銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

映画『靖国』日本人の忍耐の象徴たる宮司さん・・・・・私と中国7

2009-02-11 21:05:46 | Weblog
 この映画は、刀匠に対して、製作意図を隠して撮影をしたように、靖国神社に対しても撮影の許可を撮っていないでしょう。当たり前ですが、ゲリラチックに撮影しています。それゆえに、馬鹿に音声が悪いのです。が、カメラが手ぶれるし、非常に近くまで対象に寄っていますので見にくいところもあるが、面白さをも生み出しています。

 しかし、全体を見終わって、感じるのは、靖国神社の宮司とは本当に大変な仕事だなあと言うことです。あらゆる誤解とバッシングの中で、黙って耐え抜いて任務を遂行する、役目です。靖国神社側とか、シンパの人々はいったん、ほっとした時期もあったでしょう。

それは、小泉さんが、羽織袴姿で首相として、最初に、参拝をしたときです。その時には、神社側も羽織袴姿で、案内をしましたし、空からのヘリコプターを始め、大変な報道合戦を招きましたので、なんとなく、ロンダリングが済んで、国民的な許容が得られそうでした。が、むしろ、ことは反対方向へメディア内世論(?)として流れ、集団訴訟の動きが生まれ、小泉さんへは、この映画の制作をはじめ、あらゆるバッシングの方向への流れが出来たわけです。

 それでね。彼は、背広姿で、しかも普通の国民と混ざって、境内の方向から、ただ、賽銭箱に向かって参拝をする姿勢に変更します。それも、8月15日をはずして、ゲリラ的にね。撮影隊もゲリラ的なら、その対象たる小泉さんもゲリラ的です。そこが、観客としては、微苦笑を誘うところです。

ともかく、小泉さんの参拝姿を、この監督のカメラは、『ほーら。ほーら。来たぞ。捉えてやったぞ』と、それこそ、人々の間を縫って、小泉さんと同じスピードで小走りに走りながら追いかけます。ところが、そのビデオカメラが、音声を拾ってしまいます。「あ、小泉さんだ。がんばってね」と。強く応援する大衆の声です。

もちろん、ここで、こんな事を書くと、「おや、まあ。川崎千恵子って、右翼だったの?」とか、「なんだ。ミーハーだねえ。大衆ポピュリズムに乗りやがって」との軽蔑を招くことも知っております。そして、靖国神社境内で拾った声なんて、元々が靖国神社賛成派なのだから、日本の国民の大勢ではないという声もあるでしょう。

 しかし、そこが、無名の人間の強さです。そして、芸術家であることの強さです。誰からも規制をされず、お金も貰っていない人間です。だから、自分なりの本当の事を言えます。有名ではないし、バックも無いのに、本当の事を言えるのが、芸術家として修練を積んだ人間の強さなのです。おごりではありませんが、眼が鋭くなくては作品など出来ないからです。そして、私は寛容でもあります。この映画の中には、反靖国神社派も長い時間を割いて登場するのです。ですから、別して、神社へのオマージュになっている映画ではありません。

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 ところで、靖国参拝を、バッシングの対象とする、原因と言うか根幹的な理由は、A級戦犯合祀の問題です。これが、8月15日前後を、中心にして、毎年澎湃として湧き上がる論調です。そして、分離せよとか、千鳥が淵に新しい普通の、戦没者用・慰霊施設を作れとか、いう論調が起こります。

 しかし、この映画『靖国』を見ているだけでも、明瞭に判りますが、戦争の責任はA級戦犯だけにあるわけではありません。無名戦士はもちろん、犠牲者です。しかし、歴史の大きな流れから考えると、東京裁判そのものが、その評価や実像が怪しくなってきます。

 戦犯裁判と言うものが、あれほど、大きくなって取り上げられたのは、第二次世界大戦の終結を、きっかけとしていて、その後では行われておりません。各地で、戦争が起こっているはずですが、ゲリラ的な民衆の反抗があって、どこが終戦なのか、どの戦争もあいまいになっているし、ベトナム戦争など、アメリカ市民の間にさえ、心理的に、大きな傷を残し、威風堂々と戦勝国として、戦犯裁判などしていられないというムードを生みました。

 あの大東亜戦争を抜き差しなら無いところまで、追い詰めて、原爆投下まで招いた、罪に関しては、メディア(当時は新聞が主ですが)の責任は大きいと思っている人間が、私です。そのメディアが、自らの責任に対しては、口をつぐんでいて、しかも、記者一人ひとりは無名性(安全性)を確保しながら、戦時中も現在も、首相(この場合は小泉さん)とか、靖国神社そのものをたたくのは、非常におかしいことだと思っております。

 でね、ここからは、東京裁判を考え直して行きたいと思っております。特にドイツとの違いを含めて。ドイツと日本には、大きく異なって点があるのです。それを、明瞭にして、行きたいと考えております。

 なお、最後になりましたが、昨日より、一時間早く、更新しておりますので、下に、この前の文章がございます。それも、よろしく。

   2009年2月11日    川崎 千恵子 (雨宮 舜)
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映画『靖国』内における小泉さん・・・・私と中国6

2009-02-10 21:53:54 | Weblog
 私が暗い場内の椅子に座って映画館で見たときに、もっとも意外な事が二つあって、それは、この映画は期せずして、<<<靖国アレルギーを解く方向へ向かっている>>>ことと、これも期せずしてでしょうが、<<<小泉さんへのオマージュになっている>>>ということでした。

 私は昨日、09-2-9にグーグルの検索を利用して、この映画の予習をする前までは、一年弱の間、それこそ、芸術作品足りえるポイントだし、また、創作の意外な醍醐味だとさえ思いました。特に本人(監督)のあずかり知らぬところで現れる、天の配慮とも言うべきものだと感じていました。

 あまつさえ、・・・・・<<<もしかすると、この監督は、大量のビデオフィルムの取捨選択と言う編集作業の際、映画祭での受賞を狙って、客観性も加味しようと考えたので、

 どぎつさを薄めるために、小泉さんの靖国参拝への弁明的な会見を、省略しないで入れている。そして、もしかしたら、彼(監督)自身、小泉さんの立派さを理解したのではないかとさえ、思いました。

 上映中止騒動後の記者会見で必死に主張をした「これは、中立の立場の映画であり、純粋に作品の独立性を持っている映画である。だから、・・・・・云々」と言う言葉を信じ、結構取材中に、彼本人も靖国に対する先入観を改めたのではないかしら? >>>・・・・・とさえ、ナイーブ(それは、私自身のことですが)にも思いました。

 しかし、昨日、二つ嫌な事を発見し、胡散臭い、そして、うろんな、ところが大いにある映画だと、思い直しました。それにもかかわらず、冒頭に述べた二つのポイントで、この映画は存在意義があり、前日述べた、大東亜戦争に関する古文書(アーカイブ)と言う意味も加味すれば、三つの大いなる意義のある映画だから、『上映中止は論外だ』と思っている、信念は全く変りません。

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 ところで、そのダブル逆効果ですが、どうして生まれたかと言うと、これも、隠し撮りのお陰なのです。本当に面白いことに、小泉さんに隠して撮った映像が、逆に彼の心情(真情)を観客に伝え抜いています。

 この映画の真の製作意図は、反日、反小泉のメッセージを、日本や、海外の国に住む大衆に広めることにあるでしょう。しかも、その製作費用のうち750万円もの額を、日本の文化庁から貰っているとは、皮肉を通り越して、すさまじいまでの、日本国、および日本国民へ対する侮辱です。

 そして、発表のタイミングとその順序も相当に怪しいです。先ず、サンダンス映画祭へ日本公開五ヶ月前に出品されています。その次に、ベルリン映画祭へも日本公開前に出品をされています。これは、既成事実の積み上げでもあり、反日性も充分にあるのですから、ずるい遣り方といえるでしょう。

 しかも今、公式サイトを明けましたが、未だに、刀鍛冶の作業場が、靖国神社の境内の中にあると言う嘘が、記載をされております。すごくずるいですね。新しく、今日からこのブログをお読みになる方があるかもしれないので、もう一回正しい事を言えば、その工房は高知県にあるのです。

