ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

携帯中毒

2018-01-17 09:01:25 | 社会・経済

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ニュースを見ていたら、高速道路で路肩まで寄せきらずに左車線のさらに左寄り程度のところに停まってしまった軽自動車に後ろからきた普通自動車が追突し、軽自動車は横転、追突した車の人も軽傷という事故が流されました。
幸い、軽自動車の運転手である20代の男性も奇跡的に無傷だったということでした。
疑問が残るのはどうしてこの軽自動車がそんなところで停まってしまったか、です。
運転手に聞くと、
「エンジントラブルで動かなくなってしまった。それで、携帯でどうしてこんなことになったのか、どうしたらいいのかを調べていたら追突された。」
ということでした。



びっくりだわ~
エンジントラブルで動かなくなってしまってまずやることが携帯で検索?
まずは人気がなくなるのを確認してから車から脱出、安全地帯まで身を寄せてからJAFを呼ぶとか警察に連絡するとかが普通じゃないの?
これは20代だと皆さん、こういう発想になるんだろうか・・?
それともたまたまこの男性だけ?



そしてまた別のニュースで。
海外のニュースでどこの国だったか忘れましたが、飛行機が滑走路からはみ出て不時着した、というニュースです。
その不時着した場所が、崖・・・!
まっさかさまになった機体が少しでも重心がズレたら落ちそう・・・!
このときの機内では、乗客がパニックになっており、
「おい、どうなってるんだ!?」
「着陸したなら早くデッキをあけて降ろしてくれ!」
「どうして降りられないの!?」
と口々に乗務員に怒鳴っていました。
そんな彼らの映像をみると、またまた手に手に携帯。
こちらは色んな年代の方がたでした。



この場合は、前出の軽自動車のドライバーとは同じにしないほうがよさそうです。
もうダメか、死ぬかもと思った時には遺言代わりに携帯に家族へのメッセージを残したかったのかもしれませんし、全然機内で正しい情報を流してくれないから、こういうときはかえって外のほうが早く正しい情報を取り入れていてニュースですでに流れているのかも、と思ったのかもしれません。
そのほうが今、自分が置かれている状況を早く知ることができる、と思ったとか。



でも、でも、それをしても、です。
いつから人間はこんなにも携帯に頼るようになったのだろう、と思いました。
人に聞くよりもまず携帯。
どんな緊急時でもまず携帯。
情報得るならまず携帯。
そりゃ確かにすぐに調べられて、便利ですよ。
でもまるで“オールマイティな神”を手にしているかのような携帯への依存。
そう、もうこれは依存と呼んでも差し支えないのでは、と思ってしまうほどです。



私たちはいま、情報社会にあって、
「氾濫する情報に振り回されたくない」
と思っている方が多いと思います。
「横行する情報のなかには嘘やインチキまがいのものが多いから騙されないようにしたい」
とも思っています。
そう思っているのにもかかわらず、携帯は肌身離さない。
なにかというと、まずは携帯で調べてから。
それ以外のものではまず調べようとしない。
親に聞いてみるとか、近所のお年寄りなら知っているかもとか、図書館に行って権威はどう言っているのかを調べるとか、そういうことはまずしませんよね。
それで「振り回されたくない」とか「騙されたくない」と言っても、それはちょっと身勝手というものではないか、と思ってしまいます。



もう1つ別の話です。
この前、バラエティのような番組で、野球選手の数人がおいしいと評判の食堂でうどんを食べさせられる、というシーンがありました。
皆さん、20代の若者です。
で、その食堂ではプラスチックのお箸が供されました。
すると1人の選手がそれを見て、
「え~~~、割りばしないんですか?」
と言いました。
別の同僚の選手が、
「なんでや? きれいに洗ってあるものだし。」
と言いました。
すると割りばしないか、と聞いた選手、
「そういう問題じゃないし。」



じゃ、どういう問題なの?と突っ込みたかったです。
他人が1度でも使ったことがあるものは気持ちが悪い、という潔癖症なんでしょうか?
ならば常に「マイ箸」を持ち歩いてほしいわ。
この選手は自分で選んだ食堂が入ってみたら割りばしじゃなかったら、
「あ、すみません。」
と言ってその店を出るのでしょうか。
で、今回は番組が用意した店だったのでそういうこともできないから尋ねてみただけでそれの何が悪い?ということなのでしょうか。
お店の方も、番組だからということもありましょう。
通常お客さんにそう言われても、
「すみません。うちの提供はそのお箸になっております。」
と言うかもしれないところを、このときにはたまたま調理場で何膳かは置き箸が用意してあったようでそれを持ってきて、事なきをえました。



どうしてこの別の話を持ち出しか、というと私たちは文明が高度になるにしたがって、知らぬうちにあらゆることに“こだわり”が強くなっているように思えたからです。
最初の携帯の話にしても、よく言えば携帯の機能に対する信頼へのこだわりがあるからそういう態度になるのでしょう。
けれども、よく言えばその“こだわり”は、それに“囚われている”とも言えなくはない状況ではないか、と思いました。
“囚われている”、言い換えたら“中毒”と言ってもいいくらい。
アルコール中毒が「酒に飲まれる」という言い方をするのと同じように、どっちが主役なのかわからなくなってしまっている。
あくまでも自分が主役に決まっているのに、携帯で調べた情報がそこまで大切なら、もう携帯に踊らされている人生、といっても差し支えないような状況に陥っているような人もいらっしゃるのかもしれない、と思います。



私のように、あまりにも「機械オンチ」「機械に対する食わず嫌い」もいけませんが、依存しすぎると主役の座をのっとられかねないのだ、ということを念頭において上手に携帯とはつきあいたいものですね。


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