中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

宗廣力三先生の仕事から受け継いだこと

2023年02月25日 | 紬織り人間国宝・宗廣力三先生
紬きもの塾では初回に、紬縞織、絣織の人間国宝の宗廣力三先生(1914年4月25日 - 1989年11月21日)の仕事についても作品集(日本経済新聞社刊)を見てもらいながら、すこしですが触れます。



トップの写真で私が着ている紬は、工房を卒業する半年前に真綿を一反分渡され、工房から帰った夜、毎日糸をつむぎ、母の為に織った紬です。この一反が、自分の作品としての始まりでした。シンプルで素朴な温かみのあるものを作りたかったのです。師の教えの核になるものだったと思います。着るための紬です。先生からも素朴でいい紬だと褒めていただきました。
この着物にもみなさんに触れてもらっています。






先生は1982年(昭和57年)重要無形文化財「紬縞織・絣織」の保持者に認定されました。
洗練された手結い絣で人間国宝に認定されましたが、紬糸の風合いを大切にし、デザインや色に溺れることなく、紬の本質を追求した方だと思います。

先生は染織作家になるために紬を始めたのではないのですが、私は作家以前の先生の格子の紬に特に惹かれます。

私が先生の郡上紬研究所分室、菊名工房で学ばせて頂いたのは1977年-1980年でした。
そして先生の健康上の理由から、郡上と菊名から離れ、南足柄の山の中腹に新しく工房を構えました。その時には、敷地斜面の開墾のお手伝いにも行きました。先生は野菜作りもお上手だったようです。

77年に先生の銀座・和光での個展を拝見し、会場の片隅にあった、刺し子織りの紬の力強さ、やすらぎに感銘し、こんな仕事なら一生を賭けてやってみたいと思い、先生に手紙を出しました。お返事を頂き、郡上八幡の研究所へお尋ねさせてもらいましたが、その時すでに3名ほど新たに入所する方が決まっていて、何年か待たなければならないということでした。

ただ、当時私は東横線の代官山駅(渋谷の次の駅)の近く住んでいて、先生から横浜の分室、菊名工房なら1名可能というご連絡を頂き、東急東横線で1本で行かれる工房へ、勤めを辞めてその秋から通い始めました。あれから46年近くになります。

先生の仕事をさせて頂く中で、たくさんの教えを受けました。
織物の基礎と、紬織りに大切な核となるものを学びました。
46年続けて、その教えに間違いはなかったと確信しています。
表現以前の風合いや堅牢性など、大事なことを学べたことは大切な宝物です。

ただ自分の創作を楽しむ作品ではなく、人手に渡っていく、世に出ていく仕事をする上では大切なことです。

基礎のない織物は一目見れば分かります。一瞬で分かります。
「下手な手織りは機械に劣る」と仰られた先生の言葉も良く思い出します。

もの作りは織物でも、他の芸事でも、どのジャンルでも同じだと思います。

紬きもの塾23の受講生受付は3/18(土)からです。
HPからお申込みいただけます。


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宗廣力三先生の紬縞に思うこと

2019年12月28日 | 紬織り人間国宝・宗廣力三先生
 
京都の知り合いが秋に亡くなり、先日、偲ぶ会に行ってまいりました。
その際に、数珠を持って出かけたのですが、新幹線の車中で数珠入れを眺めていて、いい縞だとしみじみ思いました。
 
この半月型の数珠入れは、私の師である宗廣力三先生が89年11月に亡くなられた際の香典の返礼品として頂いたものです。おそらく郡上から南足柄に仕事場を移されてから、織られたものと思います。
単純な縞のようでいて、洗練された工夫が随所にあります。
 
高度なことというのはこういうことだと思うのです。強い表現でもなく技工をいかにも凝らしたものでもなく、長い年月の中で培われてきた紬糸一本一本の存在を見極められる力、かといって古い時代のものとも違う――。先生ならではの縞模様だと思いました。
 
 
 
よく先生は、“やすら”という言葉を使われ、「安らぐ、安らか」というような意味合いで使われていたと思うのですが、地糸と色糸を1本交互に入れるときによく、“やすらで”とおっしゃられていました。
これは経て縞ですが、ヨコの段を入れるときによく耳にしました。
生地アップの写真で、地糸と色糸が混ぜられ、奥行き感や、柔らかさ、優しい感じが出ているのがよくわかると思います。逆にベタ使い(地糸と混ぜないところ)のところは強く浮き上がります。
際にピンクの糸が1本、白の糸が1本、少し離れて添えられています。ここは地糸が2本入っています。何気ないひと工夫です。
 
 

下の名刺入れは拙作ですが、初期の頃の縞です。この経てで、着尺とを織りました。地の部分にも濃いベージュの縞を入れたりして奥行きを出そうとしています。藍の縞も濃淡2色使っています。
 
