孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

中国  薄熙来失脚事件で、天安門事件以来のタブーに挑戦した温家宝首相

2012-04-28 22:17:14 | 中国

(文化大革命の頃、修道女を批判する紅衛兵 1966年から10年間にわたり中国全土で吹き荒れた文化大革命の嵐は、毛沢東による権力闘争でもありました。“flickr”より By China in "1984" http://www.flickr.com/photos/china_in_1984/1025472638/in/photostream
“政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動という名目で開始されたものの、実質的には大躍進政策の失政によって政権中枢から失脚していた毛沢東らが、中国共産党指導部内の実権派による修正主義の伸長に対して、自身の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)として展開された。党の権力者や知識人だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出したほか、1億人近くが何らかの被害を被り、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたすこととなった。
犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でもおよそ数百万人から1000万人以上と諸説ある”【ウィキペディア】

この時代の教育の崩壊、モラルの喪失は、今なお中国社会に大きな影を残しているように見えます。)

女性元富豪死刑差し止めは、胡錦濤グループと習近平次期主席の権力闘争?】
重慶市共産党トップ薄煕来(はく・きらい)の解任劇と、その後の妻・谷開来(こく・かいらい)の英国人ビジネスマン殺害疑惑は、胡主席率いる中国共産主義青年団(共青団)グループと元高級幹部子弟の太子党グループの有力者の間の権力闘争の側面で語られることが多くあります。

薄熙来の「軍事クーデター説」とか、盗聴疑惑などもあって、週刊誌ネタ的に大変面白いものがありますが、胡錦濤国家主席、習近平次期主席、江沢民元主席という権力中心人物が殆んど語らず、真相はよくわかりません。

先日、女性元富豪・呉英被告(30)に対する集金詐欺罪での死刑判決を最高裁が差し戻した異例の措置が報じられています。
この問題は、中国の民間金融の在り方という経済問題、あるいは世界で一番死刑が実行されている中国の司法制度に関する社会・人権問題と見ていたのですが、これも薄熙来失脚事件同様に、党中央における胡主席率いるグループと習近平次期主席の権力闘争絡みの問題であるとの指摘があります。

****女性実業家の死刑差し戻し 胡錦濤派が習氏らの「口封じ計画」阻止****
詐欺罪などで死刑判決が確定していた中国南東部の浙江省の女性実業家、呉英被告(30)に対し、最高人民法院(最高裁)が、刑執行直前に審理を高裁に差し戻すとの決定をしたことは、呉被告に同情的だった世論の勝利と受け止められている。しかし、権力闘争に詳しい共産党筋は「背景には胡錦濤(国家主席)派と習近平(副主席)派の激烈な権力闘争があり、呉被告の存在は今後の中国政局に大きく影響する」と指摘している。
                   ◇
貧しい農家に生まれた呉被告は、10代から始めた美容室の経営をもとに事業を拡大。衣服、住宅を販売する会社を次々に興し、24歳にして「中国富豪ランク」の100位以内に入り、女性経営者の成功例としてメディアに大きく取り上げられた。一方、資金繰りのため高い配当を宣伝文句に投資家らから約8億元(約100億円)の資金を集めるなど、経営手法が疑問視されたこともある。

資金が焦げ付き経営が破綻した2007年3月に呉被告は逮捕され、浙江省の地裁、高裁で死刑判決を受けた。
呉被告の事業が急拡大していた時期に浙江省のトップを務めていたのが習近平国家副主席だった。共産党筋によれば、当時、多くの習氏腹心の浙江省高官が呉被告と親密な関係にあり、呉被告から多額の賄賂を受け取っていた。その腹心らは今秋の党大会以降に中央入りして、習近平政権を支える中心的存在になるとみられており、秘密を知る呉被告の口を封じるため、死刑判決を下すよう浙江省の裁判所に圧力をかけていたという。

中国は2審制だが、死刑の場合のみ執行する前に最高裁の「承認」が必要だ。呉被告の死刑判決を受け、多くの知識人や弁護士らが「重すぎる」として最高裁に嘆願書を提出するなど、同被告の裁判は中国で高い関心を集めていた。
今月20日に発表された最高裁の決定では「呉被告が多くの公務員への賄賂を自供した」ことなどを理由に「即座に死刑を執行することはできない」と高裁に差し戻す判断を示した。これによって、呉被告は最終的に無期懲役以下に減刑される可能性が高くなった。

