銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

日光の3・・・・・中国では徳川家康が、ブーム?

2010-01-04 10:21:07 | Weblog
 日光の2は・・・・・批判文として、厳しすぎたでしょうか? 誰もあの形式に疑問を抱かないのでしょうか? まあ、鮎の塩焼きはおいしかったし、甘酒も寒いのでおいしかったです。この二つの商品は、正式な露天商ではなくて、日光の普通の人たち、もしくは神域で働いている人の家族のようでした。でも、わたらなかった神橋も入れれば、ありとあらゆるところでお金を取られる環境となっています。
 特に、白人系で個人としてきている外人たちが鳴龍のある薬師堂へは、入っていない、し、招き猫のある墓所にも入っていないのをみると、私の批判は間違っていないと感じます。

 日光という神域は、そこで、生活を送っている人のものでもあるが、一方で、日本全体の財産でもあるのです。特に世界遺産に認定されたからこそ、対外的にはそうなります。大切に扱って欲しいです。今のところ、忍耐強かったという徳川家康の墓をタネに、お金儲けをやりたがっている人たちが、群がっている場所としか、思えません。

 ここで、挿入ですが、中国で徳川家康がブームになっていると聞いたことがあります。山岡壮八氏の本が翻訳をされて。それで、中国からの団体観光客が多くて、彼らが、十二の干支に基づいたあの例の、お札をもとめられるのでしょうか? 日本では干支の認識は相当薄れていますが、そちらでは、重みがあるのかしら?
で、たくさん売れるので、安住をなさっておられるのでしょうか?

 ただ、私は、中国語が、飛び交う境内の中で、文明としては、中国からの影響がある陽明門と、東照宮ながら、その規模において、やはり小さいので、彼らが本当は堂感じるだろうと、一種の心配さえ抱いたほどです。そして、日本へ観光へ凝られるくらいですから、大陸からにせよ、台湾からにせよ、お金持ちでしょう。となると、頭がよいはずですから、ああいう子供だまし(?・・・・・私にはそう見えた)の御札販売形式の、軽さは見抜かれると思うのです。それも、残念です。

 でね、私はやるせないので、この件を居間で、話題として取り上げました。

 私、「あの鳴龍は堅山南風が何とか、と説明者が言っていたから、最近作り直したのかしら?・・・・・」
 主人「そうかもしれない・・・・・」
 私 「昔はね。あの下で、お客ひとりひとりにかしわ手を自由に打たせたのよ。今回はまるで違っていた」

 主人「拍子木を最初、龍のましたで打たないで別の場所で打つだろう。ああいうのもよくないね(これは、演出が過剰だということを指すのです。神域だからもっとシンプルにして欲しいと思うわけです)」
 私 「そうね。ところで、龍の共鳴がすごかったわね。昔は、あれほど、大きな音では共鳴(または共振)しなかったような気がする」

 主人「もしかしたら誰かが天井裏に隠れていて、拍子木がなった途端に鈴を振るとか?」
 私 「・・・・・・・・・・」
 主人「あるとき、天井が破れて、その鈴を振る人が落ちて来たりして」

 こういうジョークは文字として書くとちっとも面白くないのですが、間合いとか、音声を付帯すると面白くて私は笑います。もちろん、不謹慎といえば不謹慎です。でも、そういう風に気を紛らわせないとならないほど、馬鹿にされたと感じます。ホスピタリティとはまるで異なるもので、接遇された感じをうけているのです。

 NIKKO is NIPPON という大ポスターが何枚もできているみたいで、世界中から集客をなさっている模様ですが、それに胡坐をかいていて、本質を見失っておられます。家康公のお墓の傍で、お札を売る行為は冒涜以外の何者でもなく、宗教心が少しでもあるのなら、”罰当たり”という言葉を恐れなくてはなりません。他の、場所、薬師堂(東照宮)と本堂(輪王寺)も同じです。

 でも、そのジョークで笑った後で、『日光がああなってしまったのは、もしかすると世界遺産になったことの弊害だったかもしれない』というのは、二人で話し合ったことです。

 そして、『鎌倉が世界遺産に立候補したが、その運動が、今は下火になっている』というのを、より好ましいことと考えました。大体ちゃんとした人は、鎌倉でも、世界遺産に立候補するなんて、今では馬鹿らしいことだと考えています。

 どうしてかというと、その過程でお金が、大変かかるという噂を聞いたことがあるからです。その噂を勘案すると、まさかと思いますが、日光の神域全体で、その元手を回収しようとして、あれほど、お金儲け主義に陥ってしまったのかと、邪推したくもなります。

 まだ、ニ荒山神社は、一見のお客ではなくて、地元の人を相手にしている(特に年初は)から、やや、救われる気配がありますが、輪王寺と、東照宮は、まさかと思うほど、精神的に荒れています。退廃の気配があります。

 そして、結果として地元の商店街が発展していません。お土産屋も食堂も、はやっていないのです。それはお客さんが、神域でお金を使ってしまうから、地元へ落とせないわけです。それでは、市や観光協会も当て外れということになりませんか?

 団体客もいいけれど、東京から普通の人が、個人として、しかもリピーターとして、一生のうちに何度も、日光を訪れることが大切だと思います。比較すると、最近、高尾山の人気が高いです。高尾山の薬王院は、こういうことに関してどうなさっておられるのだろう。わかりません。が、普通の感じで御札所をつくり、そこで、細々と、授与(買うこと)されたいと願う人にだけ売っていらっしゃるのではないかしら?

 日光も、普通のお寺や神社の感じに直していただきたいです。無理かもしれないけれど、一応お願いをして見ます。2010年1月3日 雨宮舜
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