映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

行きずりの街

2010年12月08日 | 邦画(10年)
 『行きずリの街』を丸の内TOEIで見てきました。

(1)この映画を制作した阪本順治監督については、佐藤浩市が出演した 『トカレフ』(1994年)以来注目してきたこともあって、見に出かけたわけです。

 物語は、丹波篠山で塾を開いている主人公の波多野(仲村トオル)が、東京に行ったきり行方不明になっている教え子の広瀬ゆかり(南沢奈央)を探し出そうと上京したところから始まります。
 その過程で、波多野は、12年前に別れた雅子(小西真奈美)に再会する一方で、教え子探しが深みに嵌り込んで、以前いたことのある学園で引き起こされた陰湿な事件にまで辿り着きます。



 再会した波多野と雅子の関係はどうなるのでしょうか、また学園の事件とはどんな内容であり、波多野は広瀬ゆかりを無事に探し出すことができるでしょうか、……。

 まさに、劇場用パンフレットの「Introduction」が言うように、「謎が謎を呼ぶミステリアスな世界観と大人の恋愛劇」とが合体したものといえるでしょう。
 加えて、このところ進境著しい仲村トオル(『接吻』など)が主演で、相手役に何かと話題の小西真奈美(『のんちゃんのり弁』)や、それに窪塚洋介(『パンドラの匣』)、石橋蓮司(『今度は愛妻家』)、江波杏子など、錚々たる配役陣であることは間違いないでしょう。



 そして映画自体、面白くないわけではありません。
 ですが、何か乗り切れなさも感じてしまいます。

(2)そこで、原作(志水辰夫氏による同タイトルの小説)に当たってみることといたしましょう。
 むろん、映画と原作とは無関係と割り切るべきであり、小説と映画とがいろいろな点で違っているからといって、その映画の出来栄えに問題があるということに直ちにはならないでしょう。
 ただ、映画の問題点を探る上で、一つの大きなよりどころにはなるものと思われます。

 さて、原作は、全体的にハードボイルド仕立てになっているように思われるところ(なにしろ、書名に“行きずりの”とあって、如何にも格好が良いのです)、英語タイトルが“Strangers in the City”とされる映画作品からは、そんな感じがほとんどしてこないのです。

・まず、こうした雰囲気の作品ではふんだんに登場するはずの拳銃が、映画には全く出てきません。
 原作の方では、ラストで、池辺理事(映画では、石橋蓮司が演じます)は座布団の下から拳銃を取り出します(新潮文庫版P.339)。
 ですが、映画の方でも格闘場面はあるものの、登場人物は手で殴ったり足で蹴ったりするだけで、武器といえば、黒板の上部に隠されていた木刀を波多野(仲村トオル)が振り回すぐらいです。

・ですから、原作の方では、その拳銃によって木村美紀(映画では佐藤江梨子が扮します)や中込(窪塚洋介)が死にますが、映画では、いうまでもなく拳銃によって死ぬ者はおりません。
 なお、映画の方でその死が確認されるのは、池辺理事と、広瀬ゆかり(南沢奈央)が身を寄せていた角田(うじきつよし)くらいです〔後者については、実際に殺される場面は描かれませんが〕。

・クマネズミは、こうした映画ならば、少なくとも雅子(小西真奈美)が、たとえば拳銃の流れ弾に当たって死ぬといった悲劇的な場面が最後の方で用意されているのではないかと思っていたところ、拳銃が使われないのですからそんなことは起きるはずもなく、あろうことか、ラストは、波多野と雅子と広瀬ゆかりが手を取り合って笑いながら現場を立ち去るという、至極ホームドラマ的シーンなのです(とはいえ、原作でも、この3人は生き残るのですが)!

・原作でも、主人公波多野の出身地は丹波篠山であり、現在もそこで塾の教師をしていることになっていますが(P.49)、あくまでも説明されるだけで、そこでの行動は一切描かれてはいません。小説で描き出される舞台は、元麻布の真新しいマンションとか、外苑西通り、六本木、といった東京でも流行の先端を行っている、ハードボイルドにはうってつけの場所ばかりです。
 他方、映画の方では、はっきりと明示はされていませんが、波多野が講師をしている田舎の塾の様子とか、波多野の住まい(土間の大きな農家仕立ての家です)まで描き出されます。

・原作では、波多野は2年おきぐらいに東京に出向いていることになっていますが(P.50)、映画では、雅子と別れてから12年間、一度も東京に来たことがないとされています。こんなに間隔が開いてしまったら、東京で大活躍しようにも、勘が鈍ってしまってとてもできない相談になってしまうでしょう!

・映画では、雅子の家でシャワーを浴びる波多野に、雅子が下着を用意したところ、波多野は雅子に対して、「これは彼氏用のものではないか」となじります。実際には、波多野がシャワーを使っている間に、雅子が近所のコンビニで購入してきたもの。ですが、そんな事情を雅子からわざわざ聞かずとも、下着が新品かどうかは、すぐにわかりそうなものなのにと思ってしまいます。
 これに対して、原作の方では、新品であることはすぐにわかりながらも、サイズがピッタリなことにこだわって、雅子の現在の彼氏の存在に波多野が思わず嫉妬しまったことを暴露してしまうのです(P.281)。これならば、なじったことの心理的な意味合いが、読者にすんなりとはいってくるでしょう。

(3)このように、映画の方では、ハードボイルド的なところをあまり見かけることはできませんが、逆に、原作の入り組んだストーリーを刈り込んでスッキリとさせ、その上で波多野と雅子の再会と和解(要すれば、ラブストーリーの方に)に比重を置いて描いているように思われます。
 たとえば、原作では、池辺理事たちが殺したのは、映画のように前理事長ではなく、その妻ということになっています。原作では、池辺理事たちが、前理事長を追い出すべく、彼と雅子の母親との不倫関係をネタに脅しをかけたところ、自ら命を絶ってしまったとされます。
 残るは前理事長の妻ということで、池辺一味は、彼女を軽井沢の別荘にあるプールに沈めて殺してしまいます。
 広瀬ゆかりが身を寄せていた角田にも、もっと別の役割も与えられています。

 ですが、そんなことは全て切り捨てて、映画は、波多野と雅子が、よりを戻しベットをともにするシーンを生々しく描くことの方に向かいます。
 それはそれで一つの選択であり、小西真奈美もよく監督の意図に応えている(無論、かなり限界はあるものの)と思われます。

 この映画は、波多野(仲村トオル)を中心とする男のハードボイルドな世界から、むしろ雅子(小西真奈美)を中心とする女の世界に軸足を移していると考えられ、そういう観点からすればそこそこよくできた作品ではないかと思います。

(4)渡まち子氏は、「ミステリーとラブストーリーが絡み合いながら展開するドラマだが、残念ながら両方とも中途半端になってしまっている。何より作品全体が湿っぽくていけない」、「終盤、廃校舎でのバトルも、バタバタとご都合主義のように終結してしまう。さらに、事件の鍵を握る、建設会社の若くて冷めた部長を演じる窪塚洋介は、何か得体のしれない存在感を漂わせて面白いキャラだっただけに、もっと物語に活かしてほしかった気も。ストーリーそのものには魅力は感じないが、特別なヒーローではなく、ごく平凡な人間の譲れない意地を描いたところが見所か」として40点しか付けていません。



★★★☆☆




象のロケット:行きずりの街