当該「原左都子エッセイ集」2018.11.04 バックナンバー「怒れられて、嬉しいか?」の最終章に於いて、私は以下の記述をしている。
内戦下のシリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が、帰国後の長~~い記者会見内で一応の「謝罪」を述べておられる。
私見としてはそれを“当然の事”と捉えつつ、安田氏の行動を単に「怒る」との行為がどうなのかとの自問に苦しみつつもある。
この議論に関しては、世の議論が深まった暁に今一度私論を述べたいと考慮中だが…。
(以上、本エッセイ集バックナンバーより、一部を再掲載したもの。)
今回のエッセイは、決して上記フリージャーナリスト安田氏の言動に関する議論を提示しようとするものではなく、あくまでも表題の通り「プロと素人間の線引き」に対する私論を述べる趣旨である。
何故本日、その私論を述べようと志したのかと言うと。
2,3日前に、某プロのジャーナリストによるフリージャーナリスト安田氏の行動に関して、「素人がつべこべいうのは間違っている、云々…」の趣旨文面を発見したからに他ならない。
そのコピーを取り忘れた、と言うよりも。 その後日数が経過するにつれ、その文面を思い出しては何だか“腹立たしさ”が煽られるのだ。
と言うのも当「原左都子エッセイ集」など、まさに一ド素人がド素人の立場で私論オピニオンを羅列した文集に過ぎない。(いえいえ、中には自分の専門に基づき念入りに内容を検証・監修した上で公開しているエッセイも少なくないのだが。)
上記ネット文面は、あくまでも“ツイッター”等々ネット上のSNS類に記載されている“素人文面”をやり玉に挙げていたのではあるが。
そうだとしても今のネット時代に於いては、米国のトランプ大統領とてツイッターで好き放題暴言を吐いている。 日本の国会議員とてFacebook登録したり、やはりツイッター等で安易な見解を述べたりしているじゃないか!?
そんな現代の時代背景下に於いて、何故素人(要するに“一般人”という事なのだろう)がそれを真似ることを、プロの立場から全面否定されねばならないんだ!?!
事のついでに、現在“フリージャーナリスト安田氏問題”が“素人間で”如何に議論されているかを紹介すると。 (以下に、本日朝ネット上でたまたま発見した文章の一部を引用する。
安田純平氏開放を自己責任論で叩くのは賛否両論ありますが、ジャーナリストの評価は真実を如何に正確に報道しているか、虚偽の情報は含まれていないのかを常に疑われる訳であって、安田氏の取材は欧米のジャーナリストであれば当然の事だと、どんな評価されるべき作業であるそうです( ̄▽ ̄)b
(以上、ネット上より一素人氏が公開したと思しき文面より引用したもの。)
エッセイの本題からズレるが、ここで原左都子自身の安田氏に関する“感覚”(あくまでも“感覚”範疇であり、私見と言えるまでの意思を含有していないことを断っておく)を少しだけ述べさせて頂こう。
安田氏が開放されて帰国した直後に安田氏の実父母がメディア会見に応じた現場での発言に、大いなる違和感を抱かされた。 未だ何らの開放背景も把握されていない状況下に於いて、私が安田氏の親ならばまずは「国民の皆さん、息子が迷惑をお掛けしたことをお詫びします。」と開口一番に謝罪したであろう。
ところが、安田氏実父母氏達のインタビュー内容は大いに違った。 特に母親氏は「今まで本当に辛かった…」と言うなりメディア報道の目前で目頭を押さえたのだ。
片や安田氏ご本人は、帰国直後の長~~い記者会見の中で明瞭に自己の責任論を述べた。 要するに、今回の事件は“自己責任範疇だ”と認めた、と私は解釈している。
その後、安田氏がすっかりメディアに姿を見せなくなっている。 今現在安田氏ご本人が何を考え、プロのジャーナリストとして如何なる将来像を描いているのか、残念ながら測り知れない。
などとド素人の立場で自分の“感覚”を無責任に述べたりしたものならば、上記のプロジャーナリスト氏より再び「素人は黙れ!」なるバッシングを受けるのかなあ。
今回のエッセイ最終場面で、大きく話題を変えさせて頂こう。
