中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

着物を着ること、装うこと

2024年06月15日 | こぼれ話(着物)
先日、少人数の夜の会食に出かけました。
心尽くしの美味しいお料理はもちろんですが、主賓の国内外で活動されている方のフラットなものの見方に、学びがあり楽しい充実した時間となりました。

紅一点でしたので、私にしては華やかに装ってみました。(^^♪
桜染めの赤味を含んだ黄色地に薄紅色の細い縞です。
節のほとんどない、玉糸をたて、よこに使い試織したものです。



帯は20年前、たまたま銀座の画廊の前を通りがかった時に、ショーウィンドウに外国の古い美しい布が飾られていて、中へ入ると帯に仕立てたものも数点あり、その中の絹のサリーから仕立てたこの帯が気に入り買い求めました。

母を亡くしたばかりの悲しみのどん底にあった時で、私の体調も懐具合も悪かったのですが、母が「買いなさい・・」と背中を押してくれたような気がしました。
華やぎのある帯ですが、草木染の着物とも合う色合いです。
前柄の裏面(太鼓の左側)も素敵なのですが、今日はお祝い絡みの会ですので、赤を効かせた方を使いました。


野薔薇の洒落紋は、草木で染めた紬の経糸を十数色、職人さんにお渡ししてそれで刺してもらいました。
普通、日本刺繍は無撚糸の糸を使いますが、これは撚りが入ってます。
野趣のある、世界に一つの紋です。
この着物については拙著、「樹の滴-染め、織り、着る」にも掲載されています。

季節の料理とお酒。庭の植物を眺め、楽しく学びのある会話。
人との繋がりの中で、こんな時間を持てたことを幸せだと思います。

着物を着ることは、身体を包むだけではない、その場に何を着ていくのか、心を尽くして考え、選んでいくこと。それはとても高度な精神世界です。

昔の人たちは布や着ることに対して、今以上に大切にし、また拘りがあったと思います。

紬塾後半の、取り合わせの回の時に、ただの色合わせ、コーディネートをすることだけではないこともお話ししますが、"着ること(装うこと)"は人の生き方にも関係してくる奥深いものです。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

篠田桃紅著『これでおしまい』ー着物は体を包むもの

2022年01月05日 | こぼれ話(着物)
新春のお慶びを申し上げます。
本年も宜しくお願いいたします。

年末の慌ただしさから一転、お正月はゆっくり朝酒、手作りお節で過ごしました。
初詣も済ませました(クリスマスに初詣忙しい(^_^;))。
神社の境内の梅林もまだまだ硬い蕾でしたが、八重咲の紅梅が少しほころび始めてました(上にかざして撮ったので手振れしてますが、、)。
今日は小寒。まだ寒さはこれからが本番ですが、青空に春の光を感じます。
このひと月は本を読んだり、展覧会を見に行ったり、自分の外にある世界に触れ、充電をしてこれからの仕事に生かしたいと思います。

去年の3月1日に107歳で他界された美術家の篠田桃紅さんの著書で、亡くなられた直後に発刊された『これでおしまい』を去年読みましたが、メモ書きがそのままでしたので、改めて読み返しました。

ずっと以前、個展を拝見したことはありますが、墨を使った抽象の作品を手掛けられた方です。そして着物で生涯通された方でもあります。

私は若いころに週末アルバイトしていた青山の伝統工芸品センターに篠田さんが、和紙と筆を買いにいらした時に接客をしたことがあります。
30年近く前のことでしょうか。篠田さんも80歳近かったと思いますが、とても素敵なお姿でした。
着物から作られたと思うシックな織物の長コートの裾から縮緬地の着物が覗いていました。
共に上質なものであることはすぐにわかりました。
女がまだ職業を持つことが難しかった時代に、桃紅さんの生き方への一番の理解者でもあったお母さまの物だったかもしれません。見惚れてしまいました。センスが素晴らしかったです。