こうして並べてみますと、共にシンプルだけれど味わいや奥行きを、糸という他力をまず最大限に生かそうとしているところは師弟で同じものを目指してきたのではないかと、車中で二つ並べて感慨深く思いました。
 
若い時に身につけておくべきこと、働き盛りにすること、年齢を重ねてするべきことそれぞれ違いはありますが、でも初めから、何を大事にするかはそう変わらないように思います。
 
ものの大切にすべき本質は最初の方向性である程度決まり、あとはその本質を知るための様々なタイプの仕事をこなし、気付き、技を磨く。修練は一生続くのですが、年月を経て、未熟だった時の初心に戻り、また年を経たものに相応しい、今やるべき仕事は何か、自分にできる仕事は何かを改めて問うていくことかと思います。
 
そして、冒頭に書きました偲ぶ会で、亡くなったアーティストの知人をよく知る方から「中野さんの着物を着たかった‥」と聞いていたということを知らされました。残念ながら実現はしていませんでしたが、私より少し年上の方ですが、私の仕事を理解して下さったお一人で、その言葉は、私にとって、今後の支えになります。お世話になりながら、ご無沙汰して、不義理をしてしまいましたが、近いうちにお訪ねしたいと思っていた中のことで、とても残念でなりません。彼女のスタジオで会は行われましたが、藍微塵の紬に祖母の黒喪帯を締め、お別れをしてまいりました。道すがら、雨が降り出しました。
 
洛北や夕べ時雨て偲ぶ会        
                              合掌

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、今年もあとわずかになりました。工房も本日ほぼ仕事納めとなります。HPの更新などはまだこれからなのですが、、。(^-^; 
たくさんの方にお世話になり、ありがとうございました。お陰様で無事仕事をすることができました。来年も紬の糸や植物の色を見極めていけるよう日々精進をしたいと思います。
 
年末年始の休暇の期間を以下の通りとさせていただきます。
20212/29(日)~1/5(日) 年末年始休業

期間中にいただいたご注文、お問い合わせに関しましては、20年1月6日より対応させていただきます。ご不便をお掛け致しますが、ご了承くださいますようお願い申し上げます。
 
今年も、世界中で自然災害の多い年でしたが、日本もモタモタしないで率先して、CO2削減に取り組んでほしいと願っています。
何はなくとも、健康で文化的な暮らしができる環境が一番大事だと、すべての始まりだと思います。
 
大変な境遇の中で新年を迎えられる方もたくさんおられると思いますが、来る年は少しでも好転するよう祈ります。
読者の皆様もどうぞよいお年をお迎えくださいませ。
 
 
 
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技を手渡し、美の根源を共有する

2019年09月06日 | 紬織り人間国宝・宗廣力三先生

          【都市の「地織り」をめざし――紬織に自然の素材の命を託す】月刊染織α(1999年11月号 No.224)

99年3月に京都祇園の小西さんで個展をさせていただきました。

紬織の人間国宝、宗廣力三先生の下で学ばせて頂いてから22年の歳月が過ぎていて、先生はすでに亡くなられて10年ほど経った時でした。 

京都という地で、とても刺激的ないろいろな意味で勉強になる個展でしたが、その折に染織α(現在休刊)の編集長の佐藤能史氏もご覧くださり、紬の仕事に関しての文を寄稿してほしいとの依頼がありました。文章は苦手で躊躇したのですが、文の上手い下手ではなく日々の仕事についてそのまま書いてほしいということで、よく考えれば20年余りを無我夢中で脇目も振らずに織りに打ち込んでいましたので、そのことを振り返る良い機会を頂いたと思いお引き受けしました。宗廣先生から受け継がせてもらったものと、その後私が実践の中で気付き新たな試みも加えてきたこと、そしてその紬織の大事なところを次の世代へ継承したいことなど、一気に書き上げました。そのバックナンバーはもうありませんが、興味のある方は大きな図書館などで探してみてください(写真上、見開き4ページ。HP掲載書籍に一部抜粋の文章を上げています)。

たくさんの反響が編集部にもあったようで、私の方へも問い合わせ、講演の依頼などもいただきました。

さて、私の下で染織の仕事と工房の事務的なことを5年余り続けてきたアシスタントが、その仕事の合間を縫って少しずつ自分の紬も織るべく準備を昨年から進めてきました。以前に手渡しておいた前述の私の寄稿文を改めて読み返してみたということで、今後の制作に向けての決意を表明してくれましたので、下記にご紹介します。

ちなみにアシスタントは週末は多岐にわたり、ジャンルを超えた企画展をする画廊で働きながら観ることの勉強もさせてもらっています。さまざまなもの、素材、技法、表現、古いもの、現代のものと、観る力もつけてきています。創作する上で、様々な質の良いものを観ること、聴くこと、すべて自分の血となり肉となります。技やものづくりの精神、美意識は、自分なりの受け入れ、再確認、発見、気付き、練磨となり新しいものが生まれてくるのでしょう。

