ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるのか』 酒井隆史著

2022-12-11 19:02:02 | 本・映画など

世の中の99%の富と権力は、1%の人々によって所持されている。

それでよいのか!

2011年、ウォール街を占拠した運動にかかわったデビッド・グレーバーが、

その時の対話を背景に、『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を記した。

その翻訳を
手がけた酒井隆史氏が、

グレーバーが言いたかったこと、を解き明かしたのがこの『ブルシット・ジョブの謎』である。

以下、自分なりの理解であり誤解も多いと思うのだが、記録しておきたい。


ネオリベラリズムは、ついに「ブルシット・ジョブ」を生みだすようになってしまった。

ブルシットジョブとは、

働く人が自分でも、
「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある」と感じている(実際にそうである)仕事


でも、そうではないように取り繕わなくてはならないような、 クソどうでもよい仕事

である。

そして、グレーバーはそれを5つに分類した。

1. 取り巻き(flunkies)
だれかを偉そうにみせたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事
2. 脅し屋(goons)
雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素をもち、そのことに意味が感じられない仕事
3. 尻ぬぐい(duct tapers)
組織のなかの存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事
4. 書類穴埋め人(box tickers)
組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事
5. タスクマスター(taskmasters)
他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブをつくりだす仕事


さて、グレーバーによれば、ブルシットジョブは管理側の側面から増えているのだという。

それは、資本家にとっては管理こそが関心事となり、ネオリベラリズムは競争を基盤とするからだ。

競争させ比較するには、そして、それを把握(管理)するには、数値化や指標やマニュアル化する必要があるのだ。

一方、非ブルシット・ジョブ、つまり、人間社会に必要不可欠な仕事とは、きっとエッセンシャルワークと呼ばれるようなものであり、

それらは人間や社会をケアする仕事であった。
(そして、このエッセンシャルワークこそコロナ禍にあっても稼働し続け、経済が止まったはずなのに、社会は恐れられたほど破壊されなかった。つまり、不必要に肥大化してきたのは管理部門(ブルシット・ジョブの巣くうところ)であり、停止したのも管理部門だったのかもしれない。)

だが、ネオリベラリズムのもとにあっては、そういう仕事こそ低賃金で、休めない。
(これをエッセンシャルワークの逆説と言う。)

ここであきらめてよいのか?! グレーバーは訴える。

そして、グレーバーは、ベーシックインカムの導入を想起する。(具体的にではないが) 

そうやって、等価交換の自縛(働いただけしか報われるべきではない=だから、働け)から逃れられる社会を模索する。

また、一方では、
市場価値とかお金で推し量る見方から解放されて、モノでもコトでも、

ケア(慮る=おもいはかる)を大切にして生きていく社会になることをあきらめないで願い、

想起していこう、と訴えているのだ。

酒井隆史さんはそう書いていた。(と私は解釈しました。誤解もたくさんありそうです・・・・)


さて、自分としても、確かに、この20年以上、こんな作業しなくていいのに、と思うことがよくあった。

アカウンタビリティに関係する、

数値化(誰にでも見える化)する作業、目標設定して公表して、自己評価して、

説明責任のもとに作業を記録し、説明できるようにして・・・の一連の作業。


(自分は幸いそういう作業に携わらないで済んでいるが)

学校でもシラバス(指導計画)を求められ、学校評価をし、意見を求め、それに応えて対策していく作業が必須だ。

また、仕事が分業化する中で、「謝るだけの仕事」なども出現している。

これでいいのか? それで社会も働く人も、幸せに近づくのか とよく思う。

マルクスはその発展において最終的には「各人はその能力に応じて(働き)、各人にはその必要に応じて(報いられる)」の社会になると言い、
ケインズも、同じように、それほど働かなくてもよい豊かな社会になる、と同じような指摘をしたそうだ。(と書いてあった)

もう等価交換の原理を作動させなくてよい社会=相互扶助の社会が来る、と言っているのだ。

人々はずっと、労働時間が短くなって余暇が増える豊かな社会=「最小の労働で最大の余暇がある社会」を求めてきたのだった・・・。

そうだったのだ。 これも私にとっては驚きの指摘だった。(でも、そりゃそうだった!とも思う。) 

また、ネオリベラリズムは統治の技術であって、公務労働ととても親和的なのだそうだ。
(公務労働は統治=管理、記録の仕事がおおいから)

つまり、ブルシットジョブは管理や記録の仕事で増えていく面があるということ。

ネオリベラリズムといえば、民間(グローバル)企業の専売特許、
公の仕事を浸食する、つまり、「官から民へ」で代表されるように、
公の仕事を民間企業がどんどん肩代わりしていく面はよく報じられてきたが、
(例えば、清掃事業の委託、給食調理部門の委託、窓口業務の委託、福祉業務の指定管理化、
・・・・公園運営の委託・・・よその自治体では水道の委託・・・と)

だが、実は、公務(事務仕事の面)の中でこそ影響を受け、自己培養してしてきたのだ?!

確かに、同じことをする際にも、手続きが細かくマニュアル化され規定されて仕事は肥大化している。
(公務労働も上記の例を挙げたようにまず手足を(民間に)切り売り(委託)し、
次に、神経伝達物質(システム)も委託し・・・、頭脳だけはと思っていたが、
無意識のうちに腹が膨れ(不可欠でもない事務仕事の増大)ていて、最後は、頭脳も委託なんてことにならないとは限らない。でも、計画づくりではコンサル委託がすごく多いし・・・末は、○○総研が企画部門を丸ごと受託するなんてことも・・・。)

気をつけなきゃ。 改めて、仕事を見直してみたい。




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