もちろん私はスタッフとして、会計をし、包装をしてお渡ししただけのことですが、佇まいをはっきり記憶しています。その後もテレビや新聞で着物姿を拝見するたびになんてカッコいいのだろうと思ってきました。

本には着物について触れている箇所があります。
「着物と洋服、人の体を包むということでは同じ。非常に違うのは着物は包むのよ。洋服は入れるのよ。かたちの決まったものの中に人間が入っていくのよ。それは大変な違い。物と人との間柄の違いね。着物は人間に対して非常に謙虚。洋服は人間を規制している。私の中に入りなさい。私はこれ以上大きくも小さくもなりません。着物はどんなに太っても痩せても、同じ一枚で済むじゃない。私は人間が主人である着物の方が好きなの。洋服は従わなければならない。それがイヤなの。イヤというより情けないのね。」
何事からも拘束を嫌った篠田さんらしい見解です。

着物を拘束されている窮屈なものとして見る方も多いと思います。活動的ではない不自由なものとして。篠田さんにはそうではなく、むしろ自由なものなのだと。

私は着物は自由なものであるとも思いますが、人によっては洋服のような着方や扱いをすれば着物も不自由なものになると思っています。

以前のブログで「体格の大きい人も小さな人も縫い方次第で受け入れてくれる和裁の知恵はすごいリベラルなことです」と書きましたが、一枚の決められた小幅の布を繋ぎ、合理性を以て仕立てられている着物――。
このことを意識して着ている人と、単なる着る物として、洋服と同じような意識しかなければ、着物と言えども不自由なものだと思います。

例えば衣紋を抜いた着物の襟のカーブを丸くしないといけないと思い込んで、衿芯をプラスチックの差し込み式を使っていたり、洋服のように腕の長さに合わせ裄を長くしたり、皺を残さない着付けとか風情、侘びというものが無い。
直線を生かしつつ丸い体を包む。それこそが粋というものでしょう。

着物だけでなく、もう一度暮らし方含め、原点に思いを馳せものごとを見つめ直したいと思います。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒い裾

2019年07月25日 | こぼれ話(着物)

 題字/熊谷恒子

紬塾では幸田文著『きもの』を日常にまだ着物があった大正~昭和の時代に関する参考文献というような扱いで使わせてもらっていますが、同じく『黒い裾』という短い小説も大学生の時に姉の本棚にあったものを読み、今も手元に昭和49年7月30日九刷の茶色くなった文庫本があります。題字もすごいです!まさに崩れ行く絹の黒布を彷彿とさせます。

当時、幸田文(1904-1990)文学や着物に特別関心があったわけではありませんでしたが、一着の喪服を一生をかけて裾が擦り切れるまで着るという小説の筋書きに、人生と共にある着物というものはすごいものなのだと、深く記憶に残りました。昭和29年ごろに書かれた小説です。

16歳の女学生が、母の名代で初めて親戚の葬儀に行く。喪服の用意はなく、裏方の手伝いをするための挨拶からはじまる。
その挨拶は「今日は皆様ご苦労様に存じます。私ども母もお手伝いに参るのですが、持病がございまして私代ってお勝手元なんなりとご用いたしとうございます。なお……お恥ずかしゅうございますが紋服の用意がございませんので、不断着をおゆるしくださいますよう。」母親から教わった挨拶を、緊張し、汗だくでのべるのです。

その不断着は「じみな著物に新しい足袋、草履の鼻緒に黒いきれを巻いたのはせめてできるだけ身につくものから色を消したい心づかいだったが、そんなことをしてみても喪服のない肩身の狭さは心の底に滓(おり)になっていた。」と。母親はまだ学生だからちゃんとしていなくていいとなだめるのですが、なんと女学校卒業祝いはいらないので喪服を作ってほしいと母親に懇願する。しかも一生ものなのでいい生地でと註文をつけたとあります。
『きもの』の中でも生地に対するこだわりの箇所が随所にみられますが、子供のころから着物を着つくした幸田さん自身の実体験、体を通しての皮膚感覚、感受性の鋭さから生まれる言葉で書かれているのです。