すぐの独立ではありませんが、徐々に一人でも仕事できるよう体制を整えつつあります。本人の原稿にもありますが、出会い直し、勉強しなおし、まっとうな紬を織り、素直な美しい布を、世に問うていくことを期待してます。

織り物は趣味の方も多く、その延長上に私も置かれることが今でもあります。今の時代に着物を、布を織ることは趣味としか想像、発想ができないのでしょう。本来は生きるために、人生をかけて追及する仕事で、それは厳しい仕事です(たとえ自家用のものを織るのであっても)。手作りが楽しいから‥と安易にするのを否定するわけではありませんが、プロとして食べていく、人さまからお金を頂戴する仕事は厳しいものです。でもその布を対価と共に引き受けて下さる方がいらして喜んで着て下さり、役立てていただけることはプロとしての喜びであり、矜持となります。

独りよがりでもなく、お仲間とワイワイ楽しく‥でもなく、自分と向き合い素材と向き合い、着ることと向き合い、美の根源に触れるものを創るべく淡々と進んでほしいです。もし、それが無理と思ったら別の道を進めばよいです。というか、そうしてほしいと思います。今までのこの経験は決して無駄にはならないのですから。

以下アシスタントの文章です。作ることも観ることも紬織に限ることでもありません。ご一読いただければ幸いです。

         

昨年から少しずつ自宅で染めてきた糸をならべ、さてどんなものを織るか。最初に思ったのは、かつて自分が美しい布に惹かれ憧れるきっかけとなった、昔々の名もない木綿や紬の縞や格子のような、素直で爽やかで力強いものを織りたいという事でした。そこで改めて文献や縞帳などを見返しましたが、古い木綿や紬の美しさに感動を新たにしつつも、どこかピンときません。ひとつひとつの模様から、良い縞や格子をデザインするための公式のようなものを導き出そうとする目でいつのまにか見始めていたのです。「ああ、いい縞だな」としみじみ思うまでは良いのですが、「これを真似るには何色を何本ずつ交互に」などと考え始めると急に頭が曇っていき、「いい縞」と素直に思ったその正直な感覚が遠のいていきます。これは本質から外れたことをしているな、という嫌な感覚でした。

基本に帰るべく過去のノートを見返していて、ある文章と再会しました。「紬織に自然の素材の命を託す」と題して中野先生が20年前、染織α(1999.11月号 No.224 )に寄稿された文章のコピーです。

そこには、中野先生が宗廣先生の工房から独立してすぐの頃の試行錯誤が書かれていました。使い込まれた古い丹波布や芭蕉布の美しさに影響を受け、模倣するが上手くいかない。そこであらためて、糸と向き合い、桜染と出会い、自然素材と向き合っていきます。「自分でこうしてやろうとか、こうなる筈だとか、素材をよく見もしない、知りもしないで自分の都合の良いように利用するだけで何もわかっていないと、桜は教えてくれた」「素材をよく見極めていくうちに、自然に導かれるように無理のない素直な色や文様が生まれてくる」と書かれていました。

そこに書かれていることは、中野先生と何度も話してきて、教えていただいたことばかりです。しかし、私が知ったような気になっていたこと、糸や、植物や、色や、生活や、素材のあらゆることと、これから再び自分の目で出会い直して、勉強し直していくのだと思います。

素材の力を生かしながら、しかしそれに寄りかからず、人の手でより良くする。言葉にすると月並みですが、本当にそこに到達できる人はどれだけいるのでしょうか。私が辿り着けるかはわかりませんが、向かう場所を分かっていれば、おかしな方を向いた時に「まずい」と思えるはずです。その方向感覚は大切にしたいと思っています。 

手元にある糸は、色数も量も多くはありません。織るための道具も、ものによっては現在製造されていないものや、自分の体や作業場のスケールに合わなかったり、あるいは経済的な理由もあり、潤沢には揃いません。有難くも譲って頂けたもの、自作したもの、中古品に手を加えたりなどしながら、最小限の道具で、1反目に臨もうとしています。

寝食する場所のすぐそば、仕切りの向こうの狭い場所に道具を並べて、産地などの立派な工房に比べれば、おままごとのような作業場です。しかし、私はこれで良いと思っています。昔々、自家用や農閑期の副業として布を織った人たちも、同じように限られた生活スペースの中で最小限の材料と道具で機織りをし、美しい縞や格子を生んだのではないかと思うからです。中野先生の文章の中で「どんな環境でも、身ひとつでも、十分な素材が揃わなくても、ありあわせで工夫しながら美しい布は織ることができる」とあります。私は、そういう場所から生まれた布に、近づいていきたいと思っています。】

 

 

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