最高裁が高裁の死刑判決を差し戻したのは異例。共産党筋は、胡主席率いるグループが最高裁の決定を主導したと解説する。習副主席が所属する元高級幹部子弟の太子党グループの有力者、薄煕来・元重慶市党委書記を失脚させた胡グループは最近、勢力を拡大しており、今回は世論に便乗する形で、習派の「口封じ」の動きを阻止したという。

共産党筋は「呉被告は習派を牽制(けんせい)する有力なカード。習派は浙江省からの幹部抜擢(ばってき)が難しくなり、政権がスタートする前に早くも弱体化した」と指摘した。【4月28日 産経】
**********************

“口を封じるため、死刑判決を下すよう浙江省の裁判所に圧力”というのも真実なら凄い話ですし、呉被告を生かしておけば権力闘争の強力なカードとなりえます。
ただ、こちらも真相はよくわかりません。

毛沢東主義に戻るか、民主的な未来を求めるか
中国共産党内部の対立については、上記のような胡主席率いる共青団グループと薄煕来、あるいは習近平との間の権力闘争という側面の他に、温家宝首相の主張する改革推進路線と薄煕来がリーダーであった国家統制重視のニューレフトの間の路線対立という側面があります。

温家宝首相は、薄煕来の路線を「文化大革命のごとき歴史的悲劇」の再現として厳しく糾弾しています。
この問題は3月23日ブログ「中国 文革をも想起させる薄熙来氏の解任をリードした、改革路線・温家宝首相の最後の執念」(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20120323)でも取り上げました。

単なる権力闘争であれば「誰が権力を握っても大差ない」とも言えますが、政治改革を含む路線問題、文化大革命の評価にもかかわる問題となると、今後の中国の路線、政治システムに大きく影響し、ひいては、日本との関係にも影響してきます。

****温家宝の逆襲が物語る路線対立****
歴史 重慶市共産党トップ薄煕来の解任劇は、降って湧いたスキャンダルではなく、30年に及んだ政治的確執の最終章だ

見えを切る割に実行力を伴わないせいで「中国で最高の役者」と揶揄されがちな温家宝首相が、一世一代の大舞台で生涯最高の演技を見せた。
3月11日の全国人民代表大会の閉幕に当たり、首相として最後の記者会見に臨んだ温家宝は延々3時間、表情豊かに思いの丈を語った。その卓越したせりふ回しで中国共産党史に残る最大の汚点に関する議論に再び火を付ける一方、宿敵・薄煕来にとどめの一撃を加え、重慶市党委員会書記の座から引きずり降ろすことに成功した。それはまた、温か師と仰ぐ人物を蹴落とした薄ファミリーヘの復讐劇でもあった。

あの日の会見で、温は重慶市で起きた諸問題に関する質問に答える形で、薄煕来の失脚を暗に予告した。これだけでも89年の大安門事件以来の政変と呼ぶに値するが、事はそれで終わらなかった。
温は間接的ながら明確に、薄を長年にわたる経済改革と開放の努力に背を向ける人物と決め付けた。そして薄の政治手法に対する闘いを、政治改革の推進か「文化大革命のごとき歴史的悲劇」の再現かの選択を遣るものだと位置付けた。毛沢東主義に戻るか、民主的な未来を求めるか。この選択を突き付けることで、温は天安門事件以来のタブーに挑戦したのである。

温家宝と薄煕来は昔から、とかく没個性的になりがちな中国共産党幹部の中で、自らの人柄やイデオロギーを伝える卓越した能力で抜きんでた存在だった。党政治局でその影響力を競い合う2人であると同時に、イデオロギー的には最も反発し合う2人でもあった。

国家統制vs改革で対立
この2人にも共通点はある。例えば天安門事件以後に中国共産党が一貫して掲げてきた路線、つまり政治的な妥協を一切拒む一党独裁の下の「改革と開放」が格差の拡大や汚職の蔓延、政治不信によって崩壊しつつあるという実感だ。しかし両人の生い立ちや人柄、その政治手法は天と地ほどにも異なる。

薄煕来はその並外れたカリスマ性と政治手腕を駆使して現状を批判し、国家の役割拡大を訴えてきた。重慶市共産党委員会のトップに君臨した4年半の間に、政治的・財政的資源を動員する巧みな手腕を発揮。犯罪組織の撲滅という名目を掲げて、自分に従わない官僚や起業家たちをつぶし、統制的な手法で同市の経済を立て直してみせた。その過程では建国の父・毛沢東へのノスタルジアを巧妙にかき立て、市職員に革命歌を歌わせたりもした。