その後、結婚もし、貧乏もし、離婚し、元夫を亡くし、戦争も経て、幾度かの葬儀も重ねた50代のある時、叔父の葬儀のために喪服を着て着姿のチェックのために座った鏡台の前で、立膝をついて起ちあがろうとしたその時、踵が裾に触れ裾に入っていた真綿が垂れ下がったように露わになっていた。時間がなく、それを裁ちばさみで裁ち落とし、応急処置で葬儀に間に合わせるという話で小説はほぼ終わるのですが、再読してみてもやはり面白くていろいろ自分に置き換えて読んでしまいました。

喪服一着のことで小説を書いてしまえる幸田文さんもすごいのですが、女にとって“着るもの”というのがどれだけ人生と共にあったかを改めて思います。喪服だけではありませんが、、。

私の両親の時には着るもののことを考えたり準備する時間的、経済的余裕もありませんでしたが、小説の主人公千代は若いのに先を見据えて十代で喪服を拵えるのは、時代が違うとはいえ、しっかりした大人だったのですね。。。

今はなんでも簡略化の時代ではありますが、むしろ自由にこじんまりとした葬儀やお別れの会、さまざまな追悼、供養のかたちというものがあります。そんな日に何を着るのか着物の正装、準礼装や略礼装なども視野に入れながら、自分らしい喪装がどんなものなのかを差し迫ってないときに考えたいと思います。

母が遺した喪服一式は一度羽織ってみたことはあるのですが、とても軽い錦紗縮緬でした。五つの抜き紋があり、戦後間もなくの結婚の時に祖母が持たせたものなのか、もしかすると祖母のものを持たせたのかわかりませんが、胴裏は座繰りの節のある薄手のものが使われています。黒の帯や小物も揃えてありました。それっきりになっていましたが、梅雨が完全に明けて空気の乾いた日に広げてみようと思います。
母の命日も近いですし、喪服を通して母と祖母と語り合ってみたいと思います。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木真砂女の俳句と夏着物

2019年06月11日 | こぼれ話(着物)
私は単衣や夏の着物が好きです。たまに出かけるときにしか着ませんが、何か特別な気持ちになります。
真夏に羅(うすもの)を涼しげに着ている姿を街で見かけたりすると、思わず見とれてしまいます。
今まで何度かハッとする美しい着物姿に遭遇したことがあります。
特に高齢の方で毅然と、でも自然体の方を見るとよきお手本として心に留めておきます。
夏の着物姿はその人の生き方、考え方までよくあらわれるように思います。

知人が「鈴木真砂女全句集」(角川書店)にたくさん着物や帯の句があることを教えてくれました。
図書館で借りてきました。

真砂女(1906年 - 2003年)さんは銀座の有名な小料理店「卯波」の女将で、また俳人でもありました。
以前はテレビなどでよく拝見しました。小さな店の中できびきび小走りに働いてらっしゃいました。

最初に結婚した夫は子供一人を残して失踪、実家に帰ったと思ったら、大きな旅館の後を継いでいた姉の急逝。親の説得で亡き姉の夫の後添いになるものの、別の男性を好きになり51歳で夫を捨て、家業を捨て上京。知人らの協力者から借金をして銀座に小料理店を持つようになる。

俳句は日々の何気ないことを詠んでいるようで、胸に迫りくるものがあります。愚痴や弱みを人には見せずとも、句には日々の思いが正直に詠われていると思いました。

夏帯、単衣帯、羅(うすもの)、浴衣、足袋、夏足袋を季語として入れた句のなんと多い事か。
袷の句もないことはないのですが少ないのです。
店で暮らしを立てるために生きるために着た戦闘着としての着物の句です。
真夏も当然着物で働いたから自然と汗を滲ませながら締めた夏帯や単衣帯の句がたくさんあります。
足袋もたくさん出てきますが、足元と、帯が要。自分の精神を立たせる重要なものです。そういう意味では厳しい俳句です。

