ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「ザ・プレイス ~運命の交差点~」を観て

2019-05-30 09:01:57 | 映画
  オルゴナイトセラピー モニター様募集!

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   レギュラーリリースにあたって  1セッション(60分予定)・・・・¥11000
          を、
                   1セッション(60分予定)・・・・¥ 3000
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      *あなたの将来は?
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   <お申込み・お問い合わせは>

         chakra@aura-soma.name 坪内恵津子まで


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「ザ・プレイス ~運命の交差点~」という映画を観てきました。
なんで観に行ったか、っていうと、なにかを観に行ったとき、この映画の予告編をやっていて面白そう、と思ったから。
だけど、けなすわけじゃないけど、予告編が1番面白かったわ。
「カフェを舞台に繰り広げられるワンシチュエーションドラマ」って言うと聞こえはいいけれど、観て思ったのは、
「なんちゅうお金かけてない映画だ!」
ってことでした。
ほんとにカフェのシーンしか出てこないんだから。
こりゃ役者さんの演技力だけに頼った映画だな、って感じ。
このカフェで起こっていることがすべて、すべては登場人物の頭のなかで起こっていること、というのを強調したかったのかもしれないけれど、やっぱり映画である限り、もう少し“映像”を重視しないとつまらないんじゃないか、と思ってしまいます。



一応、あらすじを紹介しておきます。
公式サイトより。
『前作『おとなの事情』(16)がイタリアの年間興行成績2位を記録し、一躍有名監督の仲間入りを果たしたパオロ・ジェノヴェーゼ監督最新作。カフェ「ザ・プレイス」に昼も夜も座っている男の元には、人生に迷ったものたちがひっきりなしに訪ねてくる。彼らが自らの願いや欲望を叶えるためには、男が告げる行為を行わなくてはならない。息子を癌の病から救うために見ず知らずの少女の殺害を命じられる修道女、アルツハイマーの夫を救うために爆弾を仕掛けることを命じられる老婦人etc・・・。9人の相談者それぞれに無理難題が与えられる。全ての願望には他人の運命という代償が必要だった。次第に交差してゆく相談者たちの運命、その先に待ち受けるものとは。』



言っちゃいますけど、男の正体は結局わからずじまいなんですよ。
ジェノヴェーゼ監督は、
「男の正体がわからないということは大した問題じゃない」
と語っているようですが、おいおい、大した問題だろ、と言いたい。
いったい彼は依頼者からお金を受け取っている様子はないのだけれど、どうして相談を受けているのか?
何で生計をたてているのか?
男が指示する解決策は男の考えではなく、ただ男もノートから指示されているだけなのか?
最後に男は
「俺の希望はもうこんな役はやめたい」
と疲れた様子で言います。
え? やめたいけれど自分の意志ではやめることができないある“組織”から派遣されている人間なの?
疑問は尽きませんでしたが、何も語られることはありません。



原作はアメリカの1時間ものの連作ドラマで、「欲望を喰う男」というタイトルだそうです。
う~ん、連作ドラマなら1話完結パターンで、1人ずつの依頼者の悩みがどう解決していくのか、ということがすべてで男の正体はいまだ明かされず、でもいいのかもしれませんが、映画ならやっぱりそこは語られないと決着しないっしょ、と思ってしまいます。



さて、まぁそんな映画に対しての評価はいいのですが、私が今日語りたいことは、
“人間って自分で勝手に悩みを解決しちゃうものなんだな”ってこと。
もうひとつ、突き詰めて言えば、
“人間って悩みの本質がわかればいいんだな。つまるところはそれを求めているんだな”
ってこと。
例えばある女性は
「整形手術がしたい。もっと美人になりたい。そのためのお金が欲しい」
と男の元を訪れます。
男は、
「お金を盗め」
と指示します。
だいたいこんな感じなんですよ。
男の解決法というか指示は、とんでもないものばかり。
もちろん、依頼者は苦悩します。
自分のこの大きな悩みの前には人ひとりぐらいの命はどうだっていいか、というほど追いつめられた人たちが来るのですから。(整形手術はそんなでもない、と思うけれど・・)
結局、その女性は強盗するために知り合った男とホンモノの恋に落ち、その男が、
「今のままでいいじゃないか」
と言うことにより、整形を断念します。
美人になるのは本当の恋をつかみたかったからであり、本当の恋を掴んだ今、もう美人になる必要はなくなったからです。