 私も最初は靖国神社内にあるのだと思っていましたが、それだったら、<<<<随分散らかっている作業場だから>>>、『よく神社側から、存在を許されているなあ。神社って、清潔を旨とするところなのに』、と、映画館内で、そのことは既に、不思議に思い、後で、それが、高知県にあるのなら、90歳を越えた刀鍛冶の人が、あえて、気取らないで、撮影をさせたのだと、真実を理解できます。

 それに、時間的に、たった、二日で撮ったのなら、片付けている暇などなかったでしょうね。

 はっきり言って、汚い工房です。でも刀匠としての、その方の言葉はコメンテーターである皆さんが褒めておられるように、しっかりとしていて、日本の老人のもっともよい部分を、明示していて、それが救いになっております。

 そう言ういくつかある、ずるさの一つとして、小泉さんの記者会見の映像も、彼に使用意図等を、説明していない隠し撮りのようなのです。それは、画面を見るとよく判ります。

 普通は記者会見場と言うのは、前に、新聞記者が机つきの椅子に座っています。その後ろに高い三脚に立てたカメラを構えたテレビ局、および新聞の写真部が、大勢控えています。だから、首相の記者会見は、カメラ目線となり、ほとんど、カメラと同じ高さ(それは、記者会見の壇が、少し高い位置に設定もされているので、可能なこと)で、観客に訴えるということになります。
 
 それですと、ありきたりで、当たり前です。ところが、この監督のカメラは、新聞記者席の間に割り込み(多分、通路だと思うのですが)、しゃがみこんでカメラを構えています。

 こういう撮影姿勢を取ったのは、監督が先入観を持っていた証左になります。・・・・・すなわち『小泉さんは悪い人だ。その実像を迫力を込めて捉えよう』と言う姿勢。そのためには、そうとう近くによるべきだと、彼が考えたから、こんなに、低い位置から撮影していて、しかも、小泉さんは、記者たちの肩やら、胴体やら、頭の間から、小さく顔や、上半身をのぞかせるという形なのです。

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 それで、結果として、小泉さんの視線、目線、は、観客からずれています。それが、思いがけない効果を生んでいるのです。彼は、決して声高に主張をしません。とつとつと、弁明します。「一日本人として、思想、心情の自由は、守られるべきだと思います」と。ここが、この映画の白眉です。そうです。閣僚とか政治家が、ある一神社に参拝するのをこれほど、疎外される国家が、他にあるでしょうか?

 A級戦犯合祀の問題。それは、また、後で触れます。しかし、小泉さんの声高ではない話し声を聞いていると、全く肯定できます。『そのとおりだ』と、普通の日本人なら考えるでしょう。

 私自身、右翼でも左翼でもない、そして、政治評論家でもない、極く普通の主婦です。アートではお金は稼げません。だから、身分としては専業主婦です。そして、アーチストとしても、現代アートはほとんど、みなさん、どなたも、社会的には無名の存在です。また、本の著者としても、それらの本は、お金を取らず、知人に上げるだけですから、社会には、ほとんど、影響を与えず、したがって、私は本当に、無名の普通の人なのです。

 しかし、グーグルの検索を引いても、どこにも、その<<<小泉さんへの共感を鑑賞者が持ったこと>>>について、言及したものがありません。おかしいですね。

 私は、芸術作品の鑑賞については、(映画評論家ではないが)結構、ベテランのつもりです。そして、クライマックスがどこに生じているかも、ちゃんと判断が出来るつもりです。この映画はドラマではないから、クライマックスが一箇所に集中しているわけではありません。だけど、特別に人の心を打つ画面が、何箇所かにあって、その一つが、この小泉さんの会見の場面です。

 国会議員が、試写会を催して、その後で、この上映を禁止する旨を申し出た人もいると聞いています。が、その名前は公表をされていません。それもずるいですね。それから、右翼が反対といわれていますが、街宣車が、渋谷でこの映画の件で、動いているのを見たことがありません。

 この映画は、小泉さんの靖国参拝に危機感を持つグループの意図の下に、『彼は、突出した悪者である』と規定をするべく、制作されたと思いますが、思いがけずな、ダブル逆効果が生まれていて、『小泉さん、よくぞ、普通の日本人の心情を代弁してくださって』と、感じられるのです。そこが、非常に感動を呼ぶ場面の一つです。

 もし、グーグルにブログの断片でもよいが、これについて触れているものがあれば、私は、ここまで断言をしなかったと思いますが、この映画に寄せられたコメント集を見ても、一切、そういうことに触れた記事が無いので、私は私の勘(または、直感)を信じて、このアイデア(または、感想)をここに、曝します。では、
     2009年2月10日    川崎 千恵子(雨宮 舜)
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映画『靖国』の意外性・・・・・私と中国5

2009-02-10 00:01:13 | Weblog
 いや、『最近、このブログらしくないなあ、話題が』と読者がお感じになっているような気もしています。自分の考えで突っ走っておりますからね。サービス精神皆無です。だけど、世の中がどう動こうと、政治は、自分の生活を守る基本です。だから、アーチストだって、政治を忘れて暮らせるわけでもありません。

 それで、今から、映画『靖国』について語る前に、私としては珍しく予習をしました。何月何日から日本で公開されるかを調べることが第一の目的だったのですが、思いがけず坪内裕三と言う方の文章がでていて、この方は新潮社から『靖国』と言う本を出していらっしゃるようなので、長い文章を、丁寧に読みました。

 それは、グーグル → 靖国 映画 →12番目で、下の行に隠れている、映画靖国 Wiki → 15年戦争資料 @wiki 映画「靖国Yasukuni」と靖国神社 の中の、項目12,13,14 です。


 坪内祐三さんによれば、この映画内には、相当な事実の歪曲、等があり、心理操作を目指しているところがある。それについて、丁寧に記述が続きます。「しかし、この映画の上映を禁じるべきではない」という言葉も最後にあります。

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 さて、ここからは、私が予習前に持っていた意見を中心に構成していきます。私は見ている最中から、これが、日本への悪意ある逆宣伝用映画であろうと、確信を致しました。だけど、結論は『意外と面白い。結構価値があるなあ。これは、いろいろな人、特に若者が見るべきだ』です。戦争(特にあの大東亜戦争)を知らない若者に見てもらいたいと思いました。反戦映画になっているとまでは言わないけれど、大東亜戦争がどういうものであるかを、意外なほど、きちんと、教えてくれます。

 この映画は前半三分の二が、十年間にわたる(と、監督が言っている)8月15日における靖国神社の模様を記録したカラーで、音声が悪い(ビデオカメラで撮影したとか?)部分で、後半三分の一は、白黒で、せりふが無い昔の記録(ニュース)映像の切り張りです。

 私は特に後半三分の一だけでも、見る価値があると思いました。

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 後半の中に、日本刀で、軍人が中国人を、切り殺す場面があって、それが、もっとも、監督の目指したメッセージでしょうが、高校時代から、南京大虐殺(再び言いますが、それが、実際にあったかどうかを今では疑っている私ですが)を、学んでいた私にとって、戦争の最中にはいろいろあるのだから、それも、一つの場面であろうと、冷静に見るだけです。

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 前半三分の二の中に、日本刀の刀鍛冶が一本の刀を鍛えていく場面が、何度も挿入されます。これを見ているうちに、この画面がどういう風な結論に使われるのか、映画は作らないものの、一冊の本を作り上げる私には、容易に読めました。しかし、創作をする裏側を知っている私は、『ふむ、ふむ。これは、統一を執るためですね。仕掛けはわかったわ』と言うぐらいで、軽く、受け止めました。

 私事に入っていって、申し訳ございませんが、私が作り上げた五冊の本はすべてエッセイ集で、実際にあったことの観察を元にした思いの吐露です。しかし、それほど、有名人でもなく、芸能人でもない私は、最後まで一冊を読んでいただくために工夫をしております。何とは無い統一感を持つようにと。エッセイのテーマは一冊で、必ず同じ事が続くように工夫をしております。

 そのうちで、「五冊目が特に面白い」と、よく言われるのですが、それは、その特別な工夫が一種のミステリー小説をなすような順番で置かれているからです。エドゥアルドと言う、嫌われ者の、しかし、元気なアーチストが、私が別かれた途端と言ってよいほどの短い期間の後で、突然死、しかも孤独死を、します。日本人の奥さんがついていると聞いているのにです。それが本当に不思議で、徐々にその謎が解けていくという構成にしています。それで、きっと、途中で読みやめないで最後まで読んでいただけるのだと思っております。

 で、私はこの刀鍛冶の扱いを見て『監督は、日本人の残虐性の証として、捉えるつもりで利用しているなあ。そこをこの作品の統一感とするつもりなんだ』と理解をしましたが、同時に、『だけど、これを見る日本人は、そういう風にとらないだろう。日本人にとって、日本刀は、単なる武器ではない。一種の美術品である。ほとんどの人はそれを武器として使わないで、飾っておくものとして認識している。そして、この刀鍛冶の人は、それらの美術品を創る人の一人として、全うである。九十歳を越えているというのに、ずいぶんしっかりと作業の出来る人だ。それに、発言もとつとつとして好ましい』と感じました。

 ここらあたりは中国人の監督と、日本人である私の受け取り方の全くの違いを生んでいるところです。そして、私に続いてこれを、ご覧になった方も、そういう風にお取りになるでしょう。

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 しかし、ここで、もう一度坪内祐三さんの文章に戻ります。なんと、この刀鍛冶の作業場は高知県にあるそうです。しかし、イメージとして、靖国神社の境内に在るがごときイメージを与えています。それは、問題ですね。そして、この映画には、さまざまな嘘が含まれていて、靖国神社には、刀が献納されたのは、昭和12年から、数年間だけだそうです。

 それから、私は見ている最中から、『この刀鍛冶は、随分の程度で、監督に、中国に都合がよくなるように、利用をされているが、90を越える年だと仰るから、そこら辺りの認識が正しくもてないのだろうなあ。気の毒に』と思いましたが、やはり、納得を正しくもって写させたわけではなく、単に刀を、鍛造する場面を撮りたいということで、撮影を許可したそうですから、騙されたに等しいですね。しかも、たった、二日間で撮影しているし、映画が完成したあとのご主人の映像を見た、妻(83歳)が「これは、駄目だ。削除をしてください」と仰ったが、その後はなしのつぶてで、ご本人は、結局のところ、疲れたのか、後日、「仕方が無い」と仰ったともあります。

 それは、知らなかったほうがよかったほど、嫌な話ですね。本当に気の毒な、職人気質のご夫婦です。高知県に住んでいると東京の事情はわからず、騙されたに等しいこととなったのでしょう。そこら辺りは、グーグル→映画『靖国』を引いていって、いろいろな項目を読んでいただけると、私が助かります。

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 ところで、また、私自身のこの映画『靖国』に関する思いに戻れば、ここには、もう一つ、思いがけない部分があります。監督の意図を離れたところで、生起した、思いがけない感動が与えられます。私はそこが芸術作品にこれが、成りえている大きなポイントだと思い、このブログに、この映画についての文章を書く事も、『いとわないぞ』決意をしたのです。それについては明日お話をさせてくださいませ。

   2009年2月9日     川崎 千恵子 (雨宮 舜)
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日本へのバッシングは国際連携の下で?・・・・・私と中国4

2009-02-08 14:36:54 | Weblog
 さて、そんなにも忠誠を中国へ対して尽くしている私が、ほとほと、嫌になる出来事が続きました。ライス国務長官の会見を真似したがごとき、高い机を前にして、女性報道官が、いかにも憎々しげにいろいろな、発表を行いました。

 中国からの、海底ガス油田の開発問題に関する悪しき挑発があったちょうどその頃、イランに対する石油開発の権利(長年にわたって築き上げてきた商取引)を、放棄せざるを得ない事件があり、私は中国の日本バッシングが、アメリカの公認のもとに行われているのではないかと推察したほどです。

 同時に韓国も相当ひどい挑発を繰り返してきました。竹島問題です。李登輝元総統のいる台湾とは、日本は仲良くしていましたが、日本国内で台湾派と目されている森元総理大臣は、これまた、激しいバッシングにあっていました。そして、李登輝元総統派を継承している政治家は台湾で今、激しい司法によるバッシングにあっています。

 あとで、もう一回述べますが、この頃、日本では、小泉さんが首相をしていました。この人は歴代総理と違って、総理になるとみなされていなかった人であり、それゆえに、棚から牡丹餅なら、思い切った政治を行おうという覚悟の座った人で、歴史上初めて、北朝鮮の拉致問題へ、頭を突っ込みました。

 その北朝鮮ですが、こちらも裏でアメリカと連携している可能性が充分あります。人と人を戦わせ、国と国を戦わせることによって、漁夫の利を得るということに注目をすると、東南アジア内で、国と国を争わせ、緊張感を高めることによって、漁夫の利を得るのは、アメリカ大陸とオーストラリア、および、ヨーロッパでしょう。

 北朝鮮の拉致問題など、道義心から考えてあっとうてきに、即時に解決すべき問題が、ちっとも解決できません。しかも、途中でテポドンですか? ミサイル攻撃で脅かされたり、今、横浜みなとみらいに、係留されている不審船が、漁船を襲撃したりしています。北朝鮮は麻薬を、日本海側につける小型船で、日本国内に持ち込んでいるとも噂をされております。真偽のほどは確かではありませんが、大麻より麻薬の方が、毒性が強く、それらが、どこへ蔓延しているのか? 心配ですよね。いわゆるピンク産業に従事している女性たちは、そういうことで支配をされているのかしら? しかも気の毒なことに、往来船が途絶えていますね。だから、北朝鮮に残されている、拉致被害者よりもっと大勢いる、元在日の帰還者とか、日本人妻など、どうなっているのか、本当に心配です。

 自由が全く無い国です。暗黒の国です。その国に日本の普通の人がさらわれたのですから、もっと、ずっと早く、簡単に解決が出来るはずです。ところが出来ません。これは、不思議なことですが、在日に対する差別意識が払底した日本にとって、北朝鮮ほど今、被害を与えられている国はありません。

 旧、北朝鮮籍の、在日の三世、四世は、ほとんど日本人と同じ、文化と教養の中で暮らしているので、この北朝鮮の拉致被害者の問題が解決されないことを、日本人とともに、悲しんでいるはずです。

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 このように、踏んだり蹴ったりの扱いを周辺の国から受けた時代の、特徴は、さっきも言ったとおり、小泉さんが首相をしていた時代です。そして、彼の特徴とは、(経済政策の上では、マイナス面もあったでしょうが)、靖国参拝をしたことです。

 私はこのポイントが痛く、アメリカを刺激したのではないかと考えている存在です。と言うのも、戦争裁判とは、非常に難しいもので、確かに、戦犯はそんざいしているのでしょうが、A級もB,C級も差は無いと私は考えます。特に天皇制度を温存しながら、一方では過酷な判決を、A級戦犯に下したわけで、そこになんとはない矛盾も感じるのです。それは、当のアメリカの責任者ほど、よく自覚をしているだろうわけで、対アメリカ関係としては、靖国問題は、大きなタブーなのです。だけど、小泉さんは自覚をしてか、無自覚かは、私には判りませんが、その虎の尾を踏んじゃいました。

 それで、<<<アメリカは、とても上手に彼を成敗するために、諸・東南アジア諸国政府を裏で動かし、彼が攻め立てられる(または責め立てられる)ように仕向けた>>>と私は、考える次第です。うがった見方かもしれませんが、結構真実をついているでしょう。今急に気がついたわけではなく、数年前から、そのように見ておりました。
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 同時に日本国内では、集団訴訟と言う形で、小泉さんの靖国参拝が違憲とされる判決が次々と出ました。彼は、内外ともに、針のむしろに座っていたのです。だけど、それでも、日本人は彼を応援しました。彼の言っている事を、いちいちもっともだと、感じたからです。溜飲が下がるとは、このことかと、みんなが同じように感じたからでしょう。

 特に、靖国参拝問題に関しては、内政干渉もいいところです。中国が内部向けにどんなことをしているかについて、日本政府がなにやらの、アッピールをしたり、攻め立てたりしていますか? 対アメリカにしても、日本国政府は、政府として、アフガン侵攻に抗議したり、イラン・イラク戦争に抗議をしたりしていますか。

 反対です。常に、大金を使ってアメリカの支援をしているではないですか。それなのに、いちいち、こういうめちゃくちゃな、干渉をされる。

 別の国を利用したり、日本人そのものを利用して、首相の心中を翻弄する。首相も個人としての部分はあります。そんなこと(靖国参拝の自由)は人間の基本的な尊厳として当然のごとく、尊重をされなければなりません。それが、侵される。・・・・・

 そういう現象に、日本人は長らくのこと、うんざりしきっていたのです。だから、彼は人気がでました。

 そして、そういうアメリカの裏側にある意をていして、もっとも過激な攻撃を加えてきたのが中国です。公使館襲撃など、外交関係を絶ってもよいぐらいの攻撃ですよね。日本の国旗が焼かれるああいう映像を見て、ほとんどの日本人は、強い嫌・中国の意識にとらわれました。そして、<<<北京オリンピックなんか、祝福してやるものか>>>と言う考えにも、陥りました。既に戦後65年です。賠償金も支払っています。対アメリカにしても言うなりに、お金を使っていますね。インド洋給油艦問題、等々。

 上記のような私の推察を、一方で例証したのが映画『靖国』の存在です。これは、映画館で見ておりますので、きちんと、解析が出来ます。明日は、それについて述べましょう。

      2009年2月8日    川崎 千恵子 (雨宮 舜)
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大学でもう一度中国へ謝罪をしたが・・・・・私と中国3

2009-02-07 20:33:39 | Weblog
 硬くて古いお話が続いています。でも、<小さなところを、丁寧についていくと、それは、結構大きなところへ繋がる>との信念を持っているので、どうか、このポイントで、もう少し、書かせてください。

ところで、世の中は、ぐんぐん動いています。新しい現象が次々に起こりますが、結構、あの件のリメイク(復元的な踏襲)だなあなどと、思うときもあって、過去を学習することは大切なことだと、私自身が信じているところがあって。

高校のときに、中国へ謝罪をすべきだと強く感じた私は、大学のときに、再びそれを、実践します。30頁の小論文を英語で書け、題材は自由と言う宿題が出たときに、テーマを、満鉄としました。日本人は、満鉄と呼称をしますが、英語では、正式には、南満州鉄道です。つまり、大連を中心として、満州のある部分を制圧した時点での、社名なのでしょう。その会社が現在(といっても、1961年当時のことで、ほぼ、50年も前のことですが)の日中関係に、どういう影響を及ぼしているかを、考えたものです。
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 私が通学していた大学には、この手の英語の資料が揃っていて、リットン調査団のレポート、国際連盟における、松岡外相の演説etc を英語で、読み考え抜きました。スケルトン(論文の骨子)は、やはり日本が悪カッタと言うところにおきましたが、高校時代のそれとは、変わって随分、私自身が冷静に事象を見抜けるようになりました。この論文はアメリカ人の教授にもべた褒めをされました。

 しかし、このブログでは明かしませんが、在学中にいろいろ、おかしな件もあって、中国と台湾の関係の厳しさにも、国際関係の最先端の厳しさにもふれたような気がします。そのときには、解析が出来ておりませんが、現象はつぶさに、見つめ続けました。

 その後、ある経緯で、商社で、中国貿易を担当できないかと、動いた時期もあります。商社の上の方に、親戚の人がいたり、中国語を歓待略字を含めて学習していたりしていましたので・・・・・しかし、とんでもない。あそこは、女性が出入りできるところではない。特に、普通の家庭に育ったような、お嬢さんタイプの人に、行かせられる状況にはないといわれました。
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 その件ですが、相手方の宣伝から考えると、ありえないように思えました。たとえば、北朝鮮ですが、チョンリマ(千里馬)運動の宣伝映画が、大学の講堂とか、公民館の劇場とかで、上映されていて、「すごい国だなあ?」と日本人を驚嘆させていた時代です。その宣伝に載せられて、在日コリアンで、国籍を北朝鮮においている人たちが大勢、北朝鮮に帰還をして、その国の最底辺の人間として扱われ、散々な苦しみをなめたことは、今では明らかになっています。土井たか子さんなどは、それを推進したらしいです。

 そして、拉致被害さえ起こりました。大韓航空機爆破事件が起こり、それで、いろいろな秘密が外へ出てよかったのですが、あのままだったら、相当な人数(帰国者とその家族を含めれば)が、悲嘆と苦悩にくれ続けていたでしょう。

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 で、中国の方は華僑と言うシステムもあるし、国土が広大ですから、北朝鮮ほど秘密主義は守れず、だんだん、その政治システムの害悪も外へ洩れ始め、そこで、自浄作用が起こります。多分、小平さんは、相当な大物だったのです。ちょっと、日本で言えば、金丸信氏と似ていますが、大物だったのです。それで、中国が一変していきます。

 1970年代、1980年代、から、1990年代まで、だいたい、日中関係は温和なものだったと思います。それで、私は引き続き中国情報を、把握し続けますが、指して、自分の考え方に、変化を起こしませんでした。つまり、スケルトンとして、日本の侵略が悪かったのだろうと考え、自分が満州からの引揚者であることを隠し続ける生活を送っていたのです。
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 それは、私が結婚後で、子育てで忙しかった時代です。

 でも、その後で、嵐のような中国の変化が再度、現れるのですが、それを、描く前に、もう一つ、私の実家のムードが、結構モダンなものだったエピソードを披露させてくださいませ。

上に使った写真は、両親が難病に罹った父のリハビリ用に、社交ダンスへ取り組んでいたときのもので、1983年のものです。別に良い写真ではありません。特に、父が、パーキンソン氏病の事(その当時は完治はなく、だんだんに体の機能が衰えて死にいたるしかないと思われていた)をまだ、悩んでいますので、眼がうつろであり、苦しみに満ちています。

それで、週刊誌の写真のごとく、眼を隠しました。技術がまだ、上手ではないです。きちんとした四角を作ってから、それを、ペーストすれば、よいんでしょうが、ブラシ・ツールで、描画を加えておりますので、ラフです。

ただ、私が驚いたのは、これが、1983年のことで、母が、67歳であり、現在の私より、年上だった時代だということです。
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ただ、中国の人々に向かっては、言いたいのですが、この社交ダンスを中国時代に獲得したわけではないということです。植民地の栄華を誇って、楽をしていたというわけではなくて、これは、満州へ行く以前横浜時代に習得した、技術です。

父は結婚後、母をOLにしました。世間知らずで、田舎の女学校を出ただけの母を都会のモガに仕立て上げたかったのです。当時は、為替を扱う唯一の銀行だった、横浜正金銀行に勤めさせ、そこは、就業時間が遅いので、やがて、母自身の決断で、日産自動車へ変っています。

それで、二人で働く、ダブルインカムと言うわけですので、東京や横浜で二人で遊びまくっていた時代のレッスン習得なのです。戦争の影がまだ、色濃くなかった時代の話です。

でも、この70近くになった頃(1983年)のレッスンでは、母を絶対に他の男性とは躍らせなかったそうで、それは、スタヂオ中で、有名な話だったそうです。では、2009年2月7日     川崎千恵子(筆名 雨宮 舜)
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プロパガンダに躍らせられ易い青少年期・・・・・私と中国―2

2009-02-06 21:16:31 | Weblog
 さて、引き上げと敗戦に関しては、もっと、さまざまな思い出が、押し寄せてきますが、ここで、一気に、高校時代、16,7まで成長した、1950年代に入らせてくださいませ。この時代の後期に、安保反対運動と言うのが起こります。国会を囲む大デモ隊と警官隊の衝突で、樺美智子さんが、亡くなって、学者のお嬢様であるし、おきれいだし、東大生だし、ということで、英雄的な扱いを受けました。しかし、私はそれには、ほとんど関係がなく、医者へなれという父との間とか、そのほか、思春期の問題で、悩んでおりましたが、一方で、海外、特に中国とアメリカへ対する関心は深いほうでした。

 高校時代の文化祭で、独り研究として、日中関係を発表して、先生に叱られました。大好きな先生だったけれど、今は、先生のご忠告がよく理解できます。

 学校の雰囲気がまず、女子高で、学内に、閣僚のお嬢様やら、自衛隊幹部のお嬢様が入学している、そういうところで、南京大虐殺など、資料を集めて、展示するなど、校風にあわないですね。それに、今では、『南京大虐殺、そのものが、本当にあったことだろうかなあ』とまで思います。731部隊はあったのです。しかし、日本軍の兵力が南京まで、侵略したかしら?出来なかったんじゃあないかしら? 

 こう思うのは、その後の、日本へ対する中国の政策を見ていて、あれは、プロパガンダで、捏造されたニュースだったのかもしれないとさえ、思うようになったからです。中国はやりすぎました。最近10年間の日本バッシングは大逆効果を生んだのです。

 ただ、中国人が基本的に、長らく、日本および日本人を嫌っているのは、確かでした。でも、中国内部もめちゃくちゃな、事になっている時代でしたからね。国内を治めるためにも、国民の目を外敵に向けさせて、危機感をあおる必要があった時期でしょう。

 ただ、私がこういう過去を明かしたのは、その頃までに、私がどれほど、罪悪感を中国に対して抱いていたかと言うことを述べたいからです。ちょっとまともに物を考える日本人だったら、その傾向を、私と同じように、持っていたはずです。それで、政府は、相当な賠償金を、何らかの形式で支払ったはずです。ODN?

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 こういうことも、近・現代史の一つとして、現代の日本の子どもたちに、きちんと、その金額を教えなければなりません。そういう教育をしないといけません。日本はお金の形ですが、謝罪を表明しているのです。

 それから、今、70歳以上の日本人は、戦前の教育を受け、相当、きちんとした道徳観を持っています。そして、勉強好きです。また、戦後の教育を受けたとしても、今、現在60歳以上の人には、兄弟やら、親からの伝聞、そして、戦後の民主主義教育のもっともよい時代を経験した人間として、そうとうな、道徳的なレベルの高さを持っていると思います。

 そういう人たちが、幸いにして年金が入り、日本の中産階級を形成していて、結構勉強好きです。彼らが学んでいるのは、趣味の領域です。女性なら、ビーズ刺繍、男性なら登山とか、が最近の流行です。そして、アンチ・アウトドアー派に根強い人気を誇るのが、古文の学習です。源氏物語を古文で読む学習会など、どこの市町村の公民館でも、開かれているはずのお教室です。

 しかし、私は、近・現代史を学ぶサークルなどが、できても良いのではないかと思います。特に近・現代史は学校では、教えてもらえません。授業がそこまでいかれないという理由もあり、先生方も、ビビッていますね。自分が批判をされることを怖れていますので。

 そういう勉強会が、すぐいっていの、政党に支配をされたりすると、また、別の方向からの弾圧も受けるでしょうから、純粋に、趣味の領域として、学びあうグループができると良いですね。

 ただ、現代日本では、どんなサークルでも、その後のお茶呑み会と言うものがあり、その中で、親しい人々は、忌憚無い会話を交わす習慣があり、そういう中で、こういう真面目な問題が、取り上げられるような社会の風潮が出てくるとよいと思います。

 現代のテレビ番組は、ずっと、日本人の頭脳を白痴化する方向へ歩んできました。大宅壮一の予言ではないが、日本人ほど、政治に無関心な国民はありません。自分を守る大切な道具なのに、それに対して無関心です。

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 さて、この私の、動かされ易い傾向ですが、それは、世界共通に見られ、中国でも、紅衛兵と言うのが毛沢東によって組織され、それが、政敵を倒す私兵みたいにして使われ、かつまた、良識ある中産階級と言うのを、壊滅させる役目を果たしました。

 まあ、自浄作用と言うのかなあ。やっと、最近開かれた情報の国となったみたいですが、それでも、つい四、五年前まで、それらの若者が日本公使館を、襲撃するほどの、行動に出るほど、動かされていたのです。

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 一方で、温和なのが、日本人です。しかし、日本人にも、怒りは燃えるときがある。そういう怒りの発露を、ものすごく、上手に利用されたのが、安保反対運動、そして、その後の学生運動、その後の、赤軍派などの、活動、そして、三里塚闘争などだったような気がします。これらの大闘争の結果、真面目で有為な若者が大量に、表に出られない存在として、社会を形成する中核となれないこととなりました。

 それが、今の日本で、真面目さを忌避させる傾向を長らく、育てた原因のひとつでもあると思っております。現代の日本、特に目立つ場所である、メディア等は、当時、ノンポリと呼ばれた人々によって、支配をされております。

 あの当時に真正面から巻き込まれた普通の感覚の青年や女子は、今では、中年や老人として生きているはずですが、政治からは、離れるように務めて、ひっそりと暮らしているでしょう。市会議員のレベルでさえ、代議士などには、なっていないはずです。

 さて、私と学生運動との関係ですが、心情的にはノンポリではありません。しかし、私はものすごく、観察眼が、鋭くて、ああいう運動の内部にある矛盾には、スグ、気がつくほうで、それゆえに、巻き込まれたくないと思いました。

 巻き込まれやすい方ですが、『巻き込まれたくない』と決意していました。その土台が何かといえば、満州の引き上げも、その一つとして、関係があるでしょう。人生の途中で一回、敗戦と言う大挫折があって、命からがら逃げてきたわけですね。両親の苦労を思えば、『身体髪膚これ、親にうく』という感じで、軽々しい、行動は取れませんでした。就職はしなくてはいけないと思っておりました。就職に対して不利になる、学生運動には、巻き込まれたくないと思っておりました。

    2009年2月6日      川崎 千恵子 (筆名 雨宮 舜)
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敗戦のショックと、紙の資産が駄目な話・・・・・私と中国―1

2009-02-05 19:18:57 | Weblog
 少し、映画『鬼子来了』から離れて、私と中国の関係に入って行きましょう。よく老人がこどもに、昔語りを聞かせるのが遠野とか、広島で、行われているとテレビなどで伝えられますが、私もそういう孤老のひとりとして、ぜひ、自分の体験を、お話をしておきたいです。小説でもなく、論文でもないが、心にしみる話として聞いていただきたいのです。

 あ、また、横揺れが始まりますが、今、市町村合併で、古い地名が消えていますが、あれも、大問題ですね。歴史の伝承がしにくくなります。京都がほとんど、地名変更をしないのは、正解です。西東京市なんて、何がなにやらわかりません。保谷とか、田無ですか? 風情のある名前があったのに。そして、省庁の名前も変更が行われております。これも、歴史上の事跡とか、人物像を、把握するのに、邪魔と言うか、妨害を与えています。『こういう施策をする文部省の、本当の意図はどこにあるのか?』 と疑いを持ちますね。

 と言うのも、人間の基本的な尊厳を守り、財産を守るためには、国家と言うのがどれほど、基本になり大切であるかと言うことを、あの敗戦時の満州で、残された日本人は、・・・・・満鉄社員であろうと、開拓農民であろうと、一兵卒であろうと、・・・・・すべてが、感じたはずなのです。シベリア抑留に出遭った人々は、特に、そのことを銘記しているはずです。

 今の政治に不満を持つ人は多いでしょうし、言論の自由があるわけですが、福田元首相が、辞任の際、無礼な記者団に対して、一種の切れた現象を起こして、「私はあなた方とは違うのです」と仰ったこと・・・・・などを、あげつらい・からかうのは、国家としては大損失なので、そういう方向へ持っていこうとするメディアのニュースを、私はこのごろ信じていないのです。福田元首相が、ああいう風に仰るのは、当たり前のことです。

首相と言うのは激務なのですから、尊敬をしなければ、国家が成り立ちません。国家がぶらぶらになり、ずたずたになり、弱体化します。新聞記者が、無礼に過ぎるのは、そのほかにも数々、見聞きしており、一般的な大衆と言うか、普通の日本人は、『嫌な現象だ』と思っているはずです。知らぬは、<ある意図を持って、そういう風に記者を教育している>メディアの、トップばかり・・・・・でしょう。

だから、新聞が読まれなくなっているし、・・・・・そのうち、テレビを見る人も減ってくるかもしれません。ともかく、地上波のお笑い系番組が衰退し始めたことは知っています。
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 さて、敗戦を迎え私の両親は無一物の人間となりました。本当なら、母の持参金があるはずでした。父はプライドの高い士族の家、ただし、家禄(給料)を失った貧乏な家の次男です。実の父も早く亡くなったので、城内(堀の内)にある家を捨て、だいだい山を買い、夏みかんの栽培と、長兄が先生をする給料で、父の学資も生み出されました。一方で母は地主階級の娘なので、戦前には身分は父に比べて低いが、蓄えのある、裕福な家の娘でした。それで、規模はとても小さいながら、一種の政略結婚と言うわけだったのです。

 母の資産を管理していたおじが、「申し訳ないが、預かっていた持参金四千円を、今、ここであなたに渡すが、反故になってしまって・・・・・」といったそうです。1945年の敗戦で、新円切り替えと言う事が起こり、日本の中産階級は一気に資産を失ったのです。まあ、それは、上流階級だって同じことだったのかもしれませんが、・・・・・

 つまり、両親が結婚したころから、敗戦前までの、四千円と言うのは、東京で一軒の家を買えるぐらいの金額でした。が、新円切り替えにより、一か月分の給料程度の、金銭と化してしまったのです。その時に母は、父が自分を離縁するのではないかとおびえたそうですが、別に父はそのこと(つまり、結婚の主要な条件が崩れたこと)を問題ともせず、離縁ともならず、それを、感謝したそうで、一緒にいろいろ、これからの苦労をしていく覚悟が、母の方に、出来た模様です。

 そのほかお金になりそうなもの、自分の絵はともかくとして、有名な日本画家の絵なども、すべて、満州においてきたのかなあ。ほんの少しだけ、表装をはがして母が着ている帯の芯として持って帰ったそうですが・・・・・

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 そして、その後、父は、資産は必ず不動産の形で蓄えようと考えるようになりました。よく資産形成は、三分主義でとも言われています。不動産、株券など、普通貯金や金など換金が容易なもの。それも、知っていました。だから、母が株の投資をするのを、容認していましたが、自分はそういう紙切れによる資産には、ほとんど、興味がなく、貯金は不動産を買うと言う形で、積み重ねていました。それも、値上がりを待つと言う意味ではなくて、ごく、健全な貯金の一種としてです。それで、大手不動産が開発した山の上の、住宅地などは買わず、自分で、開発予定図などを手に入れて、これから、発展しそうな町の駅の近くで、住居にしてもよし、店舗にしてもよいというような土地を、駅前不動産屋でひとつ、ひとつ、見つけては買っていったのです。だから、戦前はともかく、戦後は、絶対に、遊ばない人でした。バーとか、クラブにも行かないし、ゴルフも遣らないし、車にも興味はありません。

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 そして、「生命保険に入るのも止めなさい」と常々言っていました。それは、財産管理をほかの人に任せるわけですから、自己責任が果たせず、しかも敗戦と言うような大ショックの際は、生命保険も紙切れになる事を知っていたからです。土地なら、最悪の場合は菜園を開けば、食料だけは確保できます。お米は出来なくても、芋かとうもろこしは栽培できるでしょう。

 今から、70年前から、60年前の日本とは、食料すら確保できない、すさまじい状態の国だったのです。そういうときに、庭があり、ほうれん草でも栽培できたら助かりますね。だから、土地は大切だと思っていた模様です。

 父がもし、元気で生きていたら、サブプライムローンなど、馬鹿らしいみぎりだと、笑ったでしょうし、投資信託と言う形で、それに、組み込まれるのは、その本人が悪いといったと思います。

 「今回の金融クラッシュで、「500万円を失っちゃったわ。私が馬鹿だったとは認めるわよ。だけど、未亡人の私には大変なお金だったの。あなたみたいな、生活とは、無縁な最近よ」と仰った友人が、あります。私は投資に回すお金がないこともありますが、もし、あったとしても、その最近の形式の投資には、回さなかったと思います。
 
 紙切れで保証をされている資産は危ないのです。アメリカ系の銀行は、その通帳まで、ないようで心配ですが、これからは、日本でも、株式も電子化されて、紙がなくなるそうです。ますます、怪しくなりましたね。個人が頼るべきは、レアーメタルか、土地でしょう。

 だけど、私自身は、不思議なことに、こと、お金に関しては、一種の恵まれた人であり、いつも、『これで、駄目か』と思うときに、どこからか、入ってきて、救われる人です。その代わり、日々遊んでいるつもりはないのですよ。給料をもらえる仕事ではないが、日々、絶対に、時間を無駄にしないと言う覚悟で生きております。だから、労働は重ねているつもりです。それが、不思議な恵みとなって、天から降ってきます。

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 3日前に、主人が母を見舞ってくれました。一時間程度、話したそうです。「満州での思い出はどうオ?」とか「最近、日本でも経済が大ショックでね」と話しかけると、94歳の母は、「まあ、日本が貧乏になったとしても、中国の農村ほど、貧乏になることはありえないでしょう」と言っていたそうです。

 この言葉をここに置くのは、中国を馬鹿にしたいためではありません。ただ、日本の特質を、言っていて、その国家としての規模やら、歴史の積み重ねによって、いわゆる、蓄積がある国だということに、皆様に気がついていただきたいからなのです。中国は規模が大きすぎます。だから、運営がうまく行きません。日本は、今持っている蓄積を、大切に、守らなければなりません。

 私は、右翼でもなんでもないが、ちょっと、国家としての塊を忘れるような風潮が、社会の中に、特に最近、多く見られるので、「それは、危険ですよ」といいたいだけなのです。それは、敗戦と言う大ショックを、深く理解しているからです。小さかったけれど、その後、語られた、両親自身の言葉や両親とお客様との会話を傍で、聞いていて、耳学問として、骨身にしみて感じているからです。

      2009年2月4日   雨宮 舜(川崎 千恵子)
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大東亜戦争とは、石油が争点だったのです。・・・『鬼が来た』解析3

2009-02-03 14:35:46 | Weblog
 映画『鬼が来た』は大東亜戦争に派遣をされた兵士(小野田さんほど上級の士官ではないという設定)が、村に取り残され、人質にされるのですが、その戦争は石油が争点だったのです。石油は今のアラブ諸国のOPEC等がまだ無い時代で、アメリカが世界の大国へと躍り出る重要なアイテムだったのですが、日本には少ないものです。

 エネルギー源としては、水力発電と石炭が当時からあったでしょうが、こと、戦争に関しては、石油がないと勝てないのです。戦艦大和は石炭で動く、蒸気汽船ではありませんし、神風特攻隊といえども、石油が無くては、飛びたてません。あの頃は現在と違って、中国を舞台として、世界各国が覇権争いをしていたので、早晩戦争は避けられないという国家としての見込みがあり、石油を増産することは急務でした。

 で、私の父が、満鉄調査部、中央試験所と言うところに勤務できたのは、石油が専門のエンジニアーだったからです。しかし、中国東北部には、陸地には油田は見つかりません。ただ、炭鉱があるのです。その炭鉱の当時の大手が、露天掘りで有名な撫(?)順炭鉱です。そこに少量ながら、重油を含む種類の石炭(頁油岩)が、あり、そこから、石油、軽油やガソリンを含めて生産が可能かどうかを、調べたりするのが、仕事でした。

 この間芦屋から、電話で、二時間に及んで、私の五冊目の本に対して解説、批評、感想を言ってきてくださった方があるのですが、彼女が仰るのには、「当時の満州、特に満鉄ってリヴェラルだったのですってね」と。そうなのです。図に乗っていうわけではないが、満鉄の人々はもっとも、効率よく仕事を達成するために、上下関係がわりと、平たくて、今日本で話題になっているパワハラなどあまり無かったのです。まあ、これは、関東軍とは全く関係のない、事務職関連の人々の間の話ですが、引き上げ後も、石油会社、シンクタンク、および官庁などに再就職は出来たのです。

 そこへ持ってきて、私の母は割りと妊娠しにくいタイプで、私はまだ生まれず、それゆえに夫婦で、中国を旅行しまくり、北京、チンタオ程度までは足を伸ばしましたし、それ以北の遺跡はほとんどを訪ね、油絵を週末に描く事を趣味としておりました。この間関口宏の中国のたびで、大同の石窟遺跡が炭鉱の炭塵で真っ黒になっているという話でしたが、父の頃はまだ、炭鉱は開発をされておらず、石窟佛を描いた絵は新聞沙汰になるほどの評判をとり、ラストエンペラー溥儀氏にお買い上げとなりました。

 他の絵も、満鉄総裁室等を飾っていたそうです。しかし、戦争が終わると、その総裁室等の絵は、すべてずたずたに切り裂かれていたそうです。別に戦意発揚の戦争画ではなくて、すべて、中国の遺跡を、描いたものでした。だけど、それでも、切り裂かれたのです。日本人がどれほど、憎まれていたかを明らかにしています。母が言うにはドンヤングイ(東洋鬼)と、日本人は、言われていたそうで、それゆえに、私は、『鬼子来了(クィズ・ライラ=邦題・鬼が来た)』をタイトルからして、ぴんときたわけです。

もう一度父に戻れば、父は、給料を別業でもらっているサラリーマンなので、絵で、食べている人ではなかったので、好きな題材を選ぶ事ができるし、中国を文明の上で長い歴史を持つ大国として尊敬していましたので、繰り返しますが歴史上の遺跡ばかりを描いていたのです。上のブログ・パーツは、当時のものではなくて、親戚に送っていた・・・・・絵の具がばらばらに、折れてはがれた(戦時中の絵の具は、質が悪かったのでしょう)・・・・・ものを、自分が模写したもので、しかも印刷物からの採録ですので、迫力がありませんが、『熱河』のラマ教廃寺です。

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 しかし、敗戦になると、状況は一変しました。ロシア軍の侵入におびえるし、実際に、侵入されて、母は庭の鶏小屋に逃げ込み、父は、私が、母を求めて泣き喚くのではないかと、それを心配して、怯えたそうですが、どうしてか、私は声も出さず、『ロシア兵を、何も刺激しなかったので、本当に助かった。お前は、赤ちゃんのときから賢かったなあ』と言ってくれました。時計とか、指輪や現金を渡すだけで帰って行ってくれたそうで、一家が全員死なないで、引き上げる事ができたのですが・・・・・

 事は、そんなに簡単でもなくて、どうしてか、母はパラチフス、私は腸チフスへ罹りました。もともと、食べ物が無いところへ持ってきて弱りきった胃腸には、卵を料理したものぐらいしか、流し込むことが出来ず、流動食なども無いので、それこそ、病気の方で死ぬ恐れがあったのですが、父が、孤軍奮闘して食料を探して来てくれたそうです。父自身、肺浸潤(軽い結核と言うか、初期の結核というか)だったそうですが、それでも、幼い娘と妻のために、衣料を売ったり、その他の手立てで、卵などを入手してきてくれたそうで、命が繋がりました。そのとき、母は、初めて、父が本当は、愛情深い人であることを知ったそうです。

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 ところで、どうしてあんなに、病気が蔓延したかですが、人々が、体力的に弱っていたことも確かでしょうが、あちら方面には731部隊(細菌兵器などを、研究していたところ)があったので、そこから、何かが洩れたか、むしろ、・・・・・その部隊員たちが延命のために、その細菌兵器の、猛毒振りを、実験して、連合国側の恩赦を願ったのではないか、などと、・・・・・うがった見方さえする、こともあります。731部隊は日本の暗部ですが、その戦後処理や利用の仕方は、さらに暗黒部分へ入っていくはずです。それは、世界的な規模の暗黒部分へ入っていくでしょう。

  では、今日はここで、いったん閉じましょう。
    2009年2月3日       川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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銀座で一万円のおにぎりを買わされた夢・・・「鬼が来た」解析2

2009-02-03 11:56:17 | Weblog
 チャン・イーモウ監督が、香川照之に向かって、開口一番「『鬼が来た』を見ましたよと言うのですが、私は、監督がどこで、かつ、何時見たかが不思議です。チャン・イーモウ監督は世界の三大映画祭のグランプリを取っています。ゆえに、カンヌ映画祭辺りで出品作としての、この映画を見たのかしら。それとも、今、北京オリンピックを終えて、自信を持った中国が、文芸映画でもあり、カンヌのグランプリを取ったこの名作を、国内でも公開し始めたのでしょうか?

 それとも、一種の海賊版として、DVDが流れているのでしょうか? 日本でも観客動員数と言う意味ではヒットしなかった映画だと思います。中国でも公開されず、日本でもヒットしなかったとなると、不運な芸術作品のひとつとなります。その大人口の国、中国でなぜ、公開をされなかったかと言うと、ともかく、東北部の農村の、1940年代の貧乏振りを描いていてそれが、国家の威信を傷つけるということでしょう。もうひとつ、理由が推察されますが、それについては、後で述べます。

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 その中国東北農村部の当時の貧しさを私に知らしめた、最初の本は嵯峨浩(ひろ)さんの『流転の王妃』でした。そして、例の『大地の子』の映像・・・・・しかし、あれは、原作より甘い描写になっているそうですね。細かいことを言えば、日本側の時代設定に時間的な矛盾があるけれど、名優の出演ばかりで、非常に感銘が強かっただけにその農村部の貧しさが、私には、余計にきつかったのです。

 そして、その次は宮尾登美子女史の『朱夏』です。私は、宮尾作品は、『蔵』以前の作品には、『相当えげつないところがあるなあ』と思っておりました。特に、芸術、および芸道上、有名な家を、テーマにした作品は、『書かれた方が、ずいぶん我慢をなさっておられるなあ』と思ったぐらいです。篤姫ほど、歴史上意味のある人物なら、それは、よいんですが、でも、一市民でもある芸術家の一家が、これほど、内部を曝されては、困惑なさっているのではないだろうかと思っていたのです。が、この『朱夏』では、相当な程度で、ご自分を素直にさらしていらっしゃると思って、初めて好感を持ちました。

 しかし、この朱夏でも、その満州へ送り込まれた開拓団の過酷な逃避行が描かれており、私はますます、引揚者であることを隠すようになりました。ただ、『朱夏』の中で『天国の住人みたいに差がある優遇を受けている社員たち』と表現をされている満鉄の社員、しかも石油を扱うインテリとして中央試験所(一種の今で言うシンクタンク)に父が勤めていた、家の矛盾が、さらに、私を複雑にしていたのです。ですから、その後現れた中西レイの作品など、本も読まなければ、テレビ映像も見ませんでした。ヒットしたみたいですけれど。

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 さあて、今日もその複雑な思いを描くぞと思って寝ていた明け方、とんでもない面白い夢を見ました。これは、この解析の途中・休憩時間(映画館ならトイレタイム)として、お読みくださいませ。

 私は毎週2回ほど、銀座で絵を見て回っています。個展をしている作家と言うのは、自分の経験からも理解できますが、相当高揚していて、緊張しています。そういう人に、これまた、意味のある会話をぶつけていくのは、大変疲れることなのです。しかも、私は既存の美術評論家と棲み分けをするために、質問を相当考えて、ぶつけますので、道場破りと、自称しているほど、短時間で緊迫をしたやり取りを交わします。ときどき、その話が長引いて、銀座を去る時間が遅くなります。

 その日も、10時近くだったので、普通のお値段のレストランには、既に入店が出来ない時間帯で、私は今まで入った事の無い割烹へ、入って、おにぎりを作ってもらうことをお願いします。すれ違いに男性客が二人出て行きましたので、このお店も閉店が近いことを悟り、「そのおにぎりは、持ち帰られるようにしてください」と頼みます。

 オーナー(板前)の顔には見覚えがないのですが、なんとフロアー係は、大女優の池内淳子女史でした。料亭のおかみ役と言うと、彼女を思い出す私なのです。さて、待っていると包みが出来上がりましたが、何と、お値段が、1万500円だといわれたのです。私は最近お金を使わないようにするために、お財布に一万円しかもって出ないことにしています。ちょっと、青くなりました。