41歳~70歳までの句から20句だけピックアップしてみました。

・夏帯や客をもてなすうけこたえ
・羅や人悲します恋をして
・夏負けせぬ気の帯を締めにけり
・夏帯や運切りひらき切りひらき
・夏帯やおのれ抑うることに馴れ
・明日死ぬもこころ平らや紺浴衣
・買い出しの日の夏帯を小さく結び
・単衣着て常の路地抜け店通い
・単衣着て老いじと歩む背は曲げず
・ほととぎす足袋脱ぎ捨てし青畳
・水無月やあしたゆうべに足袋替えて
・気疲れの帯解きたたむおぼろかな
・わがくらし夏足袋に汚点許されず
・暑に抗すとりわけ足袋の白きもて
・恋すでに遠きものとし単帯
・夏帯に泣かぬ女となりて老ゆ
・単帯をとこ結びに日曜日
・愛憎のかくて薄るる単衣かな
・衣更えて小店一つをきりまわし
・単帯しゃっきり締めてにくまれて
・なりわひの足袋穿けど足袋は継がず

晩年の70歳以降になるとようやく装うための楽しみの着物の句も出てきます。

・格好よく帯の結べし薄暑かな
・牡丹に仕立ておろしの絣着て
・辻が花一度は着たし菊日和
・働いて作りし花見衣かな
・秋扇少し覗かす好きな帯

俳句文化もすごいものですが、鑑賞はそれぞれにしていただくとして、着物(単衣、袷、うすもの、縞、絣など)、帯(夏帯、単帯、半幅帯など)、足袋だけでも俳句は作れ、そこに何かしらの象徴的な意味や思いを表現できるというこの着物文化も絶やしたくないですね。

この夏は何度着物に袖を通すでしょうか?
着るのは少し大変なこともありますが、暑さ対策などして、無理をしすぎないよう着物を着たいと思います。
私は足袋に継ぎを当てちゃうタイプですが‥。(^-^;




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌人・馬場あき子さんの着物、祖母の着物に思うこと

2019年03月23日 | こぼれ話(着物)
先日、NHKの[こころの時代~宗教・人生~ 「歌詠みとして今を生きる」]という番組に歌人の馬場あき子さんが出演されていました。
以前はよくTVでお見かけしましたが、91歳になられた今もお元気にご活躍されているご様子を拝見しました。
プロフィール、短歌との出会い、戦争、学生時代、教員時代、能のこと、短歌のこと…。
お話の内容も大変興味深いものでしたが、そのお話される姿の美しさにもハッとしました。

お召になられていた着物は最初の映像では、藍鼠地の縞物に、白地に薄墨で抽象文様を描いたようなシックな素敵な帯をされていました。ごく淡いグレーの帯揚げ、柔らかな橙色の帯締め、袖口の襦袢はピンク色が少し覗いていました。
帯がアップになることはなくチラッと覗くだけでよく観察はできませんでしたが、とても上質のものだと思いました。

実母を早くに亡くし、祖母やおば達に大切に育てられ、後に美しい継母に育てられたということなども語られていました。
その美しい継母にいい格好を見せたくて、それまであまり勉強はしてこなかったけれど勉強をするようになり、本もたくさん読んだということでした。
そういう方々から受け継いだもの、また善いものを見る機会も多かったのではないかと思います。
馬場さんは能の研究者でもあり、能舞台の前で、訪問着に箔使いのような見事な袋帯をされたお姿も映像で流れましたがその品格に惚れ惚れしてしまいました。
上質ではあるけれど、決して華美な感じではなく、落ち着き、品格、風格、90歳を過ぎた媼の美しい姿がそこにありました。

着物を着ることはただファッションとしてだけではなく、その人そのものをそこに反映させる、恐ろしくもありますが、滲み出てくるものは、その人のありのままの姿であるようにも思えます。
戦前の日本人は着物に対して貧しき者も富める者もそれなりのこだわりをもち生きていた。そのことは人の誇り、矜持でした。