私事になるが、半年程前に私は昨年秋より実施していた「フルート個人レッスン」の担当講師を“斬り捨て”た。(要するに、レッスン契約を終了した。)
当該我が行為の明確な理由を未だ公開していなかったが、もうそろそろ時効と判断しその一番の理由をここで述べよう。
実はこの若き女性講師氏の一番の欠点とは、「プロと素人の線引き・区別」感が著しかった事である。
いえいえ、ご自身のプロフルート奏者としての自我意識が高いことは素晴らしく、評価に値する事実であろう。
むしろそれが一切無い人物に指導いただいたとて、お先が見えている気もする…
今回上記のプロジャーナリスト氏のネット文面に触れた時に、半年前に“斬り捨てた”このフルート奏者に共通点が存在したことが、我が脳裏にフラッシュバックしたのだ。
我がフルートレッスン開始前より、当該個人レッスン講師の内面に「プロと素人の線引き」意識が内在している事実を私は嗅ぎ取っていた。
ただ不思議だったのは、“ずっと素人の立場でフルートを楽しんで来ている”とレッスン前より自己申告している私相手に、何故「プロと素人との線引き」意識をそれ程までに前面に出さねばならなかったのかとの事だ。
こちらが「楽しくフルートを演奏したい♪」と願い出ているにもかかわらず、“駄目出し”(この言葉に嫌悪感がある私だが)中心の授業を展開して、何故あれ程までに「自分はプロだ!」と言いたげな態度を私に披露し続けたのだろう。
確かに、フルート演奏力は素晴らしい若き奏者であられた。
それだからこそ、こと指導者としては「劣等感」に苛まれていたから故の、あの“駄目出し”連続だったのかとも振り返る。
上記、プロのジャーナリスト氏にもお願いしたいが。
ネット上のSNSで“ド素人”達が何をツイッターしたとて、少しは大目に見てくれないだろうか?
いや貴方がプロを自覚しているならば、嫌ならSNSなど見ないとの選択肢もあろうし…。(実は私も見ない派だが。)
私自身が拙い「オピニオンブログ」を11年にも渡り公開している身であるからこそ言いたいのだが。
素人(一般人)とて自分の生き甲斐を追及する権利は必ずや保障されている現世なのだから、自己のオピニオンを公開する趣味など、本人の自由にさせてよ!
内戦下のシリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が、帰国後の長~~い記者会見内で一応の「謝罪」を述べておられる。
私見としてはそれを“当然の事”と捉えつつ、安田氏の行動を単に「怒る」との行為がどうなのかとの自問に苦しみつつもある。
この議論に関しては、世の議論が深まった暁に今一度私論を述べたいと考慮中だが…。
(以上、本エッセイ集バックナンバーより、一部を再掲載したもの。)
今回のエッセイは、決して上記フリージャーナリスト安田氏の言動に関する議論を提示しようとするものではなく、あくまでも表題の通り「プロと素人間の線引き」に対する私論を述べる趣旨である。
何故本日、その私論を述べようと志したのかと言うと。
2,3日前に、某プロのジャーナリストによるフリージャーナリスト安田氏の行動に関して、「素人がつべこべいうのは間違っている、云々…」の趣旨文面を発見したからに他ならない。
そのコピーを取り忘れた、と言うよりも。 その後日数が経過するにつれ、その文面を思い出しては何だか“腹立たしさ”が煽られるのだ。
と言うのも当「原左都子エッセイ集」など、まさに一ド素人がド素人の立場で私論オピニオンを羅列した文集に過ぎない。(いえいえ、中には自分の専門に基づき念入りに内容を検証・監修した上で公開しているエッセイも少なくないのだが。)
上記ネット文面は、あくまでも“ツイッター”等々ネット上のSNS類に記載されている“素人文面”をやり玉に挙げていたのではあるが。
そうだとしても今のネット時代に於いては、米国のトランプ大統領とてツイッターで好き放題暴言を吐いている。 日本の国会議員とてFacebook登録したり、やはりツイッター等で安易な見解を述べたりしているじゃないか!?
そんな現代の時代背景下に於いて、何故素人(要するに“一般人”という事なのだろう)がそれを真似ることを、プロの立場から全面否定されねばならないんだ!?!
