中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

第4回紬塾「日本の取り合わせ」――ものの力を合わせる

2019年11月15日 | 紬きもの塾’17~’20
紬の着物と言っても普段着から略礼装まで、おしゃれ度の高い紬も昨今は多いと思います。質感もそうですし、訪問着や付け下げの柄付けなど様々です。

紬塾の取り合わせワークショップでは着尺3反(グレー地、ピンクベージュ地無地系、焦げ茶地の縞)に帯を5本(紬帯、染帯、織り名古屋帯など)、草木染帯揚げ、帯締めも20~30色、用意しました。

創り手として、日々自然の色を見ています。隣り合う色で色の見え方は変わってきます。共鳴しあう色があります。織り物の陰影もあります。
紬を制作する上で、いつも着ることを、取り合わせられることを意識しています。私は着物コーディネーターではありませんが、色やものを見る力は日々鍛えているつもりです。そんなことで私なりの視点から取り合わせワークショップも行っています。

このワークショップになると、みなさんの発言にプライベート感が出てきます。(*^-^*)
装うとなると、いつ、どこへ、どんな場合、どんな心情で、誰と、、など。みんなでワイワイ言いながらの発表となりました。ストーリー(ありえそうな、、)を作るのも楽しいのです。

知り合いの素敵な男性ピアニストのコンサートへは女ぶりを上げるフェミニンな小物の色使いを、お客様をお招きしての利き酒会はホスト役としての落ち着きの中にも話題提供になる染帯をチョイス!能楽鑑賞には格を備えた吉野間道、親しい人とのお花見などは軽やかな色の取り合わせ、高級な温泉へは無地系の紬に格子の帯であまりかしこまりすぎずに、カジュアルエレガンスの雰囲気で。ガラスの美術館へは透明感を意識して、現代アートのギャラリー展示には作品の邪魔にならないようモノトーン系で抑えながらも帯揚げに少し華やいだもの、、などなど。

単なる色のコーディネートではなく、季節(移ろい)や心情も盛り込める自由さが紬(洒落着)の装いにはあります。紬の着物に紬帯、織り帯、染帯はもちろん、袋帯もものによっては合わせることもできます。


さて、取り合わせは帯や小物ばかりではなく、何より着る人と合わせなければなりません。
毎年、「取り合わせの回」では、私は一番似合わない紬を着てみなさんをお迎えしてます。過去のブログにも書いてきましたので、繰り返しになりますが、いまいち肌映りの悪い着物を着る場合の参考例として着ております。
25年ぐらい前に、必要に迫られ、急に在庫の中から作ったものでしたが、ピンク系の私の肌とは映りの悪い“秋色”。黄茶系が私は難しいのです。そこで帯や帯締め帯揚げ、八掛で少しカバーできることをみなさんに見て頂きました。

秋には秋の色を着たいと思うのですが、全部秋色にせず、ピンク肌と合う、シルバーグレイ地に青や黄色があしらわれた堺更紗の帯を合わせてみました。帯締めには紫みの焦げ茶、帯揚げは赤みのベージュを使いました。


似合わないから着ない―ではなく、そのものが、もし力のあるもの、包容力のある色相のものであるなら、なんとか取り合わせでカバーして着ることができます。また、年齢によって、季節によって着にくい着物も、加える色を工夫して、大事に着ていきたいです。
ものととことん付き合っていく、添っていくと、そのものの個性も理解し、受け入れられるようになる場合もあります。それは自分自身の柔かさ、しなやかさも要求されます。
この紬は、自宅近くの原っぱで、老いた母としばし佇み「きれいだね~」と言いながら眺めた草紅葉の美しさを思い描いて作ったものです。庭の小鮒草で染めたモスグリーンや黄色、茜の赤などが織り込まれています。だんだん自分のものになってきたように思います。

そして大事なことをもう一点、色や模様や、素材の取り合わせはもちろんのことですが、いくら色が合うからと言って、上質の紬に、力のないファブリック類で帯を作るわけにはいきません。
ものには格というものがあります。普段着、礼装の格の差ではなく、そのものが持っている格、品格です。それは素材であり、技であり、魂であり、見識であり、自然です。

そこを見極めて合わさなければ、ちぐはぐになってしまいます。
着物の究極の上質な取り合わせをするには、ものの力を合わせることから始まると言ってもよいかもしれません。

過去のブログも同じようなこと書いていますが、未読の方、興味のある方はご覧ください。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第4回染織実習ー織る