明治生まれの私の母方の祖母は70代で亡くなりますが、三重の山中で暮らしていました。
上の画像は母が祖母の形見分けで、緞子の丸帯の一部をもらってきたものです。地味な祖母らしい好みですが、実際はとてもいい糸質で色も草木染めと思われます。
祖母の残した少しばかりの布にもその矜持を感じるのです。慎ましやかでありながら、毅然と布を見極めている姿が浮かんできます。

祖母は、モノクロームの遺影の中で細かい絣の黒っぽい絹物を着て、白茶地に品の良い細かな模様が(松葉と梅の花のような‥)織り出された絹の織り帯をして写っています。

母によると、ある日自分で街の写真館へ行って撮ってもらったようです。来るべき日の準備を祖母にとって一張羅と思われる絣りの着物を選び、一人で一里も離れた街まで出かけた。
二人の子供を授かったものの夫を母が小学生の時に亡くし、それからも先妻の子供3人を一緒に育てながら、看護師もしながら、林業を受け継いだ長男、孫二人と暮らしていた祖母でしたが、亡くなった時には村々から老若男女が葬儀に来てくれたということでした。
葬儀の時にはこの人には世話になったので、着物の片袖でもいいので欲しいという人もいたと母は私に話してくれました。


祖母の遺影は母の形見として私が引き継いできました。額に入っていませんでしたが、私が額装し、毎朝手を合わせています。見守っていてほしいのです。
その遺影の中で着ている着物は祖母が自分で自分に相応しいものを選んだのでしょう。時代背景や教育、置かれた環境などが色濃いように思います。

歳をとったら黒っぽい着物を着て、半襟も黒くし、細かい柄の帯を小さく結んで・・。
明治、大正の頃は女性は人間としての尊厳や自由さえ認められていませんでしたので、祖母も歳をとったら地味でなければ、、などと思っていたと思います。親の決めた人と一緒になり、嫁しては夫に従い、仕え、子を生み育て…老いては子に従う、というプレッシャーの中であったことは間違いないでしょう。女性の参政権さえない時代だったのですから。

村で困っている人の力になりたいと法医学の古畑種基先生のお父様が開業医で、その病院で手伝いのようなことをしながら、産婆と看護師の資格を取りました。長男は祖母が働くことはあまり良く思ってなかったと、母から聞いたことがあります。“職業婦人”という言い方があって、当時は世間でも嫌がる風潮があり、男としては世間体もあり嫌だったらしいです。今では考えられないようなことですが、、。

しかし祖母は子に従わず、必要としてくれる人のために身を尽くしたのだと思います。でもその長男も継母である祖母をとても大切に慕っていたようです。

私は祖母と離れて暮らしていましたので、母が時折話してくれた昔話だけが思い出となっていますが、母が最後に入院した時に、私は藁をもすがる思いで祖母に母を助けてもらいたく、遺影(まだ額装はしていませんでしたが)を病院へ持っていって母に見せてあげたことがあります。母はしばらく写真と向き合いましたが一礼をして、「もう心配を掛けたくないので家に持って帰ってくれ」と私に言いました。私ならそばにいてほしいと思うのに親子であっても親に対して甘え、心配を掛けてはいけないという昔の教育を受けた者の厳しさを感じました。

私はたっぷり親に甘え、言いたいことを言い、自分の好きなように人生を進んできたけれど、最後に母が言ってくれた言葉は「あなたは好きなように生きてきて、それでも自分のものを掴んだんだね。これで良かったんだね」と。

封建的な教育を受けながらも本当のことに気付いていたリベラルな女性たちは多かったと思うのです。
母は婦人参政権運動の草分けの市川房枝さんを尊敬していましたから。
未だに選択的夫婦別姓さえ認められない日本は相変わらず自立できない国ですね。。

