり飲んだり眠ったりするのか。普通の人間のような外観をしているのか」とニュートンを知る人に尋ねたそうである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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1686年、「自然哲学の数学的原理」(通称プリンキピア)は完成し、王立協会に提出された。原稿を見たハレーが、「興奮のあまり死んでしまわなかったのはまさに幸運」と言ったほどの内容だった。これは翌年刊行された。仕掛け、気むずかしいニュートンをなだめすかし、面倒な校正の一切を引き受け、刊行費用まで受け持ったハレーの功績は実に大きい。
◆自然科学の歴史において、『プリンピキア』の出現ほど重大な事件は他にない
『心は孤独な数学者』
( 藤原正彦、新潮社 (2000/12)、p38 )
時折数学や光学に向かう他は、主に錬金術や聖書研究に没頭していたニュートンに、41歳の時、大転換が訪れた。ハレー彗星(すいせい)の発見者ハレーが、ケンブリッジにニュートンを訪れたのである。
ハレーはその数ヶ月前にロンドンのコーヒーハウスで、フックやレンと流行り始めたコーヒーを飲んでいた。イギリスで初めてのコーヒーハウスがオックスフォードにできたばかりの頃に、オックスフォード大学生だったフックやレンは、コーヒーが大好きだったのである。
コーヒーハウスには男性しか入れなかったが、それぞれに常連がいて、ある店は文人、ある店は法律家という具合だった。店には新聞や雑誌が常備され、情報収集の場でもあり、ここに情報を提供するためにジャーナリズムが生まれたのである。コーヒーハウスの増加は目ざましく、初めてできてから約50年後の1700年には、ロンドンだけで2千軒に達していたという。
レンは1666年のロンドン大火の後、復興計画の陣頭に立ち、セント・ポール寺院、ケンジントン宮殿、ハンプトンコート宮殿などを手がけていた。フックもモニュメント(大火記念館)などの設計に奔走していたが、二人とも少しは暇ができたため、科学に戻ったのである。
ここでまだ二十代のハレーがコーヒーを片手に言った。「太陽からの距離の2乗に反比例する力で、太陽に引っぱられる惑星は、必然的に楕円(だえん)軌道を描くだろうか」。レンが「証明した人には栄誉だけでなく商品もあげるよ」と付け加えると、フックが大風呂敷(おおぶろしき)を広げた。「証明はすんでいるが、いろいろな人が試みて失敗してから発表するよ。そうすれば一層高く評価してもらえるから」
ハレーは、この問題だけはニュートンの数学によってしか解決されないと思い、ケンブリッジを訪れたのである。
「引力が距離の2乗に反比例する時、惑星の軌道はどうなるでしょうか」
「楕円だ」
「何故でしょうか」
「前に計算したことがある」
「計算を見せていただけないでしょうか」
意気込んで言うハレーには答えず、ニュートンは所狭しと積まれた書類の山を探し始めた。しばらくあちこちをひっくり返したあと、
「新しく書いて送るよ」
と約束した。
負けず嫌いのニュートンは、これをあの不愉快なフックの挑戦と受け取った。ハレーの訪問は、5年前に母親を失ってから消沈気味だったニュートンを、自然科学に引き戻すための、英国科学界を代表する三人の共謀だったとも言えよう。ニュートンはまんまと乗せられたのである。
生活は急変した。数学、力学、天文学に、伝説的な激しさで打ち込み始めたのである。これからの2年間にわたる極度の精神集中は、若き日のウールズソープ村でのそれに匹敵するものであった。講義時間以外は、自室に閉じこもったまま、いかなるリクリエーションもとらず、研究にふけった。食事を忘れるのも毎度で、秘書がテーブルに置きっぱなしになっている食事を催促して、やっと一口か二口食べるという具合だった。この秘書は、5年間ほどニュートンに仕えたが、その間に彼は一度しか笑わなかったと言う。笑ったのは、ある知人がニュートンに「ユークリッドの幾何学を勉強して何の役に立つのですか」と尋ねた時だったと言う。
ハレーの質問に対しては、3ヶ月後に、手紙というより論文ほどの厚さのものを送る。質問に答えるだけでなくケプラーの第三法則まで証明してしまう。この頃になってニュートンは、自分のし始めたことの途轍(とてつ)もない可能性に目を見張った。力学と天文学を一つの体系にするという壮大な研究テーマに全精力を注入したのである。
1年半後の1686年、「自然哲学の数学的原理」(通称プリンキピア)は完成し、王立協会に提出された。原稿を見たハレーが、「興奮のあまり死んでしまわなかったのはまさに幸運」と言ったほどの内容だった。これは翌年刊行された。仕掛け、気むずかしいニュートンをなだめすかし、面倒な校正の一切を引き受け、刊行費用まで受け持ったハレーの功績は実に大きい。
自然科学の歴史において、『プリンピキア』の出現ほど重大な事件は他にない。アリストテレス、プトレマイオス、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、デカルトと、人類の築き上げてきた力学、物理学、天文学が一変したからである。
基礎工事は終わっていた。床材、壁材、屋根材も雑然とではあるが揃(そろ)っていた。青写真は20年前のウールズソープ村で描かれていた。地球半径を含む新しい天文データも整った。武器となる微積分にも習熟した。機はまさに熟していた。
「ニュートン出(い)でよ」、神風に守られたニュートンは、渾身(こんしん)の力で一気呵成(いっきかせい)に壮麗な宮殿を完成した。人々にとっては、1687年のある日突然、宇宙が変わってしまった。天と地が、数学により一体化したのである。
『プリンキピア』を手にした数学者ロピタルは、それが人間の手になるものとは信じられず、「ニュートンは食べたり飲んだり眠ったりするのか。普通の人間のような外観をしているのか」とニュートンを知る人に尋ねたそうである。