水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説 突破(ブレーク・スルー)[40]

2012年10月22日 00時00分00秒 | #小説

  突 破[ブレーク・スルー]
   (第四十回)

 癌が不治の病(やまい)であることは、重々、圭介には分かっている。しかし、彼は諦めてはいなかった。彼の出身校はN大の経済学部である。そのN大医学部の蔦(つた)教授と圭介は知己の間柄であった。運命はどう展開するかは分からないものである。偶然、教授と知り合って話が弾み、それ以来の付き合いとなった蔦教授から圭介は驚くべき事実を知らされた。
「先生、何かいい手立てはないでしょうか。主治医の三島先生の診断によれば、余命はあと一ヶ月だと…」
「そうか・・・、土肥君のお母さんがねぇ。いや、手立てはなくもない。というのは、…少し話が難しくなるがな。私の同僚の大学院医学研究科の山東教授と尾崎教授が共同で取り組んだ増殖型弱毒性ウイルス、これを普通は単純ヘルペスウイルス或いはHSVと我々は呼ぶんだが、この臨床試験が成功してもう随分になる。それがだ、今や新薬シードとして発掘され、近々、なんとか製薬、…敢(あ)えて名は伏せておこう。そこから発売になる。薬事法十四条の承認申請が済み、国に承認されたからだが、そのサンプルワクチンを入手できる筈だ。まあ、私が山東、尾崎の孰(いず)れかの先生にお願いした上でのことだがね…」
「急ぐんてす、先生。如何ようにもお礼はさせて戴きます。先生、何卒よろしく!」
「なに云ってるんだ、君と僕の仲じゃないか、礼などいい、早急に手配しよう。担当医は三島さんと云ったかな? 僕が直接、赴いて立ち会おう」
「助かります。一生、ご恩にきます。お願い致します!」
 平伏して、圭介は何度も懇願した。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[39]

2012年10月21日 00時00分00秒 | #小説

  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十九回)

 試合は、デュースの様相を呈し始めた。互角なのだ。圭介は内心で嬉しいのだが、先が全くといってよいほど見えない。結婚となれば、職場の雀達の的になるのは必定だ。この事態は、圭介にとって恐ろしい。そういう訳で、気分的にはデュースなのである。だが、よくよく考えれば、母の昌を安心させられるかも知れない。以前から縁遠い自分を嘆いていたではないか。珠江と別れて病院への帰路、見えなかった一筋の光明が不意に見えてきたような快活な気分が現れたりもした。
「母さん、実は…、際ってくれるという娘(こ)が出来たんだよ。この歳で云うのは、照れるんだけどさ」
「へぇーお前が? そりゃ、よかったじゃないか。母さん、それが心残りだったんだよ…。それで?」
「うん。最初は冗談か、勘違いくらいに思ってたんだけどね、強(あなが)ち、そうでもないみたいでさ。今度は、といっても長い間、そんな話もなかったんだけどね。上手くいくような気がする…」
 昌の衰えた顔に、久々の喜色が浮かんだ。いやそれは、受けた光線の具合だったのかも知れないが、圭介にはそう見えた。
 漸(ようや)く暑気が失せた。昌が入院して二週間になる。入院の二日後、圭介は十日間の介護休暇を思い切って会社へ申し出た。理由は明快、母の病状回復への奔走の為である。夏期休暇を取らない分だったし、母が悪いという事情は社内に知れ渡っていたから、部長以上は何も言わなかった。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[38]

2012年10月20日 00時00分00秒 | #小説

  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十八回)