さて、話がすこしそれたようになりましたが、でも生きることは着ることであり、着ることは生きる姿である。自由に自立した生き方は着るものにも反映されて来ると思います。生き方も着方も一体であると思うのです。

特に女達が着ることや布に対する執念が強いのは、見栄からくるものだけではない、根源的な生きる本能の強さのように思います。
何を着るかは人それぞれですが、使い捨てられる衣服からは培われない学びが、上質の着物にはあるということを先輩方の着物姿からも学ばせてもらうことができます。

祖母と馬場さんの着物は対局にあるようですが、その違いは問題ではなく、何を選び、着るかを見極めているかだと思うのです。私の場合は、自分自身を知り、磨くにはまだまだ時間がかかりそうですが、、、少しでも高めていけたらと思います。

お彼岸に布や着物を通して祖母や母を偲び、また現役で活躍される馬場あき子さんの着物姿からも学ばせてもらいました。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年もお世話になりました!

2017年12月30日 | こぼれ話(着物)



今年の最後は年明けから織るものの整経をアシスタントにしてもらいました。どんなものになるでしょうか・・?

今年もいよいよ押し詰まりました。
本日、工房は仕事納めです。お世話になりありがとうございました。

今年の10月には紬織の修業に入ってから40年を迎えました。この間多くの方に支えていただきました。
40年を振り返りながら、これからの進むべき道を考えるこの半年でもありました。

十数年前10ヶ月ほど無理がたたって身体を壊し織の仕事ができない時期がありましたが、それ以外の日々を紬を織ることに明け暮れ、お陰様でなんとか暮らしも立てることもできました。

修業時代に始まり、苦しいこと辛いこと、いろいろありましたが、この仕事をやめたいと思う日は一日もありませんでした。
苦しいこと、辛いことがあってもいつの間にか糸と向き合えば無の境地に入って仕事を進めています。糸や色や布の風合いが美の世界へ引っ張ってくれるのです。
人は布を織るように生まれ、布がなければ生きていかれないように生まれついています。

紬塾へもこの9年間、一人二人とどこからともなく!?(^^)お集まりくださり、来年は10期目になります。
紬とは、美しいものとはなんだろうと・・と関心を持って一緒に学び、深く考えてくださっています。

創るにせよ、着るにせよ、こんな時代であっても、温かく力強い紬布に惹かれる人は絶えることはないように思います。一人でも多くの方に紬や着物をいいものだと思ってもらえたら嬉しいです。
来期、10期の募集については1月の下旬にご案内いたします。

手仕事なら、紬なら良いとは思いませんが、善い紬を絶やさないようしっかりした技術を後進に伝えながら制作も進めていきます。
工芸は善きものを作ることが基本にあります。その基本だけは伝えたいと思います。

来年2月の下旬に工房展を予定しています。現在その作品制作に追われていますが、春にも使える新作のショールやマフラーもこれから織ります。またご案内いたします。

お正月は普段できないでいる読書、音楽を聴いたり、年に一度の朝酒を愉しんだり(#^^#)、ゆっくり過ごします。
着物で佳きものを観に外出する予定もあり楽しみです。
新たな年を迎える節目に身も心もリセットして、また染織の仕事をさせていただきたいと思っています。

工房は年明け6日から仕事始めとなります。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

世界が平和になることを心から切望しつつ、読者の皆様もどうぞそれぞれの佳いお年をお迎えください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物の来し方、行く末を詠む

2016年07月27日 | こぼれ話(着物)
片付けものをしていて見つけたのですが、30年近く前に銀座の呉服店「むら田」さんで、インドの古渡り鬼更紗の帯を購入し、その際にいただいた冊子、「きものの話あれこれ― 追想 村田吉茂」が出てきました(発行年が書かれてないのでいつのものと明記できないのですが、先代の吉茂さんの雑誌掲載コラムも収められています)。

