(冒頭写真は、本日の朝日新聞 週刊誌広告欄より転載したもの。)
表題に関して語る前に。
本エッセイ集2013.06.10付バックナンバー「『プリンセス雅子さま』論」の一部を以下に再掲載させていただこう。
実は私は雅子さまが皇太子とご結婚される以前より、雅子さま(当時は未だ“小和田雅子さん”でおられたが)に少なからぬ興味を抱いていた。
何分、一女性にして類稀な経歴をお持ちのスーパーレディであられる方だ。 そのご経歴の一部を以下にウィキペディアより引用しよう。
1963年に外務省職員小和田氏ご夫妻の長女として東京都で誕生した後、父の仕事の関係で幼少期をソビエト連邦・スイス連邦で過ごす。 1971年(昭和46年)目黒区立原町小学校第1学年に編入後、1972年から田園調布雙葉小学校に編入して卒業。その後同中学校を経て同高校に進学するも、父の仕事の関係で米国ボストンへ移住。 米国ハイスクールを卒業後、 1985年6月、ハーバード大学経済学部を卒業。 86年帰国後4月に東京大学法学部に外部学士入学するが、同年10月に外務公務員採用I種試験に合格し外務省入省が決定。この際、女性初のキャリア官僚スーパールーキーと話題になる。 87年東京大学を中退し外務省へ入省。 経済局国際機関第二課に配属された。 88年から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学後90年帰国、7月1日付で北米二課に配属。
徳仁親王との馴れ初めは、1986年に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した際である。 研修留学からの帰国後には皇太子となった皇太子徳仁親王の御妃候補として報道され、大きな話題となった。
1992年に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している。
(以上、ウィキペディア情報より一部を引用)
小和田雅子さんが皇太子妃候補としてメディア上で話題となっていた頃、私は高校教員をしていた。
皇太子の弟君である秋篠宮殿下のご結婚にずい分と遅れをとっていた皇太子を心配してか、当時所属高校の女子高生が教員である私によく冗談を言って来たものだ。 「先生もまだ独身なんだから、皇太子の奥さんになってあげたらどう??」 (顰蹙は承知だが)この女子高生達の反応の程が何とも可愛らしく可笑しくて、「じゃあ、そうするよ♪」などと笑いながら返していたものだ。
その裏で私は、小和田雅子さんを皇太子妃候補に祭り上げる事に関して“国政の貴重な人材観点”から何とも“もったいない”感覚を当時抱き続けていた。
とにかく生育環境に恵まれ、(もしかしたら父親のコネかもしれないが)類稀な才能と特権を活かし世界規模で活躍し、今後国家を第一線で支えていく「官僚」として立派にその地位を築き上げつつある和田雅子氏だ。
何故、この人物が皇太子妃であらねばならないの?? 私はそう思い続けたものだ。
女子高生じゃないが、何もそんな才能溢れる人材を皇太子妃になどする必要はないはずだ。(確かに皇太子妃とは“英語力及び語学力”及び“淑女力”は欠かせない要件だろうが…) 女子高生が言うように私が皇太子妃にでもなってあげた方が、小和田雅子さんとの類稀な能力を紡いで生きている女性の今後の人生が犠牲にならずに済むのではあるまいか??
それまでの皇室の歴史に於いても、皇室妃殿下候補の選定に当たってはそれに“相応しい”人物を選定して来たのではなかったのか。
美智子皇后に関しては、初めて民間から迎えられた(実に素晴らしい)妃殿下であられた。
秋篠宮妃である紀子さまに関しては、弟君の好みと紀子さま側ご家族の意向が合致して結婚が即決したと私は捉えている。
これらの事例と比較して、明らかに皇太子が小和田雅子さんと婚姻に至るまでの道程は多難を極めたと私は理解している。
それでも、どうやら皇太子の一番の「好み」が小和田雅子さんであったようだ。 周囲皇室要人が他の皇太子妃候補女性をいくら勧めても、どうしても皇太子は雅子さんにこだわり続けた印象を私は持っている。
そして、20年前の1993年6月にご両人はご成婚に至られた。
皇太子殿下ご成婚後20年が経過した現時点(2013年時点)で、巷ではこの話題に関して“言いたい放題”のメディア情報が満ち溢れている。
例えば、平成16年5月10日、皇太子さまが訪欧前の記者会見で述べられた、「人格否定発言」である。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」 当時皇太子さまは44歳、皇太子妃雅子さまは40歳。 雅子さまのキャリアや人格を否定する動きとは、何だったのか。“お世継ぎ”を求めるプレッシャーや、外国訪問をなかなかさせない宮内庁への批判だと受け取られたが、皇太子さまが具体的に説明されることはなかった。(以上、メディア情報より引用)
皇太子殿下のこの発言は私も今尚鮮明に記憶している。
原左都子の解釈としては、皇太子殿下ご自身が「好んで」選択した妃殿下である雅子さまの経歴について外部のメディアが誹謗中傷する事態に耐えられず、思い余って発言された内容と理解している。
それ故、私としてはこの皇太子殿下の発言に、雅子さまへの愛情を感じさせていただけたものだ。
原左都子の私論に入ろう。
今から遡る事20年前に、小和田雅子さんとの一女性が皇太子妃となられる決断をした時点で、一生に渡るどれだけの損失を我が身に振りかぶる覚悟をされた事であろう。
そんな思いが庶民の皆さんに理解可能であろうか??