左派すなわち国家統制派に属する薄は、天安門事件後に小平が確立した路線のうち、「改革開放」の側面に批判をぶつけてきた。一方、温厚で儒数的な価値観を体現する首相という役割を演じてきた温は、小平路線のもう片方の側面である非妥協的な一党支配に対してリベラル派の立場から挑んできた。

法の支配を確立し、民主化を通じて政府の横暴を抑えるべきだと、温は繰り返し論じてきた。自らが80年代に仕えた改革派の指導者たち、とりわけ胡耀邦の業績をたびたび引き合いに出してきたのもそのためだ。中国の政治家が自らの描く未来を正当化するためには、まず歴史の書き直しから始める必要があるからだ。

この両者の闘い、今年2月までは薄煕来が優勢に見えていた。高級幹部の子弟「太子党」の人脈もあり、「重慶モデル」の成功も評価されていた。一方の温は、注目すべき発言は多くても具体的な成果は少なかった。だから薄こそ「次の次」の世代の指導者と目されていた。2月6目に、重慶市副市長で薄の右腕だった王立軍が四川省成都の米総領事館に助けを求めて駆け込むというスキャンダルが起きるまでは。

一方の温は平凡な教師の息子として生まれ、文化大革命の時期に家族が攻撃されるのを見て育ち、自らは革命の長老たちの庇護を受けて、徐々に権力への階段を上がっていった。
逆に、薄煕来は生まれついてのエリートだ。革命第一世代の有力者・薄一波の息子で、名門の北京第4中学校に学んだ。彼が16歳のとき、党高級幹部の子息たちとブルジョア的な家庭の子たちとの対立が激化し、それが文化大革命の前触れとなった。(中略)

だがしばらくすると、毛沢東は貧しい労農階級の子供たちを新たな紅衛兵に仕立て、文革の矛先をかつての同志たちに向けた。薄煕来も彼らに捕らえられ、6年を刑務所で過ごした。父の薄一波は無慈悲な拷問を受け、母親は紅衛兵に拉致され、死亡した。殺されたのか、自殺だったのかは今も分かっていない。記録が残っているとしても、いまだ封印されているからだ。

ブラックボックスを開いた
毛沢東の死後に復権を遂げた小平らが81年に「歴史に関する決議」を出して以来、文化大革命は公式に「誤り」だったとされている。だが、何かどう誤りだったかは説明されていない。今日に至るまで、文化大革命は「何であれ、とにかく悪いこと」の代名詞とされている。

温家宝はその文革の恐怖をよみがえらせることで、共産党の歴史に風穴を開けた。結果として中国を開放路線に踏み出させることになった文革の意味と残虐さ、その断片的な真実とでっちあげを封印した巨大な「ブラックボックス」をわずかに開いたのだ。彼の発言は、中国共産党に染み付いた非妥協的で独善的な体質に挑むものだ。

温家宝にとって文化大革命が何を意味するかを真に理解するためには、彼が師と仰ぐ革命の指導者の人生をたどる必要がある。中国共産党が最もダイナミックに変化していた80年代に党総書記を務めた胡耀邦である。(中略)

80年代前半の中国共産党は、急速に統制色を弱めていた。経済成長が進み始め、国民は一定の自由を享受できるようになっていたが、党の体質は変わっていなかった。いざ重大な決定を下すべきときに、よりどころとなる法律も裁判所もなく、あるのはむき出しの権力だけだった。

今も残る胡耀邦の遺産
その頃、党幹部たちは互いを、または互いの子弟を要職に就けるのに忙しかったが、胡耀邦は一介の教師の息子である温家宝を党の要職に抜擢した。その後に起きる事態を、胡はうすうす予感していたのかもしれない。
86年頃には、市場指向を強める経済と自由主義化する社会環境は、絶対的な政治支配にこだわる共産党幹部の思いと相いれなくなっていた。

胡耀邦は太子党の腐敗を食い止めようと試み、守旧派の抵抗を無視し、学生たちの抗議行動を大目に見た。党幹部が堪忍袋の緒を切らせたのは、その年の末のことだった。
胡耀邦の失脚は、正規の手続きにのっとったものではなかった。陰の実力者たちが、胡耀邦は行き過ぎたと判断しただけだ。
文化大革命で失権してから21年後の87年1月、胡耀邦は5日間にわたって、党幹部から厳しく糾弾された。最も痛烈に批判したのが薄煕来の父だった。(中略)