また別のある女性は、修道女なのですが
「最近なぜか神を感じられなくなった。もう1度神を感じたい。どうしたらいいか」
と相談にやってきました。
それに対する男の指示は、
「妊娠しろ」
でした。
「はぁ~!? 私は修道女なんですよ。そんなことができるわけがない」
と最初は突っぱねる女性ですが、男は、
「それがどうした? 神を感じたいんじゃなかったのか。何も男と恋に落ちろ、と言ってるわけじゃない。犯してもらって妊娠すればいいだけだ。そして子どもを産んだら、すぐに里子に出せばいい。そしておまえは修道院に戻る。それだけのことだ」
とにべもありません。



依頼者たちは多少でも事が進展したら男にすべてを報告するという義務があるので、女性は
「ある盲目の青年と知り合ったわ。彼なら私が見えないわけだし、どうやら私に好意を抱いているようだからできそうだわ」
と報告にやってきます。
実はこの盲目の青年は、彼は彼で男の元を訪れ、
「目が見えるようになりたい。そのためならなんでもする」
と言います。
男は、
「女を犯せ」
と言います。
だからある意味、この2人は任務の利害が一緒なんですね。
事は簡単、どちらも傷つくことなく目的を達成できる相棒なわけです。
けれど、青年は異常に真面目な性格でした。
相手も好意を持っている様子だというのに、なかなか彼女を犯すことができません。
彼は、
「犯した。やった」
と報告にきますが、男は
「それはウソだろう」
と言います。
青年は、彼女を大切にしたいからもう眼が見えなくてもいいんだ、と言います。
一方、修道女は、
「妊娠した」
と告げに来ます。
「神を感じられるようになったか?」
との男の問いかけに、
「えぇ。そして私は1人で子どもを育てていくわ。あの青年とは一緒にならない」
と言って立ち去ります。



結局、2人が結ばれるということはなさそうでしたが、彼らは2人とも自分の本当の望みに気付いたわけです。
青年は、目が見えることよりも真実の愛を知るという経験そのものが大切だった、ということ。
修道女は「神を感じられるようになりたい」と言ったけれど、むしろ「自分自身の人生が血の通ったものだと感じたい」ということだったのですね。



男は指示はしますが、強制はしません。
どうするかは依頼者に委ねられます。
そして彼らはみな、このように気付いていくわけです。
「話をうかがっていると、あなたの本当の望みはそこではなくて、こういうことなのではないの?」
と人から指摘されることを誰も望んでいません。
というか、それでは気付きにはならないでしょう。
やはり、自分で決め、自分で行動し、自分で選択した結果、
「私の望みはほんとうはこうだったんだ!」
と気付かないとその宝石は輝きださないのです。
これはまさにカウンセラー、セラピストの仕事ではないですか。
そこがとても興味深かったです。
実際、カフェのウェイトレスであるアンジェラが男の様子を見ていて
「あなたは何者? みんながあなたの元へやってきて真剣な顔つきで何かを話し、そしてすっきりした顔で帰っていく・・。当ててみましょうか? カウンセラー?」
と言うシーンがあります。
男は
「ノー」
とだけ言いますが、結果としては彼のやっていることはカウンセラーですね。



人は、自分自身の本当の気持ちに気付きたい。
自分自身の力で。
そして本当の気持ちに気付いたら、それがたとえ悲しい結末を迎えようとも、望みが叶わなくても満足する生き物なんですね。
それをしみじみと納得させてくれる映画ではありました。



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