事のついでに、現在“フリージャーナリスト安田氏問題”が“素人間で”如何に議論されているかを紹介すると。 (以下に、本日朝ネット上でたまたま発見した文章の一部を引用する。
安田純平氏開放を自己責任論で叩くのは賛否両論ありますが、ジャーナリストの評価は真実を如何に正確に報道しているか、虚偽の情報は含まれていないのかを常に疑われる訳であって、安田氏の取材は欧米のジャーナリストであれば当然の事だと、どんな評価されるべき作業であるそうです( ̄▽ ̄)b
(以上、ネット上より一素人氏が公開したと思しき文面より引用したもの。)
エッセイの本題からズレるが、ここで原左都子自身の安田氏に関する“感覚”(あくまでも“感覚”範疇であり、私見と言えるまでの意思を含有していないことを断っておく)を少しだけ述べさせて頂こう。
安田氏が開放されて帰国した直後に安田氏の実父母がメディア会見に応じた現場での発言に、大いなる違和感を抱かされた。 未だ何らの開放背景も把握されていない状況下に於いて、私が安田氏の親ならばまずは「国民の皆さん、息子が迷惑をお掛けしたことをお詫びします。」と開口一番に謝罪したであろう。
ところが、安田氏実父母氏達のインタビュー内容は大いに違った。 特に母親氏は「今まで本当に辛かった…」と言うなりメディア報道の目前で目頭を押さえたのだ。
片や安田氏ご本人は、帰国直後の長~~い記者会見の中で明瞭に自己の責任論を述べた。 要するに、今回の事件は“自己責任範疇だ”と認めた、と私は解釈している。
その後、安田氏がすっかりメディアに姿を見せなくなっている。 今現在安田氏ご本人が何を考え、プロのジャーナリストとして如何なる将来像を描いているのか、残念ながら測り知れない。
などとド素人の立場で自分の“感覚”を無責任に述べたりしたものならば、上記のプロジャーナリスト氏より再び「素人は黙れ!」なるバッシングを受けるのかなあ。
今回のエッセイ最終場面で、大きく話題を変えさせて頂こう。
私事になるが、半年程前に私は昨年秋より実施していた「フルート個人レッスン」の担当講師を“斬り捨て”た。(要するに、レッスン契約を終了した。)
当該我が行為の明確な理由を未だ公開していなかったが、もうそろそろ時効と判断しその一番の理由をここで述べよう。
実はこの若き女性講師氏の一番の欠点とは、「プロと素人の線引き・区別」感が著しかった事である。
いえいえ、ご自身のプロフルート奏者としての自我意識が高いことは素晴らしく、評価に値する事実であろう。
むしろそれが一切無い人物に指導いただいたとて、お先が見えている気もする…
今回上記のプロジャーナリスト氏のネット文面に触れた時に、半年前に“斬り捨てた”このフルート奏者に共通点が存在したことが、我が脳裏にフラッシュバックしたのだ。
我がフルートレッスン開始前より、当該個人レッスン講師の内面に「プロと素人の線引き」意識が内在している事実を私は嗅ぎ取っていた。
ただ不思議だったのは、“ずっと素人の立場でフルートを楽しんで来ている”とレッスン前より自己申告している私相手に、何故「プロと素人との線引き」意識をそれ程までに前面に出さねばならなかったのかとの事だ。
こちらが「楽しくフルートを演奏したい♪」と願い出ているにもかかわらず、“駄目出し”(この言葉に嫌悪感がある私だが)中心の授業を展開して、何故あれ程までに「自分はプロだ!」と言いたげな態度を私に披露し続けたのだろう。
確かに、フルート演奏力は素晴らしい若き奏者であられた。
それだからこそ、こと指導者としては「劣等感」に苛まれていたから故の、あの“駄目出し”連続だったのかとも振り返る。
上記、プロのジャーナリスト氏にもお願いしたいが。
ネット上のSNSで“ド素人”達が何をツイッターしたとて、少しは大目に見てくれないだろうか?
いや貴方がプロを自覚しているならば、嫌ならSNSなど見ないとの選択肢もあろうし…。(実は私も見ない派だが。)
私自身が拙い「オピニオンブログ」を11年にも渡り公開している身であるからこそ言いたいのだが。
素人(一般人)とて自分の生き甲斐を追及する権利は必ずや保障されている現世なのだから、自己のオピニオンを公開する趣味など、本人の自由にさせてよ!