小和田雅子さんの人生に於ける一番の失敗は、皇室と交流できる程の家庭に生まれ育っている中で、その交流を阻止できなかった事であると私は捉える。
そもそも皇太子と出会える“超特権パーティ”になど出向かなければ、小和田雅子氏はその後一生一民間人として国家の官僚を続行できたはずだ。
ところが、小和田雅子氏は若かりし時代にそれに出向いてしまった。 それがどうしてなのかに関しては、あくまで庶民でしかない私には計り知れない……
それでも私には、現在心身面での「適応障害」に悩まれつつご公務が限定されている「プリンセス雅子さま」をバッシング申し上げようの発想は一切ない。
雅子さまこそが時代の犠牲者との感覚を抱きながら、聡明な小和田雅子さんが何故そんな“過酷な運命”を回避できなかったのかに関して問い続けつつ、一生涯庶民を貫ける事を幸せと感じている私である……
何分、一女性にして類稀な経歴をお持ちのスーパーレディであられる方だ。 そのご経歴の一部を以下にウィキペディアより引用しよう。
1963年に外務省職員小和田氏ご夫妻の長女として東京都で誕生した後、父の仕事の関係で幼少期をソビエト連邦・スイス連邦で過ごす。 1971年(昭和46年)目黒区立原町小学校第1学年に編入後、1972年から田園調布雙葉小学校に編入して卒業。その後同中学校を経て同高校に進学するも、父の仕事の関係で米国ボストンへ移住。 米国ハイスクールを卒業後、 1985年6月、ハーバード大学経済学部を卒業。 86年帰国後4月に東京大学法学部に外部学士入学するが、同年10月に外務公務員採用I種試験に合格し外務省入省が決定。この際、女性初のキャリア官僚スーパールーキーと話題になる。 87年東京大学を中退し外務省へ入省。 経済局国際機関第二課に配属された。 88年から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学後90年帰国、7月1日付で北米二課に配属。
徳仁親王との馴れ初めは、1986年に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した際である。 研修留学からの帰国後には皇太子となった皇太子徳仁親王の御妃候補として報道され、大きな話題となった。
1992年に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している。
(以上、ウィキペディア情報より一部を引用)
小和田雅子さんが皇太子妃候補としてメディア上で話題となっていた頃、私は高校教員をしていた。
皇太子の弟君である秋篠宮殿下のご結婚にずい分と遅れをとっていた皇太子を心配してか、当時所属高校の女子高生が教員である私によく冗談を言って来たものだ。 「先生もまだ独身なんだから、皇太子の奥さんになってあげたらどう??」 (顰蹙は承知だが)この女子高生達の反応の程が何とも可愛らしく可笑しくて、「じゃあ、そうするよ♪」などと笑いながら返していたものだ。
その裏で私は、小和田雅子さんを皇太子妃候補に祭り上げる事に関して“国政の貴重な人材観点”から何とも“もったいない”感覚を当時抱き続けていた。
とにかく生育環境に恵まれ、(もしかしたら父親のコネかもしれないが)類稀な才能と特権を活かし世界規模で活躍し、今後国家を第一線で支えていく「官僚」として立派にその地位を築き上げつつある和田雅子氏だ。
何故、この人物が皇太子妃であらねばならないの?? 私はそう思い続けたものだ。
女子高生じゃないが、何もそんな才能溢れる人材を皇太子妃になどする必要はないはずだ。(確かに皇太子妃とは“英語力及び語学力”及び“淑女力”は欠かせない要件だろうが…) 女子高生が言うように私が皇太子妃にでもなってあげた方が、小和田雅子さんとの類稀な能力を紡いで生きている女性の今後の人生が犠牲にならずに済むのではあるまいか??