胡耀邦は89年4月に死去。民主化を求める学生たちは故人の誠実さと人間性に心を打たれ、その死を悼む集会を天安門広場で開いた。やがて、この集会は一段の自由化と民主化を求め、党幹部の子弟らの横暴と腐敗を糾弾する大規模な抗議行動へと変容していった。

その頃温家宝は党中央弁公庁主任の座にとどまり、胡耀邦の後を継いだ改革派の趙紫陽を補佐していた。天安門広場を占拠した学生を説得する趙の背後に温か立つ有名な写真がある。
その直後、小平らは広場に戦車を出動させ、文化大革命に匹敵する凶暴さで世界を驚かせ、中国共産党の歴史に流血の1ページを書き加えた。

党内部の事情通によると、薄一波は温家宝の追放を目指して画策したが、他の幹部は温が趙紫陽への忠誠を捨て、戒厳令布告を支持したことに好感を抱いていた。こうして温は冷酷な体制の論理に従って行動することを選び、昇進を続けた。彼の家族、とりわけ妻と息子もビジネスで成功できた。

87年に失脚して以来、胡耀邦の存在は中国の公的な歴史から抹消された。だが党の決定に歯向かわなかったため、支持者を残すことはできた。その中には今の総書記と首相(胡錦濤と温家宝)も次の有力候補(習近平と李克強)も含まれる。全員、毎年旧正月には胡の家を訪問している。だが公の場で胡耀邦の業績をたたえているのは、温家宝だけだ。温は胡の夫人や子供たちとも温かい関係を維持している。
(中略)
「これまでのところ、(3月の記者会見での)温家宝発言が個人のものなのか、特定グループの意見なのかは定かでない」と、元閣僚級の地位にあったある人物(薄煕来の失脚を公式発表の10目前に予言した人物だ)は言う。「彼自身が80%、グループが20%かもしれない。まだ成り行きを見なくてはならない」

改革派の立場をアピール
地位と利権と人脈が複雑に絡み合う中国共産党の体質を変えられるかどうかは分からない。だが薄煕来の追放によって左派がリーダーを失い、薄による政治的・身体的な暴力の実態が日々暴かれていくなかで、薄による「赤い恐怖」政治について語る人も増えている。そして温は、そうした人たちの一部を味方に付け始めている。

「私は今まで、温家宝に対して全面的に肯定的な見方はしてこなかった。多くを語るだけで、実行を伴わなかったからだ」と、中国の指導部をよく知る大手メディアの有力者は言う。「今は、言えるということ自体がとても大事だということに気付いた。しゃべることで、彼は自分かシステムに縛られているから何も達成できないのだということを全世界に知らせている」

胡耀邦の葬儀でひつぎを墓所まで運んだ最も忠実な弟子は、文化大革命の再来を防ぐべく、胡と彼の子供たちが築いてきた基礎をしっかり固めようとしている。
温家宝は表向き、小平の「歴史に関する決議」で打ち出された文革否定の路線を守るべく左派と闘う姿勢を示した。だが言葉にしない本音の部分では、リベラル派の立場から「一党独裁の堅持」に異議を申し立てているのではないか。

胡耀邦の末息子・徳華は先頃珍しく中国のメディアの取材に応じ、この問題に明快な答えを出してみせた。「父と小平の違いは」と、明徳華は言ったものだ。「は党を救おうとしたが、父は人民を、普通の人々を救おうとした」

温は薄煕来の失脚を、自らの改革派としての立場を鮮明にする絶好の機会とみている。党内が権力争いに忙しい今なら、自分の発言を抑えることはできないと読んだのだろう。だからこそ記者会見で、国民に直接、語り掛けた。もはや党に真実を独占する力はなく、内からの改革も期待できないからだ。

温家宝が共産党の正義と透明性に希望を持てない人々を率いて、最大のライバルを追放するキャンペーンの先頭に立っているのは歴史の皮肉としか言いようがない。彼が生涯をささげたこの党は、たぶん他の方法を知らないのだ。(筆者はオーストラリアのシドニー・モーニング・ヘラルド紙とエイジ紙の北京特派員)【4月25日号 Newsweek日本版】
********************

温家宝首相の政治改革に対する思いはわかりますが、激しく権力闘争が繰り広げられている党中央において、派閥を持たない彼が何らかの成果を引き出すことは、残念ながら非常に困難なように思えます。
むしろ、薄熙来失脚事件で国内的・国際的注目を集めたことへの警戒から、党中央は今後、内部の対立には蓋をして、引き締めの方向を強めることも予想されます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする