ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「美味しんぼ」休載に思う

2014-05-24 09:08:00 | 本と雑誌

 

 

 

ビックコミックスピリッツに連載されている「美味しんぼ」が、主人公が福島を訪れた際鼻血を出し、それを前町長が「被ばくしたからですよ。」と発言した描写に端を発し世間を騒がせており、ついに休載されることになりましたね。

 

私はこの休載がとても残念です。

 

今調べてみたら、「美味しんぼ」は1983年から連載が始まったそうですので、なんと今年で31年目ですよ!

 

30年と言えば、ほぼサラリーマンが入社して勤め上げるに等しい年数じゃないですか。

 

作者にとってもこうなるともう一大ライフワークだったことでしょうねぇ。

 

これまでも長期取材による休載とかはあったようですが、こういう事情で休載になるなんてことは作者も思いもよらなかったことでしょうねぇ。

 

小学館では、「休載に関しては以前から決まっていたことで、今回のこととは関係ない。」と言っていますが、このタイミングでねぇ・・と思うとどこかから圧力がかかったのではないか、と勘繰ってしまいます。



私がこのことで残念に思ったのは、賛否両論渦巻くなかでついに政府までがこの作品についてコメントするような事態となり、それで出版社に圧力がかかったとあれば(無言の圧力なのか、有言の圧力なのか知りませんが)「言論の自由はどうなるんだ?」と思ったからです。

 

私でさえブログに書くことを、「誰か傷つく人がいるのかもしれない。イヤな思いをする人がいるのかもしれない。」とちょっと考え込んだくらいですからねぇ。



「そう思うなら、じゃあやめればいいじゃない。わざわざそんなことを口にしなくてもいいじゃない。」

 

という方もいます。

 

でも、そういうものじゃあ、ないんだなぁ。

 

表現する、ってことは「多くの人の心にざわざわとした波を引き起こすことかもしれないなら、やめるべき」「触れないでおくべき」ということでやめたりするようなものじゃない、と私は思っています。

 




私が今回一番自分の気持ちに近いなぁ、と思ったのはお笑いの松本人志さんです。

 

彼は、政治への抗議は当然としながらもこの件については、

 

「作品やから。みんなで作るもんじゃない。

 

作者のものであって、周りが抗議したって・・

 

外部の人間がストーリーを変えろとかいうのは、ちゃんちゃらおかしい。」

 

と疑問を呈しました。

 

「作品作りに関しては漫画家さんが神、映画に関してなら映画監督が神なんですよ。」

 

と作者の側に表現の自由があると主張しました。



これとは全く違う見地に立った意見だなぁ、と思ったのはテリー伊藤さん。

 

彼は、「作家の方が2年間取材したと言っているが、作中で実際に鼻血が出るのは主人公とそのお父さん。

 

漫画というフィクションの体を取りながら、もう一方ではこの作品の中で言っていることは全部本当のことです、というスタンス。

 

リアルなことを言いたいなら、架空の漫画の主人公を利用するなよ、と言いたい。

 

禁じ手を使ったなという感じがするんで、そこは納得いかない。」

 

と厳しく指摘しました。

 




私はこの人の言っていることがよくわからない。

 

フィクションとノンフィクションを自分の作品の中で体よく使い分けるな、ということを言いたいなら、作家ってたいていは作品内でその2つを融合させているんではないの?

 

そりゃあまったく現実離れしたフィクションだけで成り立っている作品だってあるけれど、多くは自分が現実で体験したことなど、あるいはそこから感じ取ったことをフィクションにして小説や漫画や映画やらにしているのではないの?

 

だったら私小説とかどうなっちゃうの?

 

フィクションとノンフィクションをないまぜにしていることが作家にとっての“禁じ手”なら、表現にとっての“遵守”ってなんだろう・・?

 

テリーさんは、

 

「漫画家さん自身がこの作品のなかに現れて、鼻血を出したと言うんだったらリスクを負ってるな、と思うけれど。」

 

と言ってらっしゃるけれど、え、そんなことだったら良かったんですか? って感じ。



そもそも“禁じ手”というのは「掟やぶり」とか「反則技」のことでしょう。

 

表現することについてどんな「掟」がそもそも存在しているのかも曖昧なままにそれは“禁じ手”と断罪するのはどうかな、と思います。

 

表現ってもっと自由なものじゃないのかなと思うので。

 




さて、ここまでは「作者の意に反してやむなく休載に追い込まれて残念だ。」ということを述べたわけですが、私がなんだかやりきれない思いになっているのは、現代のようにこれほどまでにネット社会になっていない時代だったら、休載にまで追い込まれていたのかな? どうかな? と思ったからです。

 

瞬時にいろんな情報を知ることができるのは良いことですが、あまりにもものすごい量の情報やら意見やらの渦に人間が呑み込まれてしまって、結局全員溺れてしまってまともな思考や判断ができる状況じゃないのに、相変わらずその渦の早さだけは加速を増してもう止まらなくなっちゃってるので、ちょいと強制的にその流れを止めるためにも休載ってことで・・・みたいなことになるのが現代の特徴なのかな、と思って。

 

だとしたらそれは悲しいな、と思って。



そんなときふとラジオから姜尚中さんの優しく穏やかな口調が聞こえてきました。

 

姜さんは、

 

「現代はあまりにも透明性が求められていてつらいですね。」

 

とおっしゃいました。

 

あ、ちなみにこれは「美味しんぼ」のことに言及して、ではありませんよ。

 

ま~ったく違う話題のなかでふっと出た言葉でした。

 

「僕らの子どもの頃は、たいてい子どもは原っぱに親には秘密の『秘密基地』を持っていた。」

 

と姜さんは続けていました。

 




それからも話は続いていったわけですが、なぜか私はこの、

 

「透明性があまりにも求められるとつらい。」

 

という言葉が耳に残りました。

 

それは、オーラソーマが究極的には「光の身体をめざしている道だ。」ということともひょっとしたら関連しているかもしれません。

 

目に見える身体以外にも見えないものがあるんだよ、ということでその領域を磨くことによって自らが光の存在になることを目指しているオーラソーマ。

 

そういう時代になったらステキだな、と思ってきたけれど、あまりにも透明だとつらくなっちゃうんだろうか・・(まぁ、姜さんが言っている「透明性」とはそうういう意味じゃありませんけれどね。)

 

でもなんとなく、「美味しんぼ」の問題のことにしても、あまりにも何もかも暴き立てようとする、相手には執拗に透明性を求める、というのはこの問題を考えるにあたってのヒントとなっているかもしれないなぁ、と思ったのでした。

 






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