それまでの皇室の歴史に於いても、皇室妃殿下候補の選定に当たってはそれに“相応しい”人物を選定して来たのではなかったのか。
美智子皇后に関しては、初めて民間から迎えられた(実に素晴らしい)妃殿下であられた。
秋篠宮妃である紀子さまに関しては、弟君の好みと紀子さま側ご家族の意向が合致して結婚が即決したと私は捉えている。
これらの事例と比較して、明らかに皇太子が小和田雅子さんと婚姻に至るまでの道程は多難を極めたと私は理解している。
それでも、どうやら皇太子の一番の「好み」が小和田雅子さんであったようだ。 周囲皇室要人が他の皇太子妃候補女性をいくら勧めても、どうしても皇太子は雅子さんにこだわり続けた印象を私は持っている。
そして、20年前の1993年6月にご両人はご成婚に至られた。
皇太子殿下ご成婚後20年が経過した現時点(2013年時点)で、巷ではこの話題に関して“言いたい放題”のメディア情報が満ち溢れている。
例えば、平成16年5月10日、皇太子さまが訪欧前の記者会見で述べられた、「人格否定発言」である。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」 当時皇太子さまは44歳、皇太子妃雅子さまは40歳。 雅子さまのキャリアや人格を否定する動きとは、何だったのか。“お世継ぎ”を求めるプレッシャーや、外国訪問をなかなかさせない宮内庁への批判だと受け取られたが、皇太子さまが具体的に説明されることはなかった。(以上、メディア情報より引用)
皇太子殿下のこの発言は私も今尚鮮明に記憶している。
原左都子の解釈としては、皇太子殿下ご自身が「好んで」選択した妃殿下である雅子さまの経歴について外部のメディアが誹謗中傷する事態に耐えられず、思い余って発言された内容と理解している。
それ故、私としてはこの皇太子殿下の発言に、雅子さまへの愛情を感じさせていただけたものだ。
原左都子の私論に入ろう。
今から遡る事20年前に、小和田雅子さんとの一女性が皇太子妃となられる決断をした時点で、一生に渡るどれだけの損失を我が身に振りかぶる覚悟をされた事であろう。
そんな思いが庶民の皆さんに理解可能であろうか??
小和田雅子さんの人生に於ける一番の失敗は、皇室と交流できる程の家庭に生まれ育っている中で、その交流を阻止できなかった事であると私は捉える。
そもそも皇太子と出会える“超特権パーティ”になど出向かなければ、小和田雅子氏はその後一生一民間人として国家の官僚を続行できたはずだ。
ところが、小和田雅子氏は若かりし時代にそれに出向いてしまった。 それがどうしてなのかに関しては、あくまで庶民でしかない私には計り知れない……
それでも私には、現在心身面での「適応障害」に悩まれつつご公務が限定されている「プリンセス雅子さま」をバッシング申し上げようの発想は一切ない。
雅子さまこそが時代の犠牲者との感覚を抱きながら、聡明な小和田雅子さんが何故そんな“過酷な運命”を回避できなかったのかに関して問い続けつつ、一生涯庶民を貫ける事を幸せと感じている私である……
(以上、本エッセイ集2013.06バックナンバーより引用したもの。)
上記の雅子さまに関する出来事に比して。
今回の“眞子さま・小室氏騒動”は、何ともお粗末だ…😨
失礼は承知の上での我が正直な発言だが、その“レベルの低さ”に救いようが無い感を抱かされる。
しかもこの騒動を、眞子さま・小室氏ご両人がいつまでも国民の前でやり続けた挙げ句の果ての今回の“婚姻実行宣言”だ。
何と申せばよいのか。 “勇気がある” というのか、2人揃ってまるで世間知らずにしての“最後の悪あがき”と表現するべきか…
この2人が婚姻したとして、私など、“一体いつまで持つのだろう?”との不安感しか抱けない。
いや別に我が親族でも無ければ知り合いでも無いため、(国民の血税からの出費の“2億円とも噂されている婚姻支度金”がもったいない感を除けば)、2人の今後が如何に転ぼうが何らの関係もない立場だが。
冒頭写真に目を移すと。
秋篠宮家が眞子さまを勘当するはずもなければ、眞子さま側に“駆け落ち”を計画する能力も無さそうな現実が悲しい…
紀子さまも泣いている場合ではなく、今からでも遅くないから可愛い娘であろう眞子さまの真の未来の幸せを再考してみては如何だろうか。
小室氏とその母氏が「2億円結婚」にほくそ笑む姿は、我が眼にも映るが…😖
とにかく世界何処の王家や皇室でも類を見ない、今回の“眞子さま・小室氏のお粗末な婚姻騒動” ではなかろうか?
ここは、 誰が悪い!?? と責めるよりも。
(小室氏は放っておくとして)、今後一般人としての運命を辿る眞子さまの真の幸せこそを、私は願ってあげたい気分でもある。😶