 しかし、幸いなことに、最近は、五冊目の本を郵送したりするために、その費用として別途のお金も持っていますので、バッグの中を見ると、一万五千円以上が入っていて、先ずほっとしました。しかし最近の私は物忘れがひどくなったので、一箇所に一万五千円を入れているわけではなくて、それぞれ、5千円ずつ、別々に入れている人なのです。

 最初は真面目に一万五百円を出そうと思いました。でも、不器用な私の手に、当たったのは、五千円札でした。それで、突然ですが、機転を利かせて、「5千円しか持っていないけれど、これでいい?」と聞いてみました。駄目で元々と思いながら。すると、店主は、「O.K.」とのことです。

 そうですね。おにぎり、二個(店主はどうも、四個作ってくれたらしいのですが)で、一万五百円は、銀座固有の値段です。高すぎますよね。庶民感覚からすれば。だから、負けてくれたのです。あっさりと半値に。それに最後の客だったらしいから、一種の残り物でもあるし。

 私はおなかがすいているし、糖尿病ではないのですが、エネルギー不足になるとぶっ倒れかねない人なので、早速、中身を出して見ます。すると、おにぎりのはずが、一つは手巻き寿司になっていて、海苔の内側にご飯ではなくて、最上級のトロがべっとりと撒いてあって、さらに、内側に入れ子になった小さな手巻き寿司が入っていて、そこには、これまた、最上級の、明太子とか、いくらが、入っていたのです。『うわあ、これが、4個で、五千円なら仕方がないわねえ。正当なお値段だったわ』と思ったところで、猫が枕元に、呼びに来ました。

 「起きなさい。お母さん、遅いわよ」といいに来たのです。午前八時でしたけれど。で、これが夢であった事が自覚をされました。ただ、二個目と三個目は夢の中でも、食べられ無かったのが、残念です。どんなに、豪華においしく出来ていただろうかと思えば。

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 この夢は、私の潜在意識の中にある、恐れと、嬉しさのを両面を反映しています。

 私が常々考えてきたことは、
『ああ、飽食の日本よ。だけど、この平和が維持されているのも、国家があるからです。国家がしっかりしていないと駄目なのですよ』と言うことです。それを、AOLのメルマガで、11年間にわたり折に触れ、何度も何度も主張をしてきました。

 そんな私にとって、この今の、経済クラッシュと、突然の消費の落ち込みは、予言が当たった様で、嬉しくもあり、また、悲しくも、困惑のみぎりでもあり・・・・・なのです。では、長くなりますので、今日はここで、きりましょう。

 なお、図版は、今朝、新聞のチラシとして入っていた、鎌倉駅前東急(スーパー)のチラシから、一部をとりました。夢の中の手巻き寿司とは違って、恵方まき(太巻き)の広告です。撮影者には、あしからずご了承をいただきたく。
  では、2009年2月2日   川崎 千恵子(筆名 雨宮舜)
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私は大連で生まれた。が・・・『鬼が来た』解析―1

2009-02-01 12:48:54 | Weblog
 映画『鬼が来た』は、非常に複雑な筋の映画です。単なる反戦映画でもないし、プロパガンダ映画でもありません。のちほど、この映画の中国側スタッフについて、詳しく述べるはずですが、中国で、上映禁止の期間があったとも聞いています。海外で評価が高くなったので、中国でも解禁をされたのでしょう。

 ところで、制作側ではなくて、鑑賞者側にも、受け入れる素地があるかどうかで、また、変ってくると思うのです。私は、この映画を渋谷のユーロスペース(?)だったか、小さな映画館(インディ系文芸映画を上映する映画館)まで、わざわざ出かけていってみました。それほど、入れ込んだのには、私の方に、生涯にわたる、中国との心理的な関連があるのが原因だと思います。

 私は生涯にわたって、アメリカと、中国との連携と言うか、リンクを捨て去る事ができず、心の端にいつも、その両国が引っかかっている人間です。

 と言うのも、私は満鉄の社員の子として、往時の大連病院で生まれたのです。清岡卓之の『アカシアの大連』に描かれたように、「大変美しい街であったし、その病院の近代的なことは、ちょっと、当時の、日本では見当たらないほどの施設だったよ」と、父はいつも、大連を懐かしがっておりました。
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 しかし、私は長らく、大連生まれであることを伏せておりました。満州からの引揚者に対する、差別感情が、日本国内にあることを、微妙なまでに、察知していたからです。それは、極く、小さい頃からの自分ひとりのうちに秘めた知識でした。

 中国残留孤児の問題がテレビニュースとして大きく取り上げられました。それもこの感覚を大きく、強めました。それは、1959年に終わりを迎えたと、日本政府は決め込んだ模様です。しかし、実際には気の毒な、残留孤児が中国に残されていたのでした。
 
 それを、山本慈昭という僧侶の方が、尽力をして、救い出したのです。しかし、中国には、今でも見られる、身分差別があり、その最も低い位置を示す烙印として、かれらには『出自は日本人である』が生涯ついて回ったために、よい教育を受けたり、よい企業に就業をする事が出来ず、見かけ上も、大変にやつれた存在として・・・・・にほんの、テレビ画面に大きく写ったのです。

 一方で、日本は右肩上がりの経済成長を遂げ、お金がある事が大変高い価値を持つようになりました。ブランド品の大量消費、・・・・・私にとって、その種の傾向を表すものとして、一番印象に残っているテレビ番組は、ある奥様のジュエリーのご披露番組です。彼女は例の巨塔六本木ヒルズに、居住用の部屋を一室確保しているそうですが、それは、実際に住むためではなくて、一種の金庫として、利用をしているそうなのです。セキュリティが万全な場所として・・・・・そこにテレビ・クルーがお邪魔をして、彼女の宝石コレクションを見せてもらうという番組でした。

 ちょっと、話は飛びますが、こういう番組にでた、大金持ちを誇る女医さんのお嬢様が誘拐されるということが起こって、やっと、出演者側に、こういう番組に出ることのばからしさが認識をされてきたのか、こういう番組が減ってきました。私は対税務署の関係から考えても、普通に真面目に納税をしていたら、あれだけの、宝石をコレクションできるはずが無いので、『この奥さんは、本当の馬鹿だなあ』と、思っておりました。が、ともかく、そういう流れが、やや収まったところに、この経済ショックが訪れ、やっと、ああいう風にお金持ちであることを誇る番組が減ったようで、それは、日本人として、祝福をしたい流れです。日本人の基本的な性向として、こういう見せびらかしは、昔は無かったはずなのです。

 それから、母は中国語を習っていて、満州で中国人たちとも付き合っていて、それから、父が絵を描くのが好きだったので、北京を始め中国国内を、旅行をたくさんしていますが中国人だって、1945年以前は絶対に、自分が金持ちであることを誇示しなかったそうですよ。たとえば、お店に入ると、ほとんど、価値の無いものしかおいていない。だけど、こちらが相当な目利きであり、お金を持っていることを知ると、奥に隠してあったもっと、高級なものを持ってきて勧めるのだそうです。母は、「戦乱が長かった中国らしい発想だわね。日本にはああいう発想はないわ。いいものを店先におきます」と言っていました。

でも、元に戻れば、日本の大衆の好む、トレンド(特に精神的な流れ)が、急に『金持ち最高なのだ』、と言う方向に進めば、引揚者と言う、貧乏がついて回るイメージは、外に出したくないものでした。特に1995年にNHKで、七十周年記念番組として、『大地の子』が放映されたことも大きいのです。

そこには、映像として、満州における惨めな日本人の姿が写されておりました。ちょっと、打ちのめされる感じがありましたね。私はこういうテーマで小説を起こした山崎豊子さんは、見事な大人物だと思っております。しかし、マクロな文化とミクロな文化は時に対立します。それで、私は、自分が大連生まれであることを長らく、公にしませんでした。

そして、そこから始まって、愛憎あざなう縄のごとき、対中国感情が私に生まれるのです。では、今日はひとまず、ここで、終わりましょう。これは、延々と続くはずです。

2009年2月1日       川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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