(キリング・フィールドからの骸骨 “flickr”より By Sandvand
http://www.flickr.com/photos/sandvand/505084828/)
1975年4月17日、カンボジアではロン・ノル政府軍が降伏、首都プノンペンにポル・ポト率いるクメール・ルージュの兵士が入城してきました。
中国毛沢東思想、文化大革命の影響を受け、ベトナム敵視・カンボジア民族主義に先鋭化した狂信的共産主義勢力である彼らの実態はまだよく知られておらず、プノンペン市民は“解放者”として彼らを歓呼の声で迎えました。
そして、まさにその日のうちに、全市民の農村への強制移動という狂気が市民に襲い掛かり、カンボジア全土は大量虐殺へとのみ込まれていきます。
****プノンペン陥落から33年、カンボジア各地で集会****
カンボジアで共産主義勢力ポル・ポト派(クメール・ルージュ)が実権を掌握した「プノンペン陥落」から33年目にあたる17日、同政権による各地の集団虐殺・埋葬地「キリング・フィールド」で、犠牲者の追悼集会が行われた。虐殺を生き抜いた人々は、当時の政権幹部を裁くカンボジア特別法廷の迅速な公判を要求した。
首都プノンペン郊外の村チュンエクにあるキリング・フィールドでは約700人が集い、展示されている犠牲者の頭がい骨を前に僧侶70人が祈りを捧げた。このチュンエクでは1975-79年のポル・ポト派時代、数千人が虐殺された。同政権に殺害された国民の数は計200万人といわれている。
集会で野党党首のサム・レンシー氏は、「国連と国際社会にクメール・ルージュの審理を急ぐよう訴えたい。さもなくば、クメール・ルージュの幹部たちは何の裁きも受けないまま亡くなってしまう」と語った。
国連の潘基文事務総長は14日、国連が協力するカンボジア特別法廷に対し、長年放置されてきたクメール・ルージュによる罪の裁きを果たすよう求めた。【4月17日 AFP】
******************************
プノンペンには今年正月、観光で何日か滞在しましたが、そのとき訪れたキリング・フィールドとトゥール・スレン(“反革命分子”収容施設)の旅行記は下記にアップしてあります。
①狂気の記憶(前編)・・・トゥール・スレン
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10209621/
②狂気の記憶(後編)・・・キリング・フィールド
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10209803/
カンボジアではクメール・ルージュの犯罪を裁く特別法廷が進められています。
これまでもカンボジア特別法廷については、昨年の8月1日(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070801)、
11月14日(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20071114)の当ブログでも触れてきました。
すでにポル・ポトやタ・モクなど“首謀者”が他界し、この虐殺の風化が進んでいますが、フン・セン首相自身がかつてはクメール・ルージュの一員だったことなどもあると推測されますが、“旧悪”を暴くことに現政権はそれほど積極的とも思われません。
確かに、クメール・ルージュは壊滅した訳ではなく、“投降”後、タイとの国境が近いバイリン地区にその勢力を温存したまま、自治を与えられる形で今も残存していますので、政治的には微妙な問題ではあるのでしょう。
バイリンから更に奥地へ入ったところには、かつてのクメール・ルージュの指導者が居宅を構え、常時クメール・ツージュの兵士が警護していると言われています。
彼らは、木材の伐採、ルビーの採掘の権益を握っており、カジノ経営や密貿易に手を染め、その経済力は潤沢です。
バイリン周辺の道路は彼らの資金で舗装され、ガソリンもプノンペンよりも安いとか。
(「メコン発 アジアの新時代」 薄木秀夫著)
こうしたなかで、市民団体・人権活動家の特別法廷に対する取組みも行われています。
****クメール・ルージュ裁判での被害者の参加を求める****
3年半のクメール・ルージュ統治時代に起きた真実を記録し、人々に伝えている調査研究機関『カンボジア・ドキュメンテーション・センター』は、特別法廷の公開と被害者が法廷に参加できる権利を求めて様々な活動を行っている。