2019年11月10日 | 紬きもの塾’17~’20
第4回「染織実習ー織る」を3名の方で行ないました。
織りは全く初めての方2名と、以前の紬塾で染織実習を体験した方1名でした。
今回もとても良い布が織り上がり、ホッとしています。
いつものように私が織るのと同じレベルのことをしてもらいました。

基礎コースを終えた方(終える方)で、来年度の染織コースを検討中の方は、私の方へお申し出ください。初めての方が優先ですが、2回目の方も席があれば可能です。


まず1番目の方は、繊細な微妙な色遣いで織り上げました。
初めてとは思えない完成度です。織り方も指示通りに織っていました。
布端の耳もきれいです。3人ともきれいですが、杼の置き方を気を付けるようアドバイスしています。耳端は織り物の柱のような大事な部分だからです。
簡単なテキトーな講習をしても意味のない事ですから、本格的に指導します。


機に座る姿勢も素晴らしいです!

以下はご本人の感想文です。↓
[先日は貴重な経験をさせていただきました、
経糸を毛羽立たせない、緯糸の太さから緯糸を入れる傾斜を判断する、足の踏み込み、作業は効率良く、緯糸の入れ方も片手で完結させるなど、気をつけるべきことがたくさんありました。
しかし、自分の糸のことや布のデザインに気を取られ、それらは二の次…いや、頭の外側に吹っ飛んでいました。
風合いとデザイン、どちらも満たしている先生の紬、出来上がるまでの多くの心遣いは、想像する以上の、そのまた上のものでした。
それでも、集中し、織っていく二時間はあっという間で、とても楽しく幸せな時間でした。
もっと、真綿を紡いでいたかったですし、織っていたかったです。ありがとうございました。 N.T ]



↑ 2番めの方は、太さがとても安定したよい糸をつむぎました。織り上がりもしっかりしています。普段はモノトーンの服や着物を着てらっしゃいますが、色糸選びではピンク系の濃淡を選ばれ、間にグレーとブルーの寒色系を配しました。
華やかな布になりました。思いがけないご本人の内面を見るような気もしました。

以下はご本人の感想文です。↓
[自分で真綿から糸をつむぎ、自然の草木の温さのある色を染めて、布を織る。
という貴重な経験をさせていただきました。

一枚の美しい布にはたくさんの愛情とたくさんの手間がかけられているのだということに改めて気づきました。
そして、そんな愛情を掛けて織られた着物は、次世代へ引き継がれ、着物で着られなくなれば、布になり、紐になり、最後は土に還る。その様に永く循環させていく事が大切と中野先生から教えて頂きました。
これから先は、そのことを思って着物を選び、着ていきたいです。

私が実習させて頂いて、一番大変だったのが、木を切り細かくして糸を染めるという工程がとても大変でした。織るという作業はデザイン含めてとても楽しく、ずっとやっていたいと思いました。

糸をつむぐ方や草木染めをする方がどんどん減ってしまうというのもこんなに大変な工程があるからだとつくづく感じましたが、なんとか、自然の恩恵、手作業の工程を次の世代に継承していかれるようにしていきたいです。
今回余った糸は持ち帰らせていただいたのですが糸も愛おしく感じました。 M.M ]


↑ 3番目の方は、織りは2回目です。以前もよく織れていましたが、今回はお祖母さまの羽裏を裂いたものと、自分でつむいだ糸も混ぜながら設計をしました。
筬打ちもしっかり中央を持ち、程よい音で打ち込んでいました。
トップの画像のものですが、色のチョイスも明確です。
柔らかな羽裏を裂いた端っこの毛羽も面白い景色を醸しています。ハサミで切るのとは違います。また、裂き糸だけで織るのとは違う糸の質感のギャップも生きています。
そして、2回目ということで、経糸を見る余裕が生まれたのでしょうか、しきりに経糸と緯糸の重なりによって生まれてくる色や陰影を語っていました。
織り物ならではの醍醐味の気付きがありました。さすが!と思いました。

以下はご本人の感想文です。↓
[実習は今回で二度目でしたが、前回からだいぶ月日が経っていたので、機に座るときはとにかく緊張していました。
真綿から紡ぎ、染めた自分の糸一色と先生の糸二色、祖母の羽裏を裂き糸にしたもの、全部で4種類を使いました。
経糸が濃い色だったので紡ぎ糸と裂き糸と交わってどんな表情になるのか、不安と期待が入り混じりつつ織り進めました。
糸の思いがけない太さにより設計した通りにいかないながら、臨機応変に緯糸を入れていくのもまた楽しいものでした。たった三寸五分の長さでしたが、とにかく集中。拙いながらシャトルのカラカラと滑る音、筬をトントンと打ち込む音。とても贅沢な時間でした。
織りあがった布はとても気に入っています。同色系でまとめたこと、裂き糸に乗った経糸の色。想像以上の表情が生まれました。
箪笥に眠っていた祖母の羽織りがこうして美しい布に生まれ変わった事もとても嬉しくてなりません。
経糸の整経など大変な作業のない、いいとこ取りの実習でしたが、帯一本着尺一枚を織ることがどれだけ体力、精神力を使って成されるかを再確認しました。
身近にある布が大量生産なのかそうでないのかに拘らず、どんな過程を経てきたのか、どんな意味があるのかという事に思いを馳せるきっかけとなりました。
ありがとうございました。 H.J ]




