中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

歌人・馬場あき子さんの着物、祖母の着物に思うこと

2019年03月23日 | こぼれ話(着物)
先日、NHKの[こころの時代~宗教・人生~ 「歌詠みとして今を生きる」]という番組に歌人の馬場あき子さんが出演されていました。
以前はよくTVでお見かけしましたが、91歳になられた今もお元気にご活躍されているご様子を拝見しました。
プロフィール、短歌との出会い、戦争、学生時代、教員時代、能のこと、短歌のこと…。
お話の内容も大変興味深いものでしたが、そのお話される姿の美しさにもハッとしました。

お召になられていた着物は最初の映像では、藍鼠地の縞物に、白地に薄墨で抽象文様を描いたようなシックな素敵な帯をされていました。ごく淡いグレーの帯揚げ、柔らかな橙色の帯締め、袖口の襦袢はピンク色が少し覗いていました。
帯がアップになることはなくチラッと覗くだけでよく観察はできませんでしたが、とても上質のものだと思いました。

実母を早くに亡くし、祖母やおば達に大切に育てられ、後に美しい継母に育てられたということなども語られていました。
その美しい継母にいい格好を見せたくて、それまであまり勉強はしてこなかったけれど勉強をするようになり、本もたくさん読んだということでした。
そういう方々から受け継いだもの、また善いものを見る機会も多かったのではないかと思います。
馬場さんは能の研究者でもあり、能舞台の前で、訪問着に箔使いのような見事な袋帯をされたお姿も映像で流れましたがその品格に惚れ惚れしてしまいました。
上質ではあるけれど、決して華美な感じではなく、落ち着き、品格、風格、90歳を過ぎた媼の美しい姿がそこにありました。

着物を着ることはただファッションとしてだけではなく、その人そのものをそこに反映させる、恐ろしくもありますが、滲み出てくるものは、その人のありのままの姿であるようにも思えます。
戦前の日本人は着物に対して貧しき者も富める者もそれなりのこだわりをもち生きていた。そのことは人の誇り、矜持でした。


明治生まれの私の母方の祖母は70代で亡くなりますが、三重の山中で暮らしていました。
上の画像は母が祖母の形見分けで、緞子の丸帯の一部をもらってきたものです。地味な祖母らしい好みですが、実際はとてもいい糸質で色も草木染めと思われます。
祖母の残した少しばかりの布にもその矜持を感じるのです。慎ましやかでありながら、毅然と布を見極めている姿が浮かんできます。

祖母は、モノクロームの遺影の中で細かい絣の黒っぽい絹物を着て、白茶地に品の良い細かな模様が(松葉と梅の花のような‥)織り出された絹の織り帯をして写っています。

母によると、ある日自分で街の写真館へ行って撮ってもらったようです。来るべき日の準備を祖母にとって一張羅と思われる絣りの着物を選び、一人で一里も離れた街まで出かけた。
二人の子供を授かったものの夫を母が小学生の時に亡くし、それからも先妻の子供3人を一緒に育てながら、看護師もしながら、林業を受け継いだ長男、孫二人と暮らしていた祖母でしたが、亡くなった時には村々から老若男女が葬儀に来てくれたということでした。
葬儀の時にはこの人には世話になったので、着物の片袖でもいいので欲しいという人もいたと母は私に話してくれました。


祖母の遺影は母の形見として私が引き継いできました。額に入っていませんでしたが、私が額装し、毎朝手を合わせています。見守っていてほしいのです。
その遺影の中で着ている着物は祖母が自分で自分に相応しいものを選んだのでしょう。時代背景や教育、置かれた環境などが色濃いように思います。

歳をとったら黒っぽい着物を着て、半襟も黒くし、細かい柄の帯を小さく結んで・・。
明治、大正の頃は女性は人間としての尊厳や自由さえ認められていませんでしたので、祖母も歳をとったら地味でなければ、、などと思っていたと思います。親の決めた人と一緒になり、嫁しては夫に従い、仕え、子を生み育て…老いては子に従う、というプレッシャーの中であったことは間違いないでしょう。女性の参政権さえない時代だったのですから。

村で困っている人の力になりたいと法医学の古畑種基先生のお父様が開業医で、その病院で手伝いのようなことをしながら、産婆と看護師の資格を取りました。長男は祖母が働くことはあまり良く思ってなかったと、母から聞いたことがあります。“職業婦人”という言い方があって、当時は世間でも嫌がる風潮があり、男としては世間体もあり嫌だったらしいです。今では考えられないようなことですが、、。

しかし祖母は子に従わず、必要としてくれる人のために身を尽くしたのだと思います。でもその長男も継母である祖母をとても大切に慕っていたようです。

私は祖母と離れて暮らしていましたので、母が時折話してくれた昔話だけが思い出となっていますが、母が最後に入院した時に、私は藁をもすがる思いで祖母に母を助けてもらいたく、遺影(まだ額装はしていませんでしたが)を病院へ持っていって母に見せてあげたことがあります。母はしばらく写真と向き合いましたが一礼をして、「もう心配を掛けたくないので家に持って帰ってくれ」と私に言いました。私ならそばにいてほしいと思うのに親子であっても親に対して甘え、心配を掛けてはいけないという昔の教育を受けた者の厳しさを感じました。

私はたっぷり親に甘え、言いたいことを言い、自分の好きなように人生を進んできたけれど、最後に母が言ってくれた言葉は「あなたは好きなように生きてきて、それでも自分のものを掴んだんだね。これで良かったんだね」と。

封建的な教育を受けながらも本当のことに気付いていたリベラルな女性たちは多かったと思うのです。
母は婦人参政権運動の草分けの市川房枝さんを尊敬していましたから。
未だに選択的夫婦別姓さえ認められない日本は相変わらず自立できない国ですね。。

さて、話がすこしそれたようになりましたが、でも生きることは着ることであり、着ることは生きる姿である。自由に自立した生き方は着るものにも反映されて来ると思います。生き方も着方も一体であると思うのです。

特に女達が着ることや布に対する執念が強いのは、見栄からくるものだけではない、根源的な生きる本能の強さのように思います。
何を着るかは人それぞれですが、使い捨てられる衣服からは培われない学びが、上質の着物にはあるということを先輩方の着物姿からも学ばせてもらうことができます。

祖母と馬場さんの着物は対局にあるようですが、その違いは問題ではなく、何を選び、着るかを見極めているかだと思うのです。私の場合は、自分自身を知り、磨くにはまだまだ時間がかかりそうですが、、、少しでも高めていけたらと思います。

お彼岸に布や着物を通して祖母や母を偲び、また現役で活躍される馬場あき子さんの着物姿からも学ばせてもらいました。






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