なかでも、国連宛に送られるはずだった100万人を超える被害者が署名あるいは指紋押印した請願書(『Renaksa Petitions』に注目。これに署名した人々の追跡、証言内容の確認、彼らの法廷への参加を促すことを目的とした『被害者参加プロジェクト』を立ち上げた。
このように、多くの市民社会組織の活動は(徐々にではあるが)確実に同裁判に影響をもたらしている。特別法廷は先週、市民(被害者)が参加することの意義を認めた。これにより、弁護士を含む市民団体は当時の政権ナンバー2、ヌオン・チア元人民代表議会議員の公判前の公聴会に参加することができた。
一方、『被害者担当部局(Victims Unit)』のGabriela Gonzales Rivas氏は、訴訟への『中途半端な』参加はかえって良くないと話す。「審理では、市民もすべての参加者と同等の権利を得ることが必要だ。例えば、弁護士を通じて質問し、すべての審理記録を閲覧できるなど、訴訟の全段階に参加できるようにしなければならない」。【4月2日 IPS】
*****************************
自分自身が狂気の渦に巻き込まれ、殆どの国民が身内に犠牲者を抱えるこの問題は、国民ひとりひとりにとっても重いものがあります。
もちろん、それだけに“もう、あまり触れたくない”という反応もあるかと思います。
この特別法廷に訴追されているクメール・ルージュ幹部のほかに、もう1人“あの時代”の鍵を握る人物がいます。
シアヌーク元国王です。
シアヌーク元国王はクメール・ルージュが政権を樹立した1975年、国民に対してクメール・ルージュに加わるよう積極的に呼びかけました。
76年から79年まではクメール・ルージュによって幽閉されていましたが、79年にベトナム軍侵攻によってポルポト政権が倒れると、クメール・ルージュとともに森の中へと敗走し協力関係を継続し、ポル・ポト派を支える重要な国際的顔の役割を果たしていました。
小国カンボジアの独自性を保とうとしたシアヌーク元国王の政治的舵取りについては高く評価する意見もあります。
彼自身がクメール・ルージュに利用され、協力を強要されていたこともあります。
なにより、カンボジア国民の尊敬を集め、親しまれている人物でもあります。
ただ、“あの時代”を解明するうえでは避けて通れない人物でもあり、アメリカNGOからは特別法廷での証言を求める意見もあります。
シアヌーク元国王は、昨年8月30日、特別法廷に関連する国連の職員を王宮に招き「クメール・ルージュとシアヌークに関する事柄」について話し合いたいとの要望を自らのウェブサイトに掲載しました。
この国連職員への呼びかけの中で、「この会合が終われば、私はもう国連の特別法廷に出席する必要がない」と述べ、また、もし国連関係者がこの呼びかけに応じなかったら、「特別法廷を見たり、そこで証言したり、あるいは特別法廷と連絡を取り合ったりすることはないだろう」とも書いています。
しかし結局、国連関係者は王宮を訪れなかったそうです。【07年9月19日 IPS】
日本においても昭和天皇の戦争責任論が“アンタッチャブル”であるように、カンボジアにも同様な雰囲気がるのかな・・・とも推察されます。
カンボジア内戦でポル・ポト派の虐殺を生き延び、映画「キリング・フィールド」のモデルとなったディス・プラン氏が先月30日、アメリカ・ニュージャージー州の病院で、すい臓がんのため死去しました。65歳でした。
プラン氏は米ニューヨークタイムズ紙のシャンバーグ記者の助手に採用され、カンボジア内戦・プノンペン陥落を取材。
一時はポト派にとらえられ死刑宣告を受けましたが、釈放され記者とともに仏大使館に避難。
その後、大使館内の外国人に国外退去命令が出た時、カンボジア人のプラン氏だけは出国を認められず、カンボジアの辺境にある強制労働収容所に送られました。
飢えと拷問の4年間を生き延び、79年にタイへ脱出してシャンバーグ記者と再会を果たしました。
3月14日、首都プノンペンで、カンボジア初の高層ビル「Gold Tower 42」の建設が起工しました。
地上42階建てで、完成すれば低い建物の多い首都を見下ろすランドマークの誕生となるとか。
時代は好むと好まざるとにかかわらず変化していきます。
残すべきもの、封じておきたいもの・・・いろんなものや思いを包み込んで。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます