夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

少年期に音楽にも劣等生だった私、ここ45年ときにはクラシックも聴き・・。

2014-05-27 13:47:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

音楽を聴くと明記したが、恥ずかしながら楽譜も読めなく、楽器もさわれない素養のない男であるので、
やむなく拙(つたな)い感性を頼りに聴いていたりしている。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。
          

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
          

このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。

この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されて、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし (作詞・西條八十)・・、
とかぼそい声で唄ったりしていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
          

やがて私が小学校の高学年になると、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島のときおり爆発する活火山の由来だった。
         
          
私が小学5年になる頃、小学校の音楽教室にピアノが導入されて、
この当時の女の子の児童は、ピアノに触れることに羨望の的となっていた。

そして母は私が中学校に入学した1957年(昭和32年)の春、
やむなく田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹のふたりはピアノを弾いたら先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、
無理してピアノを購入した。

ピアノといっても縦型のアップライトで、これより遥かに高価なグランドピアノは遠い存在であった。

そして小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。
          

やがて私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、あえなく敗退した。

そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年〈昭和45〉年の春であった。

そして、この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、
ソフト商品の方が波長に合う、同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと創作などにも刺激があると思い、
面接を3回した中で無理難題を申しあげて、配属された。

私は音楽事業本部の仮正社員となり、ともかく現場を学べと指示されて、工場にある商品部に配属となった。
この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座のメーカーであった。

私は入社早々、商品部の商品センター働き始めた時、
この当時にヒットを重ねている歌い手、曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と職場の方は私の音楽の無知にあきれていた。

私は程ほどに文学、映画には詳しいと秘かに自負していたが、音楽は映画音楽分野ぐらいしか解らず、
多くの音楽の分野は殆ど無知であった。
          

やむなく私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、
この当時、流行(はや)っている流行歌、ポピュラーなどの曲を学んだり、
そして音楽月刊誌のクラシック専門誌の『レコード芸術』を購読した。

数ヶ月した頃、この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けて、
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたし、
やがて定年の5年前にリストラ烈風の中、出向となったりした。

そして音楽業界に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。

こうした中で、私は裏方の管理系の分野で奮戦する中で、給与を頂くたびに、
レコードのアルバムを少なくとも自社は1枚、他社は2枚程度を買い求めたりし、
やがてCD、DVDに変貌したが、定年するまで続いた。
そしてクラシックに関しては、『レコード芸術』を5年ばかり購読して、数多くの曲を学んだりした。
          

こうした中で、私が26歳が独身時代の頃、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。

今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけとなっている。

そして、母が苦労して購入したピアノは、私が27歳の頃に埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。
          

そして年金生活をしている中、いずれは私は死去するで、葬儀は簡素な家族葬として、
こうした中で音楽を静かに流して欲しい、と念願している。

選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、交響曲第9番の第三楽章、
アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいかしら、と敗残者のような人生を歩んだ私は、思ったりしている。

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コメント (2)
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