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物は公共性を内在するもの

2019年11月02日 | 工芸・アート
前回のブログにも書きましたが、秋冬色の染色を終えて、次は秋冬向けの着尺に取り掛かり、巻き込みまで済ませたところです。上の画像の紫茶地の細かな縞です。

たくさんの染糸のストックから使う色の選定にはじまり、設計、糸巻、整経、たて巻き、経て継ぎ、織り付けまでは、緊張と集中力を要する大事なところです。
経て巻きを終え、今はどんな感じになるか、期待と不安とが入り混じった気持ちです。

宗廣先生の工房を独立してからでも紬の着物や帯ばかり350点以上制作してきましたが、整経の前には夜眠れなかったり、朝早くから目覚めてこの色、この糸でいいのか、この間隔でいいのか、シンプルなものほど糸一本一本を見つめながら、ギリギリまで勘を頼りに詰めています。
毎回新たなものを作りますのでとても緊張します。

織り物は経糸がとても重要で、布を見るときにもまず経糸を見るとよいのです(上質の織物、特に紬は経糸で決まります)。
織り物は紙の上にデザインを描こうとしても糸の1本1本を描ききれるものではないので、緯糸が入るまではわからないと言っても過言ではないのです(紬塾の織り実習でみなさんがそれなりに味わいのある良い布を初めてでも織れるのは、経糸の力によるところも大きいのです)。
そして、糸の太さの違うものを混ぜながら織りますので、景色、陰影、光沢感など、かなり複雑で微妙で、とにかく織って布にしてみないことにはわかりません。

人に着てもらうために作るわけですので、他の取り合わせの帯などとも合わせなければならず、独りよがりの創作物ではないようにしなければなりませんし、すべて人の手で引き出された糸を使いますので、失敗は許されません。制約も多く難しいです。

さて、少し話が飛ぶようですが、工芸評論の笹山央氏が発行する『かたち――人は日々No.4』に「アートにとって公共性とは何か――『表現の不自由展・その後』からの教訓」というタイトルの文があります。「あいちトリエンナーレ19」をめぐっての騒動が先々月来起こり、それに関連した内容ですが、公共性ということをめぐってのアートと工芸の違いということに言及しています。

私なりに読み解くと、アートの自己表現性は公共性ということとは折り合えない要素を含んでいて、公共的な空間に迎え入れられようとすると、「いくばくかは犠牲を払わなければならず、行き着く果てには公共性へのおもねりを胚胎していくことになりかねません」とあります。
ざっくり言えば、国からの補助金が交付されなくなっても、むしろ拘束されることなく、地方の活性化に貢献するような活動をしていくのがアートの本来の在り方だというような内容です。すご~くざっくりですが、、。

それに対して、「逆に工芸の場合は、公共性を内在化することによってモノとしての価値を高めるという性質を有しています」とアートと対比するように括弧付きで書かれている箇所があります。

着物、着るものは公共性を内在したものであり、モノの価値を高めるべく練磨していくことは社会への参加、貢献にもなります。自分や身近な人、公共の場で共有する時間に居合わせる人々の中で、着物はその人の精神や思想など様々なことを表し、周りの人たちにもそれによって様々な思いを抱く。衣の文化は人に与えられた高度な精神世界を持っています(日本の着物だけではありませんが)。

また、工芸も着物もアートも、すぐれた作品は、個人の創りたいという思いから始まりますが、公共へ放たれた時からは、だれが作ったとかではなく、普遍性を有したモノになって、公の場で気負いなく人々の中に存在していくのだと思います。

そんなことを上記の文章から日々の仕事に照らして考えました。
様々な工芸、アートのジャンルの作家を評論する『かたち――人は日々』の詳細はこちらをご覧ください。 


庭のツワブキも花を咲かせ始めました。蝉の羽化みたいに花びらはすぐにはピンとしないでクシュクシュしています。
秋から冬へ自然は移ろい始めています。間もなく立冬ですね。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする