硬くて古いお話が続いています。でも、<小さなところを、丁寧についていくと、それは、結構大きなところへ繋がる>との信念を持っているので、どうか、このポイントで、もう少し、書かせてください。
ところで、世の中は、ぐんぐん動いています。新しい現象が次々に起こりますが、結構、あの件のリメイク(復元的な踏襲)だなあなどと、思うときもあって、過去を学習することは大切なことだと、私自身が信じているところがあって。
高校のときに、中国へ謝罪をすべきだと強く感じた私は、大学のときに、再びそれを、実践します。30頁の小論文を英語で書け、題材は自由と言う宿題が出たときに、テーマを、満鉄としました。日本人は、満鉄と呼称をしますが、英語では、正式には、南満州鉄道です。つまり、大連を中心として、満州のある部分を制圧した時点での、社名なのでしょう。その会社が現在(といっても、1961年当時のことで、ほぼ、50年も前のことですが)の日中関係に、どういう影響を及ぼしているかを、考えたものです。
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私が通学していた大学には、この手の英語の資料が揃っていて、リットン調査団のレポート、国際連盟における、松岡外相の演説etc を英語で、読み考え抜きました。スケルトン(論文の骨子)は、やはり日本が悪カッタと言うところにおきましたが、高校時代のそれとは、変わって随分、私自身が冷静に事象を見抜けるようになりました。この論文はアメリカ人の教授にもべた褒めをされました。
しかし、このブログでは明かしませんが、在学中にいろいろ、おかしな件もあって、中国と台湾の関係の厳しさにも、国際関係の最先端の厳しさにもふれたような気がします。そのときには、解析が出来ておりませんが、現象はつぶさに、見つめ続けました。
その後、ある経緯で、商社で、中国貿易を担当できないかと、動いた時期もあります。商社の上の方に、親戚の人がいたり、中国語を歓待略字を含めて学習していたりしていましたので・・・・・しかし、とんでもない。あそこは、女性が出入りできるところではない。特に、普通の家庭に育ったような、お嬢さんタイプの人に、行かせられる状況にはないといわれました。
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その件ですが、相手方の宣伝から考えると、ありえないように思えました。たとえば、北朝鮮ですが、チョンリマ(千里馬)運動の宣伝映画が、大学の講堂とか、公民館の劇場とかで、上映されていて、「すごい国だなあ?」と日本人を驚嘆させていた時代です。その宣伝に載せられて、在日コリアンで、国籍を北朝鮮においている人たちが大勢、北朝鮮に帰還をして、その国の最底辺の人間として扱われ、散々な苦しみをなめたことは、今では明らかになっています。土井たか子さんなどは、それを推進したらしいです。
そして、拉致被害さえ起こりました。大韓航空機爆破事件が起こり、それで、いろいろな秘密が外へ出てよかったのですが、あのままだったら、相当な人数(帰国者とその家族を含めれば)が、悲嘆と苦悩にくれ続けていたでしょう。
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で、中国の方は華僑と言うシステムもあるし、国土が広大ですから、北朝鮮ほど秘密主義は守れず、だんだん、その政治システムの害悪も外へ洩れ始め、そこで、自浄作用が起こります。多分、小平さんは、相当な大物だったのです。ちょっと、日本で言えば、金丸信氏と似ていますが、大物だったのです。それで、中国が一変していきます。
1970年代、1980年代、から、1990年代まで、だいたい、日中関係は温和なものだったと思います。それで、私は引き続き中国情報を、把握し続けますが、指して、自分の考え方に、変化を起こしませんでした。つまり、スケルトンとして、日本の侵略が悪かったのだろうと考え、自分が満州からの引揚者であることを隠し続ける生活を送っていたのです。
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それは、私が結婚後で、子育てで忙しかった時代です。
でも、その後で、嵐のような中国の変化が再度、現れるのですが、それを、描く前に、もう一つ、私の実家のムードが、結構モダンなものだったエピソードを披露させてくださいませ。
上に使った写真は、両親が難病に罹った父のリハビリ用に、社交ダンスへ取り組んでいたときのもので、1983年のものです。別に良い写真ではありません。特に、父が、パーキンソン氏病の事(その当時は完治はなく、だんだんに体の機能が衰えて死にいたるしかないと思われていた)をまだ、悩んでいますので、眼がうつろであり、苦しみに満ちています。
それで、週刊誌の写真のごとく、眼を隠しました。技術がまだ、上手ではないです。きちんとした四角を作ってから、それを、ペーストすれば、よいんでしょうが、ブラシ・ツールで、描画を加えておりますので、ラフです。
ただ、私が驚いたのは、これが、1983年のことで、母が、67歳であり、現在の私より、年上だった時代だということです。
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ただ、中国の人々に向かっては、言いたいのですが、この社交ダンスを中国時代に獲得したわけではないということです。植民地の栄華を誇って、楽をしていたというわけではなくて、これは、満州へ行く以前横浜時代に習得した、技術です。
父は結婚後、母をOLにしました。世間知らずで、田舎の女学校を出ただけの母を都会のモガに仕立て上げたかったのです。当時は、為替を扱う唯一の銀行だった、横浜正金銀行に勤めさせ、そこは、就業時間が遅いので、やがて、母自身の決断で、日産自動車へ変っています。
それで、二人で働く、ダブルインカムと言うわけですので、東京や横浜で二人で遊びまくっていた時代のレッスン習得なのです。戦争の影がまだ、色濃くなかった時代の話です。
でも、この70近くになった頃(1983年)のレッスンでは、母を絶対に他の男性とは躍らせなかったそうで、それは、スタヂオ中で、有名な話だったそうです。では、2009年2月7日 川崎千恵子(筆名 雨宮 舜)
ところで、世の中は、ぐんぐん動いています。新しい現象が次々に起こりますが、結構、あの件のリメイク(復元的な踏襲)だなあなどと、思うときもあって、過去を学習することは大切なことだと、私自身が信じているところがあって。
高校のときに、中国へ謝罪をすべきだと強く感じた私は、大学のときに、再びそれを、実践します。30頁の小論文を英語で書け、題材は自由と言う宿題が出たときに、テーマを、満鉄としました。日本人は、満鉄と呼称をしますが、英語では、正式には、南満州鉄道です。つまり、大連を中心として、満州のある部分を制圧した時点での、社名なのでしょう。その会社が現在(といっても、1961年当時のことで、ほぼ、50年も前のことですが)の日中関係に、どういう影響を及ぼしているかを、考えたものです。
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私が通学していた大学には、この手の英語の資料が揃っていて、リットン調査団のレポート、国際連盟における、松岡外相の演説etc を英語で、読み考え抜きました。スケルトン(論文の骨子)は、やはり日本が悪カッタと言うところにおきましたが、高校時代のそれとは、変わって随分、私自身が冷静に事象を見抜けるようになりました。この論文はアメリカ人の教授にもべた褒めをされました。
しかし、このブログでは明かしませんが、在学中にいろいろ、おかしな件もあって、中国と台湾の関係の厳しさにも、国際関係の最先端の厳しさにもふれたような気がします。そのときには、解析が出来ておりませんが、現象はつぶさに、見つめ続けました。
その後、ある経緯で、商社で、中国貿易を担当できないかと、動いた時期もあります。商社の上の方に、親戚の人がいたり、中国語を歓待略字を含めて学習していたりしていましたので・・・・・しかし、とんでもない。あそこは、女性が出入りできるところではない。特に、普通の家庭に育ったような、お嬢さんタイプの人に、行かせられる状況にはないといわれました。
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その件ですが、相手方の宣伝から考えると、ありえないように思えました。たとえば、北朝鮮ですが、チョンリマ(千里馬)運動の宣伝映画が、大学の講堂とか、公民館の劇場とかで、上映されていて、「すごい国だなあ?」と日本人を驚嘆させていた時代です。その宣伝に載せられて、在日コリアンで、国籍を北朝鮮においている人たちが大勢、北朝鮮に帰還をして、その国の最底辺の人間として扱われ、散々な苦しみをなめたことは、今では明らかになっています。土井たか子さんなどは、それを推進したらしいです。
そして、拉致被害さえ起こりました。大韓航空機爆破事件が起こり、それで、いろいろな秘密が外へ出てよかったのですが、あのままだったら、相当な人数(帰国者とその家族を含めれば)が、悲嘆と苦悩にくれ続けていたでしょう。
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で、中国の方は華僑と言うシステムもあるし、国土が広大ですから、北朝鮮ほど秘密主義は守れず、だんだん、その政治システムの害悪も外へ洩れ始め、そこで、自浄作用が起こります。多分、小平さんは、相当な大物だったのです。ちょっと、日本で言えば、金丸信氏と似ていますが、大物だったのです。それで、中国が一変していきます。
1970年代、1980年代、から、1990年代まで、だいたい、日中関係は温和なものだったと思います。それで、私は引き続き中国情報を、把握し続けますが、指して、自分の考え方に、変化を起こしませんでした。つまり、スケルトンとして、日本の侵略が悪かったのだろうと考え、自分が満州からの引揚者であることを隠し続ける生活を送っていたのです。
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それは、私が結婚後で、子育てで忙しかった時代です。
でも、その後で、嵐のような中国の変化が再度、現れるのですが、それを、描く前に、もう一つ、私の実家のムードが、結構モダンなものだったエピソードを披露させてくださいませ。
上に使った写真は、両親が難病に罹った父のリハビリ用に、社交ダンスへ取り組んでいたときのもので、1983年のものです。別に良い写真ではありません。特に、父が、パーキンソン氏病の事(その当時は完治はなく、だんだんに体の機能が衰えて死にいたるしかないと思われていた)をまだ、悩んでいますので、眼がうつろであり、苦しみに満ちています。
それで、週刊誌の写真のごとく、眼を隠しました。技術がまだ、上手ではないです。きちんとした四角を作ってから、それを、ペーストすれば、よいんでしょうが、ブラシ・ツールで、描画を加えておりますので、ラフです。
ただ、私が驚いたのは、これが、1983年のことで、母が、67歳であり、現在の私より、年上だった時代だということです。
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ただ、中国の人々に向かっては、言いたいのですが、この社交ダンスを中国時代に獲得したわけではないということです。植民地の栄華を誇って、楽をしていたというわけではなくて、これは、満州へ行く以前横浜時代に習得した、技術です。
父は結婚後、母をOLにしました。世間知らずで、田舎の女学校を出ただけの母を都会のモガに仕立て上げたかったのです。当時は、為替を扱う唯一の銀行だった、横浜正金銀行に勤めさせ、そこは、就業時間が遅いので、やがて、母自身の決断で、日産自動車へ変っています。
それで、二人で働く、ダブルインカムと言うわけですので、東京や横浜で二人で遊びまくっていた時代のレッスン習得なのです。戦争の影がまだ、色濃くなかった時代の話です。
でも、この70近くになった頃(1983年)のレッスンでは、母を絶対に他の男性とは躍らせなかったそうで、それは、スタヂオ中で、有名な話だったそうです。では、2009年2月7日 川崎千恵子(筆名 雨宮 舜)