 完全なノータッチ・エースのように、テニス場で茫然と相手のサーブ球を見送ったレシ-バーの気分だ。
「…だから、私と際ってくれません?」

 珠江がナイフとフォークを皿において、まじまじと圭介を見つめ、そう呟いた。
「…僕と?」
 どぎまぎする自分が圭介には分かる。何かの間違いだろう。二十以上も歳の差があるのに…と、圭介は巡った。この娘(こ)は新入社員の頃からよく知っている。綺麗な娘だ…と、思ったりもした。だがそれは一線を画す上司としての感情であり、恋愛対象としてなど烏滸(おこ)がましいという発露を秘めた傍観的感情であった。その自分が今、際ってくれと云われている。喜び以上に疑心が沸いて、圭介は、いつになく戸惑うのだった。
「私も今年で三十。そろそろ真剣に結婚を考えてみようと思ったんです…」
「で、それが、この僕?」
 何故なのか…と、尚も不可解に思えて、なんとか続けざまに打たれるノータッチ・エースをリターンで阻止しようと圭介は意気込む。暗いテーブルに、ひときわ映えるキャンドルの炎が空調の微風に揺れる。その薄オレンジの照明光が柔らかく二人を包む。
「僕なんかでよかったら…」と、圭介は返球した。すぐに、「よかった…。少し恥しかったんです」と、はにかんで、珠江はふたたび右手をワイングラスに伸ばし、残ったワインを飲み干した。圭介も無言のまま食事を再開した。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[37]

2012年10月19日 00時00分00秒 | #小説

  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十七回)

 耕二も退職後はやることがないのか、時折り顔を見せてくれるし、智代に至っては、圭介よりも昌を看てくれる時間が長い。濃い身よりはこの二人だけなのだ。それでも一応、三島の心遣いに、「はい、先生。そのように致します…」とだけ感謝する言を圭介は返していた。そして徐(おもむろ)に腕を見る。六時二十分を少し回っている。
「先生、一寸(ちょっと)、急ぎの用がありますので…」
「いいですよ、当直の係の者に、そう云っておいて下さい」
 珠江との約束は七時だった。充分に時間はある。九時に智代と交代するのだから、それまでには帰ってこれるだろう…。脳のプロテクト・リレー回路が圭介にOKを与えた。
 エルモンテに着くと、既に珠江は来ていた。珠江の意を汲んでから適当にオーダーし、持ってこさせる。
「奢りだから遠慮なく食べろよ…。で、僕に何か用でも?」
 単刀直入の直球(ストレート)勝負だ。言葉にした後で、 ━ 急ぎすぎたか…  
━ とは思ったが、圭介は意に介せず、ボーイが出した前菜を食べ始める。
「さあ、食べながら…」と、一瞬、動きの止まった珠江をリラックスさせる。暫(しばら)く、二人の間に無言劇が続く。赤ワインにメイン・ディッシュの肉料理、至極ありふれた食事風景である。
「あのう…、私と際ってみません?」
 唐突に、サーブの球が飛んでくる。「えっ?」圭介は耳を疑って聞き直した。

 


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[36]

2012年10月18日 00時00分00秒 | #小説


  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十六回)

 まず、身体の全体に力が入らない…などと云った。これは、まだ予兆であった。次に身体の移動時に辛そうな表情を顔に出すようになる。我慢強い母がこのような表情を見せるのは余程のことだ…と、圭介は思った。それに付随して語り口調の覇気が失せた。
 抗癌剤の薬物投与による進行阻止にも限界がある。三島はそのことを圭介に詳述したが、圭介自体は微かな望みを捨てている訳ではない。だが、肝臓近くのリンパ節に病巣を持つ癌細胞は急激な増殖を始めている。痩せ細った昌の手首、そこに射ち込まれる点滴の管…、圭介には見るに忍びないものがあった。昌が食事を拒むようになった。食べられない・・と云う。
「再手術? とても無理です。そうですね…、あと長くてもひと月、もっと早まるかも知れません」
 三島は医師として、正確な余命期間の診断を下したのだろう。圭介には、その言葉に抗するひと言もなかった。
「出来るだけ母が苦しまないように御願い致します」と懇願するのが、今の圭介には関の山なのだ。「分かりました…」とだけ、静かな小声で吐いた三島の視線は、いつぞやの時と同じで、宙を泳いでいた。痛みの走らないモルヒネ投与、これは、“意識を落とす”とも云われる医療行為である。三島はそのことに言及して、
「主(おも)だった方々には今の内にお見舞いに来て戴いた方が…」と、薬剤を使用する前の注意を促した。母には叔父の耕二以外は兄弟がいない。そうなると、見遣るといっても圭介と姉の智代ぐらいである。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[35]

2012年10月17日 00時00分00秒 | #小説


  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十五回)