その中に[「むら田」と母 ]と題された後藤田夫規子さんの寄稿文があり、その86才で亡くなられたお母様がむら田さんで着物をお作りになられていたようです。娘さんはあまり普段は着物を着ないご様子が文中から伺えます。
決して贅沢だったと思えないお母様であったとのことですが、遺されたたくさんの着物を前に、どう受け継げば良いかを逡巡されている文でもあります。
お母様の後藤田恵以子さんは短歌を詠まれる方で、いくつかの歌集から着物にまつわるものを選んでそこにあげておられます。
着物に対して厳しい目をお持ちだった村田吉茂さんへの追想とともに着物を通してお母様への追慕が綴られています。

着物をある程度知っている方、あるいは年配の方にしかわからない歌もあるかもしれませんが、一昔前の日常の中に、生きることとともにあった美しい布を慈しみ大切に着た時代が浮かびあがってきます。
そして僅ばかりとはいえ我が身の着物の来し方、行く末に思いを巡らせています。
大切に選び、大切に扱いつつとことん着る。自分で着れなくなったものはどなたかに継承してもらえるものはお譲りし、最後は着物の短歌か俳句の一首も残して終わりたい、、終われたらいいなぁ、、と思いました。^^;

作る人も、売る人も、着る人も真剣勝負でプロとして生きた時代にもう戻ることはできないかもしれませんが、忘れないでいたいと思います。
そして洋服の形であっても「着るもの」をおろそかにしてはいけないと改めて思います。
掲載されていた八首すべてをご紹介いたします。

・わが生もおおかた過ぎしと思いつつ今年の夏の着物ととのふ

・染めあがりし着物ひろげて部屋に居り冬の日のさす畳あたたかし

・おほ母の古き藍染めの麻ごろもけふ着て吾のいのちすがしも

・まれに来て銀座に立てば群衆の中に和服を着る人を見ず

・染料の樹皮煮るにほひ暑き日に黄八丈織る島にわが来つ

・一日にしばしば着物替ふるなど寒暑によわくなりしと思う

・老いてわが背丈小さくなりゆきて去年も今も着物をなほす

・少女の日着し菊模様のちりめんを媼わが着る半てんとして

                           後藤田恵以子


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

涼しげ

2011年08月04日 | こぼれ話(着物)
6月、7月は麻の着物でよく外出しました。
会う方からは「涼しそうですね」と声をかけていただくことが多いので、「はい涼しいです…」と答えるのですが、
周りの方には少なくとも涼しさを感じてもらえたなら嬉しいことです。^^;

たまに「この暑いのに着物で…(よくまあ~)」とおっしゃる無粋な方もあり
「いいえ涼しいです!」と反射的に答えてしまうのですが、~~;

幸田文(小説家 1904年~90年)『きもの』は紬塾のテキストでもありますが、
同じ幸田さんの随筆集に『月の塵』(講談社刊)というのがあります。
その中の1967年8月に書かれた「ひさご」という文章に、
最近涼しげな人をあまり見かけなくなったと、40代の女性が、
「襟も胸も膝も申し分なく開放されていて、涼しげではなく本当に涼しくなっている。
けれどもどうしてだか、涼しげに見える人はいないように思えるのが不思議できいてみた」と問いかけられ、
その時は何故なのか幸田さんは答えられなかったのですが、
一眠りした後にふっと解けた「和服だけしか着ていなかった時代には女はひとりでに、
和服による気取り、というものが備わっていたのだろう、と。
それが、げ、ではなかったろうか。今は消失したものである」と。
(「げ」とはたとえば「涼しげ」という場合の「げ」です。つまり「気」ですね。)

なるほど、確かに着物を着たときのある種の緊張感のようなもの、
それが気取りなのだと思うのです。
暑いときの着物は着てしまうと案外スキットした気持ちにもなりますし、
見る人にもそれが涼しげにも映るのだと思います。
さすが着物を着尽した人の言葉ですね。
この夏、“涼しげ”にきものを着てみませんか?



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする