ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

こんなに迷う人って初めて見た・・・! 2

2018-01-16 09:02:37 | 身辺雑事
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昨日は、母が中古マンションを買うと言い出し、それにさんざ付き合わされた挙句、いざ気に入ったマンションが見つかったので契約という運びになった時に母が「契約の日を延ばすように言ってくれ」と言いだした、というところまででした。



そして延ばしてもらったある日。
母がまた電話をしてきました。(このところ毎日のようにああでもない、こうでもないと電話をしてきます)
「今日さ、三井のリハウスのチラシが入ってただろう?」
「そこに載ってる物件で良さそうなのがあるじゃないか。そこ、見たいからこの不動産屋に連絡とってくれ。」
と言うのです。
「はぁ~!?」
となりますわね。



「お母さん、もう契約日まで決めておいて、他のマンションをまだこれからも見たいってどういうこと?」
「どういうことって、後悔のないようにしたいからいろいろ見ておきたいと思って。」
「ということは、ここを見て、またここもいいなぁと迷うってこと?」
「そうかもしれないね。」
「ありえないじゃない。もう買う、って契約日まで決めてるのに!」
「だってその時にはそれでいいと思ったけど、こうやってまた他のマンションのチラシなんか出ると迷うじゃないか。」
そして母は、
「大きな買い物をするにあたって人があれこれ考えて迷うのは当たり前。後悔のないようにしたいのも当たり前。それの何が悪い」
とまで開き直ってきました。



そこで私は、
「その気持ちは当たり前で結構だけれど、だったら『買う』『契約する』って言っちゃいけなかったわ。この物件は気に入ったし、なんにも落ち度もないけれども、私はまだまだ色々と見て回りたいし、少し考えさせてくださいでとどめておかなくてはいけなかったんじゃないの。
契約というものをそんなに軽く、甘く考えてもらっては困る。」
と言いました。
そしてそもそもそのチラシに載っているマンションは別の不動産屋さんのチラシでも見かけたものでそのとき母は、
「5階かぁ・・。ここの周りは知ってるけれども古い家ばかりだからまた隣にでも大きなビルとか建ったら5階では日当たりが悪くなったり、景観が悪くなったりする恐れがあるから、見るまでもないね。」
と言ったものだったのです。
それに比べたら契約しようとしている部屋は10階以上の階数だったので、まぁ同様の大きなマンションでもすぐ隣に建たないかぎり景観がうしなわれるということはありえないよね、ということからやっぱりここがいいわ、ここ以上の物件はないわ、という話になったのです。
それも言いました。
「だから、そういう意味なら見るまでもないね、と言ったのはお母さんでしょう。
なのに一応自分の気持ちに踏ん切りをつけるためだけにやっぱり見たいとか、契約日まで決まっているのにそれを伏せて、ここも見るとか、もう不謹慎すぎるわ。もう付き合っていられない。どうしてもここも見たいなら勝手にお母さんがここに電話して1人で見てこればいいでしょう。
ほら、チラシにはこんなに大きく電話番号も書いてあるんだから、それくらいのこと、お母さんにだってできないわけはないでしょう。私はもう付き合わされるのはごめんだわ。」
と。
もうあまりにも腹が立ったので、一気にそうぶちまけてやりました。
すると急におとなしくなり、
「・・・わかった。もう見るのはやめにする。もう見たいとは言わない。」
と言いました。



それを聞いてもホッとするというよりは、なんか私の勢いに負けて言いくるめられてしまったけれど、後で冷静になってみたらやっぱり見たい、と言いだすのではないかという不信感のほうでいっぱいでした。
「アンタがあんまり怒って言うからあのときはそう言っちゃったけど」
みたいに“私のせい”にされたらたまったものではない、という気持ちのほうが強かったです。



そしてこれまで父が生きていたときには、何でも重要なことは父が先頭に立って決めて来たし、そういう意味では母の出番はなかった。
だから私も両親のその決断の蔭には母はどういう意見を父に言い、どういうプロセスがあったのだろう、ということを知らずにきました。
簡単に言えば、母がこんなにも迷ったり、エゴの塊のような発言をする人間だとは私は知らずにきたわけです。
父という盾がはずれて、それがあらわになってきました。
そして、私も冷静になったとき、母はどうしてこんなにも迷う人になったのだろう、と考えました。
迷って決断できないタイプにも色々とあると思います。
いつまでもぐずぐず迷ってちっとも決められないタイプ。
かと思えば母のようにいったん決めてしまってからああでもない、こうでもないと迷いだすタイプ。
後者のほうがタチが悪いと思うなぁ・・・



迷う、ということは自分の決断に自信がもてない、ということです。
どうして自分の決断にそんなに自信がもてないのか、と言ったら自信のもてる経験をしてきてないからだと思います。
母の場合、大勢の兄弟姉妹のなかの末っ子として育ったので、年の離れた姉や兄は母のことを妹というより、自分の子どものように扱ったことでしょう。
そんな環境のなかで育った母は、もちろん恩恵もいろいろと受けたことでしょうが、
「小さなおまえには決められることじゃないから」
のように、“決断の現場”を取り上げられてきたことも多かったのではないでしょうか。
いつも
「私たちに任せておけば大丈夫。あなたは黙ってなさい。」のように。
母自身、それを不満に思うというよりはそれをあまりにも当たり前のこととしてきたので決断そのものの経験が少ないということもありましょうし、いざ自分より年上の指南役が外れたとき、自分1人では決めていいのかどうか、自分の決断には自信がもてない、ということなのでしょう。
もっといえば、自分の決断に自信がもてないだけではなく、母は「自分」という人間そのものにも自信がもてる体験をしてこなかったのかもしれません。
そこまで考えたとき、可哀想だなと思いました。



これからもずっと母はああでもない、こうでもない、ああかもしれなかった、こういう手もあったと逡巡を続けるでしょう。
それは仮にこのマンションを買ったあとであっても続くと思います。
これまでにも何度か、決めてしまったことを
「もっとこうすればよかった」
と嘆く姿を見てきました。
そしてそんな様子を見るたびに、
「もう変えられないことを嘆くということをして何が楽しいのだろう。自分の過去の選択は間違っていたと今から見直しても余計にイヤな思いをするだけじゃないか。変わった人だなぁ。」
と思ってきました。
私はむしろ真逆なタイプだからです。
決めるのは早い。
そしていったん決めたことはまず後悔しない。
振り返らない。
それは親子でありながら、母は末っ子として育った、私は1人っ子、長女とも言える立場として育った、というポジショニングの真逆さもあると思います。
こうしてみると知らず知らずのうちに私は母を反面教師として生きてきたのかもしれません。



それでも、今までだったら、「母のこんな言動に腹が立った。キィ~~~ッツ!」で終わっていただけでしたが、今は
「母のこういう言動は母の幼い頃の体験にその源があるのでは」
と冷静に考えてみるようになっただけ進歩かなぁ。



これからもまだどうなるか最後までわかったものではありません。
まだ私は振り回され続けることでしょう。
だって母がそれを何にも悪いことだと思っていないから。


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