 それでも、一応は了解して、七時にエルモンテという高級レストランで落ち合うことになった。そうしないと、連れ添って社外へ出ようものなら社内雀達のいい餌にされ、啄(つい)ばまれた上に噂の糞をばら撒かれるのが落ちなのだ。会社は残業をしなければ、定刻の五時には開放される。 ━ まさか、俺に気がある訳でもないだろう…。だとすれば、何か相談事でもあるのか… ━ と、圭介は巡ったが、深くは考えないことにした。孰(いず)れにしろ、九時には付き添いを智代と交代する約束になっている。それまで、時間はたっぷりあるのだ。脳のプロテクト・リレー回路が単純に計算してOKを出したのである。
 珠江が茶托を下げると、何もなかったように圭介は次長席の書類に決裁印を押し始めた。丁度そのとき、何人かの社員が語らいながら戻ってきた

「おい君、昼がまだだから食堂で何か食ってくる。倉持君に俺が戻ったって云っといてくれないか」
「課長にですね? 分かりました、ごゆっくり…」
 声を掛けられた若い男性社員は、すぐさま、応諾する。 ━ 自分は飯を食ってきた。なのに次長はまだなんだ… ━ という、悪くはないが、何か悪いことでもしたかのような自責の念が、この若い男性社員の脳裡を瞬時に駆け巡ったに違いなかった。理由はどうであれ、珠江に誘われたことの喜色の心を悟られまいと、圭介は幾らか威厳を込めた表情で、静かに席(デスク)を立った。
 昌の容態は、圭介が恐れていたとおり、日々の移ろいの中で少しずつ顕れていた。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[34]

2012年10月16日 00時00分00秒 | #小説


  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十四回)

 追い立てられた訳ではないが、そう云ってしまった手前、「そいじゃ母さん、また来る…」と足を動かし病室を後にした。空調の適度に利いた病院内から自動ドアを境にして一端、飛び出すと、ムッとした灼熱の暖気が全身を包囲して攻め立てる。それも急襲だから、圭介は思わず顔を顰(しか)めると、背広の上着を脱ぎ捨て、片手に持った。
 社内は昼休みに入っていた。部長付秘書の珠江が、汗を拭きながら扇子をパタつかせて入って
きた圭介に気づく。「次長、今日は?」と、咄嗟に聞かれ、「うん、…いやあ一寸(ちょっと)ね」と、適当な曖昧さで濁す圭介に、冷たい麦茶を運んできた珠江は辺りを見回す。他の社員連中は、社内食堂とか近くの店へ食べに出ていて、今の室内は蛻(もぬけ)の空である。
「今日の帰り、お食事でもどうですか?」
 不意に予期せぬ言葉が、圭介の耳元でする。
「えっ! どうかしたの? 俺みたいなジイさんと…」
 珠江は今年で三十になった。まあ普通のOLなら、結婚して子供の二、三人は育てている歳である。彼女が入社した頃は、『たぶん、奴は早く結婚して、円満退社するよ…』と、若い男性社員達から風評が飛んだものだった。結局、二度の恋愛が実らず、この齢になってしまったのだ。いわゆるオールド・ミスの立場にあった。決して容貌は悪くはない。それどころか、圭介の好みのタイプだ。高嶺の花と長年、諦めていたものが、いったいどういう風の吹き回しなのか…。圭介には、その辺りのところが不可解なのである。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[33]

2012年10月15日 00時00分00秒 | #小説


  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十三回)
 
 明日は昌が再入院する日なのだ。それにしても、八月はもう終わろうとしているのに、真夏日がまだ続いている。地球温暖化も深刻になったもんだ…と、圭介は思ったりした。熱気は衰えを見せなかったが、それでもいつしか、ウトウト・・と圭介は微睡(まどろ)んでいった。
 八月二十六日、昌は再入院した。既に母は、必要な入院中の品を、ぎっしり手荷物に纏めて準備をしていた。少しでも圭介に手間をかけまいとする母心の一面が垣間見られて、圭介の心を熱くする。体力は衰えつつあるが、まだまだ気丈な母の精神力は翳(かげ)りを見せない。
「ほー、元気そうじゃないですか、土肥さん」
 回診中の三島が昌に気づき、病棟のベッドに荷物を置いた昌の姿を病室のドア口で呼び止めた。
「あらまあ、先生…、またお世話になります」
「いやあ…、気楽になさって下さいよ。それじゃ孰(いず)れまた…」と云って、次の部屋の患者を回診にと動き始める。付き添いの圭介は、軽い会釈を三島に送ったが、三島も同様の仕草を返して、スゥーっと姿を消した。
 暫(しばら)くして智代が病室に現れた。圭介が社でどうしても抜けられない用件が出来たため、付き添いの交代で来たのだ。
「圭ちゃん、もう行っていいわよ」
 無表情の姉に漠然とそう云われて、「じゃあ…」と、思わず口にしてしまった自分に圭介は気づく。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[32]

