中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

追悼 立松和平さん

2010年03月29日 | 作家
小説家の立松和平さんが2月8日に亡くなられました。
62歳での急逝が信じられず、とても残念でなりません。



『美しいキモノ』1996年9月号より



立松さんは1996年の7月初旬、当時私が住んでいた川崎市麻生区の家へ、
『美しいキモノ』の編集者とともに取材で訪ねてこられました。
まずは居間にお通ししたところ、1枚の絵がかけられただけの何も置いてない部屋の中で、
自分は何をしに来たのだろう?と戸惑われたような表情をされていました。
第一声は「わー、きれいだ…」(部屋が)でした。

ソファーに3人で腰をかけ、私の話をメモにとるという形の取材が始まりました。
立松さんは小さなメモ帳をせわしなくめくりながらメモをとり続け、
質問をされることはあまりありませんでしたが、貧乏暮らしの話になると、
「僕なんか紙も食べた」などと懐かしそうに笑いながら話されてました。
私も初めてお会いした方とは思えないほどにリラックスして、
紬の仕事の話を淡々としていきました。

午前中は話のみで終わり、昼食後は染色場でもあるキッチンで、
隣の家からもらった杏の枝で染めるところを見てもらい、
その合間に家の周りを一巡して染材になる植物を説明したりしました。
次に機を置いてある2Fで糸や織るところの写真を撮り、
そのあとは桜で染めた糸や着物や布をひろげ、最後は私が糸紡ぎをするところを、
立松さんはもうメモをとらずにじっと見ている時間を過ごしました。
その頃には雑談のように、立松さんからもいろいろ話が出てきました。

帰りの駅に向かう途中、植物の話や、自然の生態系を無視した緑化はいいのか?とか、
個展で得たお金を全部ヨーロッパ旅行に当てて美術館めぐりをしてきた話など、
たくさんお話をさせてもらいました。
そして別れぎわに、初対面の私にとても親身な言葉を優しいまなざしでかけてくださいました。
私は「ありがとうございます」とは言ったものの、真意は測りかねていました。
有名な小説家が、私のような身一つで細々と仕事をしているだけの人間に、
社交辞令で声をかけてくださったのかとぐらいに思っていました。



『染めと織りと祈り』の単行本(アシェット刊)



しかしそれから4年後に、『美しいキモノ』で連載された「染と織りと祈り」の20回分が
一冊の単行本にまとめられて出版されることになり、
その記念の展覧会のオープニングで立松さんがご挨拶をされたときに、
私を取り上げて、取材時の印象が深かったという話をみなさんの前で披露されました。
私は周りの人のことを思うとちょっと困った気持ちにもなりましたが、
今は本当に素直な気持ちで、ありがたく受け止めさせてもらっています。

立松さんは42年の間に300を超える作品を書かれたそうです。
私も32年の間に修行時代を含めて300反以上を織ってきました。
文学と染織、とジャンルは異なりますが、ペンと原稿用紙だけでどこへでも行き、
どんな人の話でも聞き、自分の中に取り入れ、言葉にしていく仕事や立場を、
どんな所で暮らしても染織はできると話した私の仕事の中にも、フラットな目で
見出してくださったのだと、今は気づいたのです。

『染と織りと祈り』というタイトルは立松さんが考えられたものですが、
小説や文章を書くこともまた修行であり祈りなのだと、
それが生きることなのだと思うのです。
3月27日のお別れの会に参列させてもらいましたが、
ある方が弔辞で、立松さんが人の話を聞きながらメモをとる姿は菩薩だった、
と言われていましたが、私も同感です。

本当にお疲れ様でした。
そして人が人に影響を与えるとはどういうことかを
黙って示してくださいましたことを心からお礼申し上げます。
『染と織りと祈り』(アスペクト刊)の私についての原稿のタイトル「都市は森である」も、
立松さんが、私を取材した翌日出かけていった先の知床で、考えてくださったものです。
多くの方から反響をいただき、自分の着物は自分で織る「地織りの会」を
立ち上げるきっかけともなりました。ご一読いただけるとうれしく思います。

これから個展向けに織る最後の一反は、桜染めの淡いグレーの糸を使おうと思っています。
4月にはいつも桜染めの糸を使って織ることにしているのですが、
すべてを含む灰色、燃え尽きて、そしていのちを生み出す灰の力。
立松さんに捧げる、そんな思いも込めて織ってみます。
                                      合掌

コメント