映画『鬼が来た』は大東亜戦争に派遣をされた兵士(小野田さんほど上級の士官ではないという設定)が、村に取り残され、人質にされるのですが、その戦争は石油が争点だったのです。石油は今のアラブ諸国のOPEC等がまだ無い時代で、アメリカが世界の大国へと躍り出る重要なアイテムだったのですが、日本には少ないものです。
エネルギー源としては、水力発電と石炭が当時からあったでしょうが、こと、戦争に関しては、石油がないと勝てないのです。戦艦大和は石炭で動く、蒸気汽船ではありませんし、神風特攻隊といえども、石油が無くては、飛びたてません。あの頃は現在と違って、中国を舞台として、世界各国が覇権争いをしていたので、早晩戦争は避けられないという国家としての見込みがあり、石油を増産することは急務でした。
で、私の父が、満鉄調査部、中央試験所と言うところに勤務できたのは、石油が専門のエンジニアーだったからです。しかし、中国東北部には、陸地には油田は見つかりません。ただ、炭鉱があるのです。その炭鉱の当時の大手が、露天掘りで有名な撫(?)順炭鉱です。そこに少量ながら、重油を含む種類の石炭(頁油岩)が、あり、そこから、石油、軽油やガソリンを含めて生産が可能かどうかを、調べたりするのが、仕事でした。
この間芦屋から、電話で、二時間に及んで、私の五冊目の本に対して解説、批評、感想を言ってきてくださった方があるのですが、彼女が仰るのには、「当時の満州、特に満鉄ってリヴェラルだったのですってね」と。そうなのです。図に乗っていうわけではないが、満鉄の人々はもっとも、効率よく仕事を達成するために、上下関係がわりと、平たくて、今日本で話題になっているパワハラなどあまり無かったのです。まあ、これは、関東軍とは全く関係のない、事務職関連の人々の間の話ですが、引き上げ後も、石油会社、シンクタンク、および官庁などに再就職は出来たのです。
そこへ持ってきて、私の母は割りと妊娠しにくいタイプで、私はまだ生まれず、それゆえに夫婦で、中国を旅行しまくり、北京、チンタオ程度までは足を伸ばしましたし、それ以北の遺跡はほとんどを訪ね、油絵を週末に描く事を趣味としておりました。この間関口宏の中国のたびで、大同の石窟遺跡が炭鉱の炭塵で真っ黒になっているという話でしたが、父の頃はまだ、炭鉱は開発をされておらず、石窟佛を描いた絵は新聞沙汰になるほどの評判をとり、ラストエンペラー溥儀氏にお買い上げとなりました。
他の絵も、満鉄総裁室等を飾っていたそうです。しかし、戦争が終わると、その総裁室等の絵は、すべてずたずたに切り裂かれていたそうです。別に戦意発揚の戦争画ではなくて、すべて、中国の遺跡を、描いたものでした。だけど、それでも、切り裂かれたのです。日本人がどれほど、憎まれていたかを明らかにしています。母が言うにはドンヤングイ(東洋鬼)と、日本人は、言われていたそうで、それゆえに、私は、『鬼子来了(クィズ・ライラ=邦題・鬼が来た)』をタイトルからして、ぴんときたわけです。
もう一度父に戻れば、父は、給料を別業でもらっているサラリーマンなので、絵で、食べている人ではなかったので、好きな題材を選ぶ事ができるし、中国を文明の上で長い歴史を持つ大国として尊敬していましたので、繰り返しますが歴史上の遺跡ばかりを描いていたのです。上のブログ・パーツは、当時のものではなくて、親戚に送っていた・・・・・絵の具がばらばらに、折れてはがれた(戦時中の絵の具は、質が悪かったのでしょう)・・・・・ものを、自分が模写したもので、しかも印刷物からの採録ですので、迫力がありませんが、『熱河』のラマ教廃寺です。
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しかし、敗戦になると、状況は一変しました。ロシア軍の侵入におびえるし、実際に、侵入されて、母は庭の鶏小屋に逃げ込み、父は、私が、母を求めて泣き喚くのではないかと、それを心配して、怯えたそうですが、どうしてか、私は声も出さず、『ロシア兵を、何も刺激しなかったので、本当に助かった。お前は、赤ちゃんのときから賢かったなあ』と言ってくれました。時計とか、指輪や現金を渡すだけで帰って行ってくれたそうで、一家が全員死なないで、引き上げる事ができたのですが・・・・・
事は、そんなに簡単でもなくて、どうしてか、母はパラチフス、私は腸チフスへ罹りました。もともと、食べ物が無いところへ持ってきて弱りきった胃腸には、卵を料理したものぐらいしか、流し込むことが出来ず、流動食なども無いので、それこそ、病気の方で死ぬ恐れがあったのですが、父が、孤軍奮闘して食料を探して来てくれたそうです。父自身、肺浸潤(軽い結核と言うか、初期の結核というか)だったそうですが、それでも、幼い娘と妻のために、衣料を売ったり、その他の手立てで、卵などを入手してきてくれたそうで、命が繋がりました。そのとき、母は、初めて、父が本当は、愛情深い人であることを知ったそうです。
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ところで、どうしてあんなに、病気が蔓延したかですが、人々が、体力的に弱っていたことも確かでしょうが、あちら方面には731部隊(細菌兵器などを、研究していたところ)があったので、そこから、何かが洩れたか、むしろ、・・・・・その部隊員たちが延命のために、その細菌兵器の、猛毒振りを、実験して、連合国側の恩赦を願ったのではないか、などと、・・・・・うがった見方さえする、こともあります。731部隊は日本の暗部ですが、その戦後処理や利用の仕方は、さらに暗黒部分へ入っていくはずです。それは、世界的な規模の暗黒部分へ入っていくでしょう。
では、今日はここで、いったん閉じましょう。
