植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

簡体三国志:劉表

2010年10月23日 19時01分09秒 | ゲームシステム
所属:君主
年齢:58歳(200年の時)

 やっと出てきた君主クラスです。前漢の景帝の第4子である魯恭王・劉余の子孫だそうで、孫堅に殺された王叡の後任として193年に荊州に刺史として赴きます。
 そこで荊州南郡の有力者 蔡瑁の姉と結婚します。この時、劉表には別の妻との間に劉をもうけていますが、妻は死別しているのか、正妻として迎えます(数年後、劉が生まれます)。これは、荊州を支配する為の足がかりで、これによって蔡瑁や同じ南郡の知識人である蒯良・蒯越を幕僚に加えて、小勢力が割拠する荊州の北半分を勢力下に組み込みます。
 もしかしたら、蒯越は望んで、劉表の配下に入っていることから、劉表と蔡氏との結婚をプロデュースしたのは蒯越の方かもしれません。

 その後、曹操が張繍の駐屯する穣県を攻囲します。劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かし、張繍とともに挟撃し、これを破りますが、敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかってダメージを受けます。

 200年になると、有名な官渡の戦いが行われ、劉表は袁紹に援軍を送るかの判断を迫られます。ここでは優柔不断の為、援軍を送らなかったと言われていますが、実は荊州南部で桓階の策謀により反乱が起き、この鎮圧に掛かっていたと言う実情もあります。官渡の戦いで、曹操が力を付けてしまいますが劉表は劉表でこの時期に完全に荊州全域を支配化に置くこと成功します。

 その後、曹操に追われた劉備を迎え入れ、劉備と共に博望で夏侯惇・于禁らの軍を退けますが、次第に領内で劉備の力が強くなって来きます。そんな中、207年曹操が荊州侵攻の為、軍を動かした直後と言う一番大事な時期に病死してしまいます。
 家督を継いだ劉はまだ12歳、曹操の侵攻を防げないと進言する家臣達の言うなりに降伏し、荊州劉表は幕を閉じます。

 劉表は政治能力に長け、周辺の地域が戦乱続きだったこともあり、安全な荊州には多くの人が逃れてきて、荊州は急速に発展します。また、学問を奨励したこともあり、宋忠や司馬徽などといった学者も育ちます。諸葛亮もそんな荊州で司馬徽の元で勉学しました。
 劉表はそんな荊州に集まった人々を登用しますが、曹操が能力があるものなら誰でも登用しようとしたのに対して、劉表は当時、能力が風貌に現れると言う古来の考えに基づき、風貌の優れたものや、地域の名士などを重く用いたため、劉表の元には仕官せずに後に曹操や劉備の共で仕官し、活躍するものも多く居ます。そんなところが後一歩で終わった原因だったのかもしれません。ちなみに、劉表自身も威風堂々とした体格だったそうです。

 政治能力4はちょっと高い気もしますが、特徴づけのためにそうしました。
コメント
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