水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説集(81) ラスト・スマイル

2014年09月06日 00時00分00秒 | #小説

 岳峰登は地方会社の山登りの会に所属するサラリーマンである。彼は学生の頃から山に馴(な)れ親しみ、あちらこちらと山を渡り歩いた。…と、こう書けば、いかにもドラマに登場する格好いい二枚目に思えるのだが、その実は散々で、「お前は山登りは向いてないんじゃないか。家庭クラブへ入って、女子と料理を作った方がいいと思うよ」と、高校時代は同級生から言われた大食漢だった。彼の登山には半端じゃない食糧が必要だった。岳峰が向いてないと言われた理由は、そこにあった。非常食で十分、数日はいける…と思える量を岳峰の胃袋は必要としたのである。
 ある夏、数日の縦走登山をしたときのことである。メンバ-にとって、岳峰を伴(ともな)う数日は、熊に遭遇(そうぐう)するのを恐れ、ビクついて登るのに等しかった。現地に到着し、、登山口に着くまでは岳峰もなんとか空腹を我慢できた。ところが、である。
「おい! このリュック、軽かねぇか?」
 メンバーの一人が、そう呟(つぶや)いた。
「そんな訳、ねぇだろう。登りの休憩は俺が担(かつ)いでたんだからな」
「だってお前、さっきの休憩で用を足したろ。離れたとき、ネズ岳が傍(そば)にいたぜ」
「ああっ!!」
「やられちまったな…」
「おい! 次は手放すなよ」
「ああ…」
 二人は苦笑した。岳峰は会社の登山部仲間にいつの間にかネズミの岳峰、略してネズ岳というありがたくない渾名(あだな)を頂戴していたのだった。
その食べる行動は迅速にして機敏だった。要は、あっ! という間に食べてしまう・・という訳だ。
 そんな岳峰がついに、山登りの会を辞(や)める決断をした。
「これ以上、僕が入ってますと、食い気で皆さんにご迷惑をおかけしますので…」
 岳峰の退会時の挨拶である。全員、そのとおりだ! とは思ったが、流石(さすが)に、そうとは言えず、愛想笑いで拍手した。
「ははは…、また機会があれば一緒にな!」
 心にもない言葉を部の一人が漏らし、直後、しまった! と後悔した。
「えっ! 本当(ほんと)ですかっ! 嬉(うれ)しいなあ」
「ははは…機会があればね。ところで、どこへ今度は、入るんだ」
 岳峰は満面の笑顔で笑った。これが彼のラスト・スマイルとなった。次の朝、岳峰の姿は忽然(こつぜん)と皆の前から消えた。出勤しない岳峰の行方は警察沙汰にまでなったが、ついに彼は発見されなかった。その頃、岳峰は天界の食堂で、ひとり優雅に握り飯を頬張(ほおば)っていた。

                              THE END


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