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小野竹喬展

2010年04月10日 | 美術(10年)
 竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「生誕120年 小野竹喬展」が、明日の11日で終了してしまうというので、これも慌てて見に行ってきました〔上記の絵は「奥入瀬の渓流」(1951年)〕。
 尤も、格別、小野竹喬(1889年-1979年)のファンというわけでもなく、初めはあまり行く気はなかったところ、最近になって、どうやら芭蕉の俳句をヒントに制作した絵があり、今回の展覧会ではその全部が特別に展示されているようだ、と聞いたものですから、それだけでも見てみようと行ってきました。

 そんなわけで、元々それほど多いとは思えない入場者も会期終了間際になれば一段と少なくなっているだろうと高を括って、平日の昼休みの時間を利用してチョコッと見てこようとしました。
 ですが、会場に入ってみて驚きました。どの絵の前にもたくさんの人だかりがしているではありませんか!それも、中年過ぎの女性がほとんどなのです。ハテサテ小野竹喬にそんなに人気があったとは知りませんでした。
 とはいえ、「生誕120年」を記念する回顧展のため、展示されている作品数も多く(本制作119点、スケッチ52点)、次第に人だかりもバラけてきます。一度にこんなにたくさんの絵を見て、うまく消化できるのかしらと疑問にもなりました。

 さて、お目当ての絵ですが、それらが展示されている部屋は、会場の一番最後に位置していますので、そこではまたまた絵の前の人だかりがすごいことになっていました。
 絵は全部で10点あり、すべて芭蕉の『奥の細道』に記載されている俳句をもとにして描かれています。「奥の細道句抄絵」という総題のもと、それぞれの絵のタイトルは芭蕉の俳句がそのまま採られています(京都国立近代美術館所蔵)。

 展覧会カタログに記載されている解説には、当初、「竹喬がこの作品で試みたのは、芭蕉の 『おくのほそ道』を絵画化することであった。それも、芭蕉の句を抜き出し、その句意を画面に表すことを目指した」と述べられています。
 昭和49年(85歳)に、竹喬は、現地の写真を撮ってくるよう娘婿に依頼し、出来上がった写真を参考に構想を固めたうえで、翌年東北地方に自ら取材旅行に出かけています。
 ですが、実際の景色を見ると新しい発見がいろいろ出てきて、当初の構想を変えざるを得なくなりました。カタログの解説によれば、そこには「芭蕉の心を描く制作から竹喬の心を描く制作への変容」が見られるとのこと。
 とはいえ、そのことで芭蕉の俳句がなおざりにされたわけではなく、カタログの解説氏が言うように、「句抄絵が10点揃った時のきらめくような多彩さは、まぎれもなく芭蕉句が導いたもの」であることは間違いないところでしょう。

 ここでは、10点の句抄絵のうち2点を紹介いたしましょう。
 まず、順不同ですが、「暑き日を 海にいれたり 最上川」です。



 この句については、長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書、2007.6)によれば、芭蕉の初案は、「涼しさや 海に入れたる 最上川」でした。それならば、単に「ここ酒田で海に流れ入る最上川を眺めていると、何とも涼しい感じがする」といった酷く当たり前の句にすぎません。
 ですが、「涼しさや」→「暑き日を」、「海に入たる」→「海に入たり」と芭蕉によって推敲されることによって、驚くべきことに、「最上川が暑き日を海に入れた」という内容の句に変換され、「ただの風景の句が宇宙的な句に生まれ変わった」、と述べられています(P.174~P.176)。

 竹喬の絵は、芭蕉の句の常識的な解釈「暑き太陽が海に落ちていく」に従っていると思われますが、しかし太陽を取り巻く幾重もの色彩の輪とか、ただならぬ海の色、絵全体の構図などを見ていますと、太陽と空と海、山、川が一つに熔解してしまっていて、長谷川氏による芭蕉の句の解釈にかぎりなく接近しているのではないか、と思わざるをえなくなります。


 次に、「田一枚 植えて立去る 柳かな」です。



 この句の解釈については、古来たくさんの説が唱えられています。要すれば、「植える」のは誰か、「立ち去る」のは誰なのか、ということを巡って、様々なことが言いたてられているのです(注)。
 上記の長谷川氏は、その著書において、芭蕉は、『奥の細道』の「蘆野」の「地の文で西行の歌を借りて自分の姿を描いている。この印象を抱いたまま、読者は田一枚の句を読む。すると、「田一枚植えて立去る」のはまず西行であり、芭蕉でもある。芭蕉はそのつもりでこの地の文を書き、田一枚の句をおいた」と述べています(P.103)。


 竹喬の絵は、これも旧来からの解釈「早乙女が田植えをして去って行った」によっていると推測されるものの、奥の方の苗も手前の苗もほぼ同じ大きさで描かれていたり、上方の田圃の境目が単なる横線にしか見えなかったり、右側の柳と田圃の取り合わせに歪みがあったりすることなどから、写実というよりかなりファンタジックな印象を受けてしまい、そうなると、たとえば「柳の精」とか西行や芭蕉がここに出てきたとしても、特段のおかしさはないようにも思われます。

 竹喬は、最晩年に至り、芭蕉の心境に到達したと言うべきなのでしょうか?


(注)『「奥の細道」新解説』(小澤克己著、東洋出版、2007.3)では、7つもの解釈が掲載されています(P.62~P.65)。小澤氏によれば、長谷川氏の解釈は「西行・芭蕉一体説」ということになります。また、謡曲「遊行柳」の「柳の精」が田植えをし立ち去ったとする説もあるようです。


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1 コメント

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はじめまして、こんばんは。 (chariot)
2010-04-12 21:22:45
先日は、TB有難うございます。
小野竹喬の「奥の細道句抄絵」は、画家が芭蕉の俳句をどう受け取ったか良く分かり、1点1点興味深く観ました。
「暑き日を」の絵は、構図も色彩も大胆で、とりわけ魅力がありました。
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