2009年2月3日 川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
エネルギー源としては、水力発電と石炭が当時からあったでしょうが、こと、戦争に関しては、石油がないと勝てないのです。戦艦大和は石炭で動く、蒸気汽船ではありませんし、神風特攻隊といえども、石油が無くては、飛びたてません。あの頃は現在と違って、中国を舞台として、世界各国が覇権争いをしていたので、早晩戦争は避けられないという国家としての見込みがあり、石油を増産することは急務でした。
で、私の父が、満鉄調査部、中央試験所と言うところに勤務できたのは、石油が専門のエンジニアーだったからです。しかし、中国東北部には、陸地には油田は見つかりません。ただ、炭鉱があるのです。その炭鉱の当時の大手が、露天掘りで有名な撫(?)順炭鉱です。そこに少量ながら、重油を含む種類の石炭(頁油岩)が、あり、そこから、石油、軽油やガソリンを含めて生産が可能かどうかを、調べたりするのが、仕事でした。
この間芦屋から、電話で、二時間に及んで、私の五冊目の本に対して解説、批評、感想を言ってきてくださった方があるのですが、彼女が仰るのには、「当時の満州、特に満鉄ってリヴェラルだったのですってね」と。そうなのです。図に乗っていうわけではないが、満鉄の人々はもっとも、効率よく仕事を達成するために、上下関係がわりと、平たくて、今日本で話題になっているパワハラなどあまり無かったのです。まあ、これは、関東軍とは全く関係のない、事務職関連の人々の間の話ですが、引き上げ後も、石油会社、シンクタンク、および官庁などに再就職は出来たのです。
そこへ持ってきて、私の母は割りと妊娠しにくいタイプで、私はまだ生まれず、それゆえに夫婦で、中国を旅行しまくり、北京、チンタオ程度までは足を伸ばしましたし、それ以北の遺跡はほとんどを訪ね、油絵を週末に描く事を趣味としておりました。この間関口宏の中国のたびで、大同の石窟遺跡が炭鉱の炭塵で真っ黒になっているという話でしたが、父の頃はまだ、炭鉱は開発をされておらず、石窟佛を描いた絵は新聞沙汰になるほどの評判をとり、ラストエンペラー溥儀氏にお買い上げとなりました。
他の絵も、満鉄総裁室等を飾っていたそうです。しかし、戦争が終わると、その総裁室等の絵は、すべてずたずたに切り裂かれていたそうです。別に戦意発揚の戦争画ではなくて、すべて、中国の遺跡を、描いたものでした。だけど、それでも、切り裂かれたのです。日本人がどれほど、憎まれていたかを明らかにしています。母が言うにはドンヤングイ(東洋鬼)と、日本人は、言われていたそうで、それゆえに、私は、『鬼子来了(クィズ・ライラ=邦題・鬼が来た)』をタイトルからして、ぴんときたわけです。
もう一度父に戻れば、父は、給料を別業でもらっているサラリーマンなので、絵で、食べている人ではなかったので、好きな題材を選ぶ事ができるし、中国を文明の上で長い歴史を持つ大国として尊敬していましたので、繰り返しますが歴史上の遺跡ばかりを描いていたのです。上のブログ・パーツは、当時のものではなくて、親戚に送っていた・・・・・絵の具がばらばらに、折れてはがれた(戦時中の絵の具は、質が悪かったのでしょう)・・・・・ものを、自分が模写したもので、しかも印刷物からの採録ですので、迫力がありませんが、『熱河』のラマ教廃寺です。
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しかし、敗戦になると、状況は一変しました。ロシア軍の侵入におびえるし、実際に、侵入されて、母は庭の鶏小屋に逃げ込み、父は、私が、母を求めて泣き喚くのではないかと、それを心配して、怯えたそうですが、どうしてか、私は声も出さず、『ロシア兵を、何も刺激しなかったので、本当に助かった。お前は、赤ちゃんのときから賢かったなあ』と言ってくれました。時計とか、指輪や現金を渡すだけで帰って行ってくれたそうで、一家が全員死なないで、引き上げる事ができたのですが・・・・・
事は、そんなに簡単でもなくて、どうしてか、母はパラチフス、私は腸チフスへ罹りました。もともと、食べ物が無いところへ持ってきて弱りきった胃腸には、卵を料理したものぐらいしか、流し込むことが出来ず、流動食なども無いので、それこそ、病気の方で死ぬ恐れがあったのですが、父が、孤軍奮闘して食料を探して来てくれたそうです。父自身、肺浸潤(軽い結核と言うか、初期の結核というか)だったそうですが、それでも、幼い娘と妻のために、衣料を売ったり、その他の手立てで、卵などを入手してきてくれたそうで、命が繋がりました。そのとき、母は、初めて、父が本当は、愛情深い人であることを知ったそうです。
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ところで、どうしてあんなに、病気が蔓延したかですが、人々が、体力的に弱っていたことも確かでしょうが、あちら方面には731部隊(細菌兵器などを、研究していたところ)があったので、そこから、何かが洩れたか、むしろ、・・・・・その部隊員たちが延命のために、その細菌兵器の、猛毒振りを、実験して、連合国側の恩赦を願ったのではないか、などと、・・・・・うがった見方さえする、こともあります。731部隊は日本の暗部ですが、その戦後処理や利用の仕方は、さらに暗黒部分へ入っていくはずです。それは、世界的な規模の暗黒部分へ入っていくでしょう。
では、今日はここで、いったん閉じましょう。
2009年2月3日 川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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