2012年10月14日 00時00分00秒 | #小説

 
 突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十二回)
 
 こんな好意をして貰えようとは、お釈迦様でも御存知あるめぇ・・なのである。圭介の内心は喜色ばんでいた。 ━ この娘(こ)とデートできたら…、一度は誘ってみる価値はある。断られて元々か… ━ そんな都合のよい発想が一つの紙コップから生まれている。母には申し訳ない別の感情なのだが、或る意味で安心させるという点では親孝行な発想なのか…と、圭介は巡っていた。昌がこんなときに不謹慎にも思えた。人間は詰まるところ御都合主義の生き物なのか…と、時が経過していく中で少しずつ膨れた心は瓦解していった。圭介は気を取り直し、机上の決裁書類に目を通した。
 昌の入院直前に、一つの異変が起きた。
「ここ一週間前から手先に力が入らなくなってねぇ、お茶碗を割ってしまったんだよ…」
 情けなそうな気弱な声で昌が云う。会社帰りの圭介は、「ふーん」と、その場は聞き流したが、自室で着替えながらそのことを考えると、恐れていた事態が起こりかけているのか…などと思えてくる。一刻の猶予もならない。幸い、明日、入院の手筈になっているから一応は安心なのだが、確実に死への一歩を歩んでいる昌を見るに忍びない圭介なのだ。辛い。
 ヒ-ト・アイランド現象とか何とか…、圭介の小さい頃には聞かれなかった気象用語が、最近、この都会でよく耳にするようになった。確かに、真夜中だというのに、日中の暑気がなかなか消えない。結果として、寝苦しかった。無論、眠れないのがその為ばかりではないことは、当の圭介が一番よく知っていた。


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短編小説 突破(ブレーク・スルー)[31]

2012年10月13日 00時00分00秒 | #小説


  突 破[ブレーク・スルー]
   (第三十一回)
 
 ぐずっていた昌も漸(ようや)く得心して、八月の末、ふたたび入院することに同意した。その間にも病は進行の度合いを早めている。病気を根治できないまでも、病院での治療ならば延命も少なからず可能に違いない。そんな情けない想いで圭介は自らの心を慰め、安堵させていた。汗ばむ残暑の熱気が体躯に忍び寄って、じっとりと下着に纏わりつく。課長の倉持は、ここんとこの残業で、すっかり疲れきり、昼も二時だというのに、課長席でウツラウツラと頭を振っている。取り分けて怒る気にもなれないし、第一、夏末期特有の夏バテ感が部内にも蔓延しており、お互い様・・の感は否めない。その上、盆休暇で寛(くつろ)いだあとの社員ばかりだから、尚一層なのだ。倦怠感が漂う職場になってしまっている。だが一人、圭介だけは気鬱感[これは当然、母の病状による所為(せい)なのだが]に、うち勝とうと黙々と仕事を続けている。普通の季節よりも頑張っているようにも見える。そんな彼に、部長付秘書の珠江が紙コップのコーヒーを持って来た。浅倉珠江はこの四月の移動で圭介の第一営業部へ移ってきた。婚期は二度の社内失恋で逃してしまったが、容姿は端麗であり、しかも性格が明るい。圭介もこの歳で残念ながら縁遠く一人身なのだが、何故かこうした好意に嬉しくなった。
「次長、置いておきます」
 簡略化されたひと言を残し、珠江が去ろうとする。「あっ、ありがとね…」と、俄か仕立ての礼を云う。正直なところ、圭介には予想外なのだ。部長付であり、決して次長付の秘書ではない。というか、次長付